四十層 : 神獣に背をむける手.01
「……」
しばらくの沈黙の後、やがてユヴェは顔を上げた。
ゴーグルの奥の瞳が、わずかに震える。
けれど、それを隠すように、彼女はポケットの中で自分の鍵を握った。
それからふっと、天井を見上げる。
ランタンの火に照らされる、太陽の意匠。
それをゴーグルの奥から真っ直ぐ見つめる。
誇りって、折れることじゃないよね…?
……向き合い直すこと、だよね。
誰に問うでもなく、鍵を握りしめた。
「…ちょっと待ってて」
静かだけれど覚悟の灯った声だった。
ユヴェは立てかけられていた扉の一枚に手をかける。
凌は壁に寄って立ち、その様子を見ていた。
目に見えた緊張の中、ただ黙って凌の横に立っていた翔が、ふとそれを捉えた。
翔は珍しそうに、壁の棚に飾られた木彫りのなにかを眺めて、遠慮がちに言う。
「……ユヴェさん、これなに?」
向こう側がないただの枠組みに、持ち上げた扉を嵌め込みながら、ユヴェは翔を振り返った。
まるで部屋の中を暖めようとしてくれているような、そんな彼の姿勢に、震えていた手が少し落ち着いた。
何を指し示すか確認してから、ユヴェは柔らかく笑う。
「神獣だよ。手先の訓練に彫ってるの」
壁の棚、窓枠の上、ちょっとした家具の隙間にぽつぽつと置かれた木彫りの神獣像。
そうは言っても、儚げな花や、波そのもののような自然由来のものも多くあった。
翔はそのうちのひとつ、崩れた箱舟をそっと手にする。
「へえ……神獣っていうけど、生き物じゃないのもいるよね?」
「神獣の姿は、私たちにはほとんど見ることが出来ないから」
蝶番を嵌め、ユヴェは扉の開閉を確認する。
「…見えないからこそ、愛おしさもあるんだよ」
ぽつりと呟き、凌を振り返った。
「扉は──どこに繋げればいい?」
「…たしか、番号は、19607番」
「わかった」
ユヴェは小さく頷いてから、再び扉に向き直った。
けれど、その手がドアノブに触れる前に、ふと立ち止まる。
「…あの、少しの間だけよそを見ていてくれる?外とか…」
「……」
「扉の繋ぎ方、見せられないの」
ゴーグルの奥で彼女の目が伏せられたように感じた。
凌は無言のまま、体ごと壁を向いた。
翔も同じように、ユヴェへ背中を向ける。
「ありがとう」と素直に感謝の言葉が返ってきて、凌はなんとなく、やるせなさを覚えた。
音はしなかった。
ただ、空気が少し暖かくなった気がした。
窓は開いていないが、風が通り抜ける。
やがてそれも収まると、ユヴェがふたりの肩を叩いた。
「いいよ」
なんの変哲もない扉が、なんの支えもなく部屋の真ん中に立っていた。
扉の横に立ったユヴェ。
その手には、使い古された槌が握られている。
彼女が手の中でそれをゆるく握りしめた。
すると、彼女の持っていたごくありふれた鍛造槌が、まるで氷が逆再生で結晶していくように、
細やかな線を描きながら光を纏い、煌めく鍵の形へと戻っていく。
まるでガラス細工──あるいは、ダイヤモンドの結晶のような鍵へ。
その瞬間、翔は目を丸くして立ち尽くした。
「えっ!?今、鍵になった……?それって……変わるの?」
驚きに満ちた声に、ユヴェは少しきょとんとしたあと、当たり前のように頷いた。
「うん。槌が、私の“鍵の形”だからね。鍵が姿を変えること、知らなかった?」
「……鍵って、みんな同じじゃないの?」
翔の素朴な疑問に、ユヴェはほんの少しだけ目を見開いた。
けれどすぐに納得したように、やわらかく頷く。
「そっか。もしかして、翔くんはまだ、鍵が“馴染んで”ないのかもね」
「…え……う、うん。そうかも」
内心、翔はしまったと焦っていた。
イデラで暮らす翔に、凌は最低限のことしか教えてくれない。
それは人間社会で生きていく上で、不必要な知識だったからだが、逆に、こちらの層では常識だ。
あまりに無知だと、変に怪しまれるかも……
けれどユヴェは特に深く気にする様子もなかった。
ユヴェは手の中の鍵を眺めながら、少し遠くを見るような声で語った。
「鍵って、持ち主の在り方に沿って、唯一無二の形になるの。武器になる人、盾になる人、私みたいに道具になる人もいる。翔くんのも、いつかちゃんと形を持つよ」
「それって、どういう仕組みなの……?」
問いかける翔の声に、ユヴェはほんの少しだけ唇に指を当てて考えた後、ふわりと笑った。
「詳しい鋳造方法は言えないけど……生まれた時に“ウフ”と“神獣”を、それから“星層を超える鍵”を授かる。そこに“魂の形”が重なると、鍵は持ち主の姿になるって言われてる」
その話を聞きながら、翔の視線は思わず自分のポケットに潜む鍵へ向かっていた。
まだ何の形も持たないそれに、自分がいつか意味を与えられる日が来るのだろうか。
「ウフを選んだのも、なにか意味があるの?」
「あるよ。選んだと言うより、選ばれた、だけど。それも自分の在り方を示すもののひとつ」
ユヴェは丁寧な手つきで鍵のつまみをなぞった。
「鍵を握ってる間だけ、ウフが共鳴して、その力を引き出せる。今の私たちは、その助けがなきゃ適性を活かせない。それくらい……種族の変化って、大きいんだよ」
遮音機の揺らぎに、ユヴェの言葉が静かに落ちていく。
翔がぽつりと呟いた。
「……なんだか、少し寂しい話だね」
ユヴェは鍵をそっとポケットにしまいながら、小さく笑った。
その笑みにも、どこか“消えてしまった何か”を懐かしむような色があった。
「──きっと、ずっと昔は、そんな媒介なんてなくても、みんな、自分の力に触れられていたんだと思う」
そして、続けるように語る彼女の声は、まるで誰かの記憶をなぞるようだった。
「でも……時間って、なだらかにすべてを薄めていくの。思い出も、誇りも、名前も。──それでも生き延びるために、失うことを選んだのなら、それはきっと“進化”なんだろうね」
微かに笑みを浮かべて、けれどその声には熱がなかった。
「……でも、私にはそれが“退化”に思えて、少しだけ、寂しいな」
そう言ったユヴェの横顔を、凌は何も言わずに見ていた。
ゴーグルのレンズに遮られて見えないはずのその瞳が──
鍵のように繊細で、けれど、確かな炎を抱いているような気がした。
一瞬だけ、ユヴェの視線が凌に向く。
何も言わないまま、互いの沈黙が交差した。
「…さあ、鍵を使って、開いて」
ドアノブのした。
鍵穴を指差すユヴェに従って、凌は自分の金の鍵を差し込んだ。
ゆっくりとした動きで押し開くと、その先から、イデラの層にしかない“車の走行音”がかすかに聞こえた。
──本物だな。
凌が静かに呟く。
ユヴェは目線を落としたまま、扉から一歩引いた。
「あなたが言ってた、19607番に繋いである」
凌は一度、静かに扉を閉めた。
ひとつ、小さく息をつく。
「……信用するよ」
「それじゃあ…」
期待と不安の入り交じった声だった。
「槍のこと、お願いできるんだよね…?」
不安そうな面持ちで、ユヴェは指先をいじる。
凌は一瞬目を伏せたあと、静かに彼女を見返して答えた。
「…さっきも言ったけど、さきにやる事がある」
「……」
ユヴェは何も言えなかった。
凌は自分の両手をポケットへしまう。
「でも、今後の連絡をどうするか。俺は…もしかしたら翔も、裁判所に目をつけられてるはずだ。あまり、あんたとのやりとりは見られたくない」
「スマホ……はないんだっけか」
「…ないよ」
翔が自分のスマホを取り出しながら口を挟んだ。
すかさず凌が呆れ声を返す。
「同層間なら、少し前に天使が作った通信機が普及し始めてるけど……」
ユヴェは「そこそこ高いんだよね…」と肩を落とす。
「いや、音はだめだ」
「あ、そうか…蝙蝠…じゃあ、やっぱり毎回ここに来てもらうしか…」
少し思案する凌の後ろ。
興味深そうに扉を見ていた翔が、困ったように首を傾げた。
「じゃあ……また来るときは、どうするの?」
翔がぽつりと訊いた。純粋な問いだった。
けれど、その言葉にユヴェの手が止まる。
無意識に濃紺の毛先をいじっていた指が、わずかに震えた。
「……」
しばらくの沈黙。
そして、彼女はおそるおそる顔を上げた。
視線の先にいる儚げな男を、まっすぐに見据える。
「……ひとつだけ、聞いてもいい?」
その声はかすれていたけれど、静かで、澄んでいた。
凌は振り返り、無言のまま小さく頷く。
「試すみたいで……ほんとに嫌なんだけど。でも、お願い。ちゃんと、私が信じられるようにしたいの」
ゴーグルの奥にある視線は、誰かを裁くためじゃない。
ただ、“確かめるため”のものだった。
「──さっき都市の外で、私のお願いを断ったのに、どうして……今、こうして話を聞いてくれてるの?」
「……」
「それに、もし“悼む槍”をあなたが取り戻したら……どうするのか、ちゃんと聞いておきたいの」
部屋の空気が少しだけ重くなった。
けれど、それは恐怖ではなかった。
おそらく──誠意の重さだった。
しばしの沈黙の後、凌はふっと息を吐く。
「……別に、あんたを助けたかったわけじゃない」
その言葉にユヴェの肩が少しだけ縮こまった。
けれど、凌はそのまま続けた。
「ただ、“誰かが勝手に決めた正しさのために神獣の槍を使う”って考えは、気に食わなかった。それを、お前が最初に口にしたから──話を聞いた」
「……」
「俺は、その槍を使う気はないよ。秩序の道具にも、正義の印にもしない。”そういうもの”は、誰の手にも渡らない方がいい」
まるで結論だけを語るような、冷たい口調だった。
でもその目は、どこまでも静かに、ユヴェの迷いを見つめていた。
そして──ユヴェは、もう一度だけ目を伏せる。
「……わかった」
かすかに笑ったような気がした。
ほんのすこしだけ、彼女の肩の力が抜けた。
「じゃあ、連絡の方法、教える」
そう言って、ポケットの中から自分の鍵を取り出す。
ガラス細工のような、あるいはダイヤモンドのような。
光の屈折が眩いほどのその鍵には、どこか“温かさ”のようなものが宿っていた。
一拍おいて、重そうに口を開くユヴェに、凌の目はすっと細められる。
「本当は、言っちゃいけないんだけど…」
ユヴェは唇を噛んでから、まるで覚悟を振り絞るように言った。
「鍵には──記憶が宿るの」
それは、まるで”鍵が生きている”ことが当然と言わんばかりの口調だった。
「だから、あなたが今この扉を開けた“記憶”を、鍵がちゃんと覚えてる」
「…記憶?」
「……そう。鍵はね、開けるたびに、少しだけ場所の記憶を拾っていくの。──だから、ここを“思い出して”って、ちゃんと伝えれば、鍵も、応えてくれる」
彼女は、自分の鍵を鍵穴へ差し込んだ。
「でも、それが使えるのは十年に一度。ちょうど、今年だけ。”悼み月”とヴァルカニア祭が開催される年だけ、なんだけど……」
「……」
「ごめん、それがどうして”十年に一度”なのかは、言えない」
ユヴェが軽く唇を噛んだ。
それからゆっくりと、言葉と一緒に息を吐く。
「……星層間管理局の一番深い秘密なんだ。けど…それでも、あなたなら──って思えたから」
凌は無言で、色の濃いゴーグルの奥の瞳を見つめようとした。
窓から差し込みはじめた朝日。
それを反射する向こう側に、彼女の眼差しを見つけることは出来なかった。
でも、指先が震えていた。
それを見せないように、拳を握る。
緩く噛まれた唇が、彼女の決意を物語っていた。
その事実を晒すことは、フォールドラークの彼女にとって、相当な危険を孕んでいた。
知ってしまえば、どこへでもいけると言っているようなものなのだから。
「……」
凌は深く聞かなかった。
今は極端なほど言葉少なな彼に、彼女は救われた気持ちになる。
「……じゃあ、使わせてもらう。必要なときに」
冷たくもなく、優しくもなく。
ただ、その声には“受け取った”という重みがあった。
「こっちの状況が整ったら、また来る」
「……わかった」
優しい手つきで、ユヴェが鍵を捻る。
そして薄く開いた扉の向こうへ、凌と翔の姿は見えなくなった。
バタン、と扉が閉まる音。
ユヴェはその場にうずくまる。
「……どうしよう」
頭を抱えた。
体が重い。
不正扉を作っちゃった。
鍵の秘密も教えちゃった。
神器を取り返すためだとしても、絶対にやっちゃいけないことだったのに。
フォールドラークとしての誇りはどこに行った、と頭の中のメテオが怒鳴る。
それが頭痛を助長させる。
ゴーグルを剥ぎ取り、床に落とした。
手のひらを見ると、指先どころか全体が震えている。
「……これ、ほんとに正しい方向に進んでるのかな……」
でも縋るしかない。
戦えないただの鍵職人である私では、悼む槍を取り戻すことは出来ない。
どうしようもない苦しみに胸を痛めながら、ユヴェはそのまま床に転がった。
床の冷たさが、ようやく今日という一日の現実を教えてくれる。
正しいかどうかなんて、もう分からない。
でも、これはもう“動き出した鍵”だった。
錠前のない未来へ、きっと。




