四十一層 : 神獣に背をむける手.02
悪魔領ナジェムにある執務室に、ソルヴァンは座っていた。
黒しか存在しない無機質な部屋に、淡く光る天井のウフ灯が沈黙を照らしていた。
普段と異なるのは、その天井に一匹の蝙蝠が下がっていることだった。
ソルヴァンは机の上に投げ出された報告書を一瞥し、端を指で弾く。
「……やはり、あの獏が動いたな」
デスクの前に立っていた二メートルを超える巨漢…エノワールは、彼の言葉に小さく頷き返す。
「”アツキ”捕獲のあと、ゼノラへすぐさま向かい、そのまま鬼灯通りへ。そこからハーウェンの時間に入ったため、一度監視を外してますけど…」
「ふん。奴も沈黙は守るという最低限の教養があることは知っている。特に獏という種族は、死への信仰が深い。夜の間は動かないとは思っていたが…」
朝方すぐに行動をおこしたことも、予想の範囲だった。
ただ、その後の動きが問題だった。
「──ゼノラ層から、出層記録無しにイデラ層にいた」
そこにはない声がした。
“またか”とでも言いたげに、ソルヴァンは目を細めた。
エノワールが振り返ると、黒い革張りのソファに、当然のように座るガットが見える。
…ほんと、いつも知らぬ間にいるわね、この天使は……
それが当たり前と慣れてしまったエノワールは、彼の言葉を繋げる。
「見失った地点はゼノラの町外れにあるフォールドラークの女の家です」
「…フォールドラーク」
「その後すぐ、リリーがイデラで山本凌の姿を確認してます」
忌々しいとばかりに、ソルヴァンが眉をしかめた。
フォールドラークと裁判所の関係は、絶妙なバランスで保たれている。
最古から、この星層という空間を支配してきた“層の番人”。
そして法律で星層の秩序を守る“裁判所”。
フォールドラークは、層移動の技術や知識を完全に秘匿していた。
彼らの技術は、宗教儀式に近い継承を通じて伝えられる。
他の種族には真似できない“構造理解”と“神性の共鳴”──おそらく固有能力が必要とされるため、代替が不可能だった。
それは、この世界の構造上、あまりに強すぎるカードだ。
層間扉の運用には、裁判所の認可と、フォールドラークの技術が不可欠。
裁判所が秩序を管理できているのは、鍵職人が“どこへでも行ける力”を管理しているからだった。
……たとえ裁判所といえど、彼らに圧をかけることは難しい。
そしてその逆も然り。
裁判所が各層間の秩序管理を担っているからこそ、鍵職人たちは自分たちの仕事だけに専念できている。
その傘が外れれば、彼らの技術を欲しがっている者たちに解体され、食いつぶされることが目に見えていた。
それぞれが理想とするものが異なる。
だからこそ、お互いに、強く出れない関係。
……だが今、その鍵職人のひとりが、“誇り”ではなく“希望”に導かれ始めている。
均衡は、音もなく傾くものだ──
ソルヴァンは机の角をゆっくりと指でなぞった。
「…よりによって取り締まりの面倒な鍵職人か」
「中立な立場のはず、なんですけどね。一つの種族に肩入れするなんて…一歩間違えたら外交問題ですよ」
「ただの取引関係ではないと?」
「──違うと思うわ」
また新たな声が降ってくる。
波紋のように、耳に直接響くそれにガットはフードの下で顔をしかめた。
「“聴いて”いた限りでは」
「…リーテ、貴様の蝙蝠では音は拾えても見えはしないはずだ」
「ええ、そうよ。でもだからこそ、わかることもあるわ」
蝙蝠がわずかに揺れる。
「都市外での話を聞く限りでは、“槍”を探しているわ。それ以降の街中は、蝙蝠が目立つから追わせてない」
「代わりに、私が小屋まで監視しましたが、中の会話までは…」
エノワールはわずかに眉をひそめつつ、補足した。
言い切る前に、ソルヴァンが鋭い目をガットへ向けていた。
「……貴様の“耳”でも、聞き取れなかったと?」
沈黙を少し落としたあと、気だるげにガットは腕を組んだ。
その目は閉じられていて、何も映していない。
「……”悼み月”の期間、俺は夜の時間担当だ。ソルが昇ったら、こいつに交代してる」
静かに、けれど言葉を発するごとに、空気が張り詰める。
わずかに首を傾けるだけで、エノワールを示すガット。
漆黒のフードからちらりとその口元と、頬の十字傷が見えた。
五感の鋭いガットなら、確かに小屋の中の会話まで聞き取れたのかもしれない。
まるで、私の能力不足を責められてるようだわ……
エノワールはどうしようもない事実に、黙って肩をすくめた。
ソルヴァンは小さく舌打ちをしたあと、トントンと指先で机を叩いた。
苛立ちを隠そうともせず、眼鏡の奥の目が細められる。
「……存外、フォールドラークも鼻が効くようだな」
「そうね。それは驚き」
悼む槍の発見は、つい数日前のことだ。
それなのに、あまりに動きが早すぎる。
“層を跨ぐ鍵と扉を作ること”にしか情熱を注がない一族。
信仰と伝統。
そのためなら、他の何を差し置いてもいいという姿勢を常に見せる、フォールドラークたち。
おおむねの職人や神官は、その姿勢を貫いている。
ある意味、それらもまた、悪魔たちとは違う形の秩序の徹底が見られた。
──だからこそ、ただの職人たちが情報戦に長けているとは思えない。
そういった裏取引や政治ごとには、興味がないはずだ。
いや、もし長けているとしたら、今頃この絶妙な均衡は崩れていたとさえ思う。
見られていたのか?偶然?
あるいは、フォールドラーク共は、最初から槍があそこにあることを知っていた?
……そのどちらであれ、動き出したという事実だけで、すでに十分“侵害”だ。
「…フォールドラークの女にも監視をつけろ。ただし手は出すな。まだこのバランスを崩したくはない」
「……わかりました」
淡々と告げられる指示に、エノワールは目線を天井へ向けた。
──第六は三人しかいないのよ…?
それでも、明るいうちはいい。
自分とリリーが加わって、それぞれを監視できる。
でも、どうやって、違う層にいる対象を、夜の間ガットひとりに監視させるつもりなのかしら。
……どうせまた「それもお前の仕事だろう」で終わるのよね。
ほんと、皮肉や嫌味どころの話じゃない。
そんなことを思いながら。




