四層 : 夢を食う男.03
それから数日後の金曜日。
アルバイトのシフトもなく、亜月は珍しく駅前へ足を伸ばしていた。
そこそこ長い商店街が立ち並ぶアーケード。
なにか目的があるわけでもなく、ただ人の流れに沿うように足を進めていく。
街路樹が冷たい風にそよぎ、飲食店の店頭には暖色系の旗が掲げられている。
いかにも冬の到来を示している雰囲気が好きだった。
雑踏の中を歩くと、人々が思い思いに生きていることを知れる。
通り過ぎざまに聞き取れる何気ない会話。笑い声。たまに混じる外国語。
指先を擦り合わせながら、アーケードの切れ目まで来た。
亜月は、建物に切り取られた空を見上げる。
上空の雲の流れが早く、空の高さが際立つ白んだ青。
歩行者信号が青に変わると、立ち止まっていた人達が一斉に一歩を踏み出す。
それに倣って、亜月も前へ足を動かした。
スマホにワイヤレスイヤホンを同期させながら。
聞きなれたプレイリストを再生する、直前。
「──やっと見つけた」
片耳だけうまくハマらないイヤホンの隙間から、言葉が滑り込んできた。
はっとして、亜月は振り返る。
突然立ち止まった彼女を、迷惑そうに人々が避けていく。
今の声……
心臓が動きを止めたかのように、全身が冷えていく。
──夢で見た白い男と、同じ声だった…?
周囲から向けられる”立ち止まるな︎︎”という無言の圧力。
それさえ気が付かないほど、亜月は視線を走らせた。
道行く人々の顔は、どれも普遍なものばかり。
そこに、あの不可思議な男の姿は見つけられない。
握りこんだイヤホンに、じっとりと汗ばむ手。
今の……空耳だったの?
…でも、胸の奥がざわついてる。足元が少し浮いているような感じがする。
ピー、ピー、ピー
信号が変わる合図の音が、彼女を現実に戻した。
ほとんどの人が横断歩道を渡り終えている。
信号待ちをしている運転手たちが、訝しげにこちらを見ていた。
その視線の多さに、唐突に羞恥を覚えて、亜月は小走りに歩道へ向かった。
信号が変わり、たくさんの車が背後を通り抜けていく。
横断歩道を渡りきった人々は、自分に背を向けている。
なにもおかしなことはない。
いつもと変わらない駅前の交差点。
気のせい、だった?
道行く人の全ての視線が、ようやく自分から外れた。
誰も私を見ていない。
でも、見渡した先で、一瞬誰かと目が合ったような気がした。
その時。
──グイッ
誰かに強く腕を引かれた。
後ろへ転ける。
咄嗟に目をつぶったけれど、地面にぶつかる衝撃は来なかった。
むしろ、なにか生暖かい沼のような、
液体にしては柔らかく、気体にしては質量をもつ、
不思議なものが全身を覆った。
息苦しく、肌をなぞる生ぬるいなにかが、そこを異変異常だと伝えてくる。
水圧で痛むような圧を耳に受ける。
「?!」
いままで感じたことがない、奇妙な感覚だった。
目を見開くと、そこは、さっきまで立っていた駅前の交差点ではなかった。
まるで、空間そのものが”歪んでいる”。
時間や空間の感覚が不確かになるような。
暗闇に近いけれど、闇の底まで見通せるような。
暗黒の中で、身体が動かない。
唐突に踏切の音が鳴り響いた。
乗ってもないのに、電車の中から外を見たように、高速で闇が走り抜けていく。
けれど、明るくない。
ただ、背景だけが駆け抜けていく。
瞼は開いているのに、手も足もまるで借り物のようだった。
動かしたいと思う意志だけが、宙を泳いでいる。
どこかで、焦げたような匂いが漂っていた。
髪の毛を焼いたあとに立ち上る、あの独特の臭い。
風がないのに、鼻の奥にしっかりと刺さってくる。
背中に──誰かの気配がした。
ひた、ひた、と足音が近づく。
音ではなく、皮膚に染み込むような“圧”でそれが分かる。
でも、それと同時に、その足音だけが異様に湿っていた。
水を含んだ布が、床を這うような音。
ふっと、耳の裏に生ぬるい息が吹きかかった。
一緒に入り込んできたのは、何日も干さなかった布の匂い。
逃げなきゃ、と思った。
その瞬間、視界が裏返った。
地面が消え、空高くから落ちていた。
空気が顔を裂くように通り過ぎる。
でも、風の音がしない。
落下の感覚だけが続き、耳は水の中に沈んだように詰まっていた。
喉を動かしても、声は出ない。
叫んでいるつもりなのに、音が喉の中で泡になって崩れていく。
地面がいつまでも近付かない。
無限の落下のあと、いつの間にか、
真っ白な鏡張りの部屋に立っていた。映画のワンシーンのように。
何も聞こえない空間。
けれど、頭の中では誰かの名前が繰り返されている。
それが“自分”じゃないと分かっているのに、反応してしまう。
それが、何より気味が悪かった。
鏡に映った顔は自分のものじゃなかった。
鋭い目付き。引き結ばれた口。男の顔。
けれど、鏡の中からは“匂い”がしていた。
血と石鹸が混ざった、鉄っぽく甘ったるいにおい。
それが、鼻じゃなくて喉に張りついて、息苦しさに変わる。
足元の洗面台には血が溜まっていた。
水音はしないのに、鏡の向こうの“そいつ”だけが笑っていた。
ガラスをすり抜けて手が伸びてくる。
その動きと同時に、「ざらっ」と何かが耳の奥を撫でた。
囁きのような声が混ざった気もした。
言葉ではない。でも、意味だけが伝わってくる──
「逃げるな」
指が首に絡む。
感触はあったのに、それが誰の手かはもう分からない。
その手からは、生ゴミのような匂いがした。
ぎり、と締めつけられた時、
足元からも誰かの腕がすがりついた。
服の裾を、強く、弱く、大人の腕と子供の腕がしがみついてくる。
闇と光と血と音と匂いが、
少しずつ、重なり合いながら、自分を塗り替えていく。
──おかしくなる
恐ろしさに何度も目を閉じた。
けれど、何度瞬きを繰り返しても、相変わらず、
そこからは、抜け出せていない。
そしてまた、繰り返される悪夢のような体験の繰り返し。
目を耳を、全てを閉じたくなる。
──どうしてこんなことに?ここどこ?
無意識の中にも、それは染み込んでいった。
恐怖と痛みが、皮膚の裏側に滲むように広がっていく。
ひとつ、ふたつ──指が増えた気がした。
……でも、そんなはずはない。
そう思いたいのに、このまま居続ければ、自分の中の“何か”が変わってしまいそうだった。
声にならない叫びとともに、涙が頬を伝った。
突然、何かが自分を引き上げた。
さっきのように、腕を掴まれたわけではない。
まるで水面に浮かんでいたのが引き寄せられて、引き上げられるような──背中に圧迫感。
まるで生き物の喉から、吐き出されたように感じる。
闇に弾かれ、背中から地面へと叩きつけられた。
冷たい床に手をついて、ようやく重力がまともに働いていると知った。
体にかかる重さと、冬のひんやり冷たい空気。
周囲が突如としてまともな空間に変わり、心臓が戻る。
手をついた床は、よくみるものだった。
先程の暗闇とは、また別の空間にいると分かった途端──戻ってきた、と心のどこかで安堵した。
周りを確認するために顔を上げれば、そこにはソファがあった。
簡素なリビングに置かれた、小さなソファ。
視界の端に見えたそこに、足が見えた。
──だれか、座ってる
また忙しなく心臓が動く。
首がぎこちなく、全身が強ばっていく。
色の薄いジーンズ、白いポロシャツ。
徐々に視線を上げながら、亜月はそれを見上げる。
そこに座っているのは、夢でみた──あの白い男だった。




