三十九層 : 陽の届かぬところ.06
中へ入って、扉を閉める。
ユヴェが壁にかかる小さなランタンに、芯のない炎を灯した。
それでも無言を貫く凌。
翔は足音をそっと潜めるようにして、凌の後ろに立った。
ユヴェは戸棚の中から小さな箱をひとつ取り出した。
オルゴールのような見た目だが、箱の蓋部分には、小さなウフがいくつか埋め込まれている。
小箱を開けるユヴェの手が、ほんのわずか震えた。
それを隠すように、彼女は箱の蓋を押し広げる。
箱の中には複雑な構造の金属が嵌め込まれていて、わずかに空気が震えたのが分かった。
耳の奥で、鼓膜がゆるやかに揺れている。
音のウフの揺れが始まったとき、翔は目を見開いて、それを“魔法みたいだ”と感じていた。
「本来はウフの共鳴確認に使うんだけど……」
気を使うように、ユヴェが口を開いた。
「話し声、聞こえないようにしたかったんだよね…?」
ユヴェが凌へ、ゴーグルの奥から確認の眼差しを向ける。
彼は静かに目を細めたあと、部屋の中を目線だけで軽く見渡し、ようやく口を開いた。
「……裁判官の中に、音を”聴く”ことで監視してる奴がいる」
「そう、なんだ…」
「外壁の外は森林が多いから、見つけにくい。そいつは蝙蝠を使って音を集める。……街中の方が、まだ目立つだろ」
そう言って、窓の外をちらりと見やる。
外はまだほの暗い。
「蝙蝠で音を拾うの?」
「そう。俺が、蜘蛛から情報を買うのと一緒だ」
ひらりと翳した包帯の手から、蜘蛛が一匹糸を垂らして降りてきた。
さっき見た蜘蛛……
「やっぱり、それって”女郎蜘蛛”の蜘蛛なの?」
ユヴェが訝しげに見つめる。
彼女の色濃いゴーグルに、揺らめくランタンの炎が映っていた。
「知ってるのか」
「…うん。本当は最初、その情報屋さんに行こうと思ってたの。でもずっと閉まってて……そこの店長さん、ゼノラの出来事ならなんでも知ってるって聞いてたから、あなたの事、聞こうと思ってたんだ」
少しだけ申し訳なさそうにするユヴェに、凌は目線を逸らした。
あまりにも、純粋すぎるところがある。
凌は壁や床のモチーフを見ながら、口を開いた。
「…あんたの情報も、今買った」
「え?!」
「ユヴェ・セルトゥー。ゼノラ層の鉱山都市グラルメアの出自。いまは、ノードの鍵屋で鍵職人をしてる」
「……」
「…獏の里、ずっと見守ってたってのも、本当らしいな」
凌の目線は下を向いていた。
床に描かれている大きすぎる魚のモチーフを一瞥して、目の前のユヴェへ視線を戻した。
ユヴェは逆に、絡み合った目線をよそへ咄嗟に逃がした。
無意識に、皮の手袋を強く握る。
「……もう何百年も前、獏の廃れた里を見つけたの。仕事柄、地図の測量をやるんだけど…趣味で、色んな場所に行くから──そこで、“悼む槍”を見つけた」
「……」
「悪夢が絡みついていて、私には触れることもできなかった。でも、それなら誰も悪用できないって思って、見守ることだけしてきたの」
言葉に嘘はないように思えた。
一つ一つ、丁寧に紡がれるそれは誠実さを孕んでいる。
「でも──裁判所に見つかっちゃった」
ユヴェの声には、滲むような悔しさがあった。
「悪魔たちは、きっとあれを裁判所の権威のために使う。魂の重さを量って、生きてきた道に価値をつけるなんて……私は、そういうのが嫌い」
彼女はぎゅっと拳を握る。
指先に込めた感情が、手袋越しにも伝わってきそうだった。
「槍だって、本当は……魂を星層の狭間へ導いて、新しい道へ還すためのものなの。それを、誰かの正当性を示す旗みたいに掲げるなんて──間違ってる」
息を飲むように、ユヴェは言葉を繋いだ。
「神獣の神器が、権力に利用されるのを……私は、みたくない。あれが獏の里にあったなら、きっと──あなたが継ぐべきものなんじゃないかって、そう思ったの」
静まり返る部屋の中で、彼女の声だけが残った。
だが、目の前の男は、相変わらず表情を動かさない。
──ああ、泣いてしまいそう。
握りしめた手袋が、ぎゅっと音を立てた。
ゴーグルの奥で、目頭が熱を帯びていく。
本当は、あの槍を見つけたときに──在るべきところに返したかった。
キング・ハーウェンのもとへ。
でも、できなかった。
悪夢の結晶に触れることさえ恐ろしくて、ただ遠くから眺めていただけだった。
こんなに悔しいなら、悪夢に苛まれてでも、誰にも見つからない場所へ隠せばよかった。
そんな後悔が喉をせり上げてきたとき──
「……さっきも聞いたけど」
その声は、まるで空気に溶けるようだった。
冷たくもない、やわらかでもない。
ただ静かで、確かに“届く”声だった。
「なんでそれが、獏の里に?」
その紅い瞳が、まっすぐにユヴェを見ている。
一切の拒絶も、嘲りもなく。
ユヴェは、喉を詰まらせながらも頷いた。
「……これは、フォールドラークの記録庫で読んだんだけど……」
言葉を選びながら、ゆっくりと語り出す。
「獏という種が……裁判所の命令で、“悪夢を食べることで魂を軽くしてしまう”って理由で粛清されたって……」
彼女はうつむいたまま、言葉を繋げた。
凌の目を見つめて話すことは、出来なかった。
「でも、本当は……彼らのうちの誰かが、悼む槍を顕現させたから──それも理由の一つだったんじゃないかって。私は、そう思ってる」
「…獏が、悼む槍を?」
「うん…。悪魔社会で、もっとも厚く信仰されてる神獣は、死の象徴──キング・ハーウェン。それに、これは私の推測だけど……神器って、たぶん“神獣と最も近い存在”にしか顕現できないんじゃないかな」
「神獣と近しい存在」とは、ずいぶん曖昧な言い方だった。
古より姿かたちを変えない誇りを持つもの──それが神獣だ。
多くの種族は変化を嫌う。
翼や羽の退化などの身体的な構造劣化。
固有能力の損失。
そして、昔よりもはるかに短くなった、寿命。
その際たる存在が、人類だ。
彼らは何も知らないのではなく、忘れてしまった。
忘れることで、目まぐるしい技術発展を遂げている。
今では、忘れたことさえ、忘れている。
だから、他種族は人類を見限った。
知らせない。教えない。
まるで最初からなかったものとして、イデラの層だけ、情報は切り離されている。
そうやって、ほとんどの種族が、本来あった”在り方”を失いつつある昨今。
それ故に、”変わらないまま在る”神獣に、傾倒する者は多い。
いまだ固有能力を有する種は、とても珍しい。
獏が、悪夢を食べるのも、そのひとつ。
“変化の中で変わらずに在る”者たちは、神獣に近い。
そう言いたいのかもしれない。
だから、獏が悼む槍を顕現させられたと……?
「それって、裁判所にとっては……都合が悪いことだと思う。だって、誰がその槍を持てるのか、持つ資格があるのか……そういうのが、自分たちの決めた“秩序の外側”から来るってことだから」
ユヴェの声が、少しだけ震えた。
「悪魔たちにとっては、そういう“外の正義”こそが、一番の脅威だったんだと思う」
そこまで言いきってから、彼女はようやく黙った。
沈黙の中、凌はしばらく何も言わず──
それでも目は、彼女を離さなかった。
そして、ふっとわずかに眉を上げる。
「……あんた、本当に器用じゃないな」
それは呆れにも似ていたけれど、どこか、笑っているようにも聞こえた。
ユヴェは困ったように眉を垂らした。
まるで本人にはどうにも出来ないことのように。
少しの沈黙が降りた。
凌の紅い目が、薄いまぶたの裏に隠れる。
まるでそれが合図かのように、彼の脳裏に浮かび上がる小さな里の風景。
もう懐かしさなんて感じないけれど、確かに記憶の片隅に残っている、獏の里の面影だった。
木蓮の花が白く咲き、風に揺れて美しかったこと。
自分の小さな手のひらを握る暖かい手。
誰かの笑う声。──自分のものだったかもしれない。
朱と翡翠の鮮やかな家屋が、自然の中で眠るように建っていたのを、かろうじて覚えている。
けれど、思い出そうとすればするほど、それはあっという間に炎と影に包まれる。
体に残った呪いのような火傷が、じくじくと痛む。
まぶたの裏の闇にまで、影の悪夢が滲んできたように揺れる。
「忘れるな」と、耳の裏に囁かれた気がした。
「……」
薄らと目を開く。
凌はしばし黙ったあと、ユヴェに向き直った。
「……わかった」
「え?」
「条件次第では、一時的に手を組めるかもしれない」
「……本当?」
「ただし──」
変な期待をさせないためにも、線引きは必要だ。
「俺の“優先順位”は変えない。悪いけど、命がひとつかかってる。……だから、悠長な駆け引きはできない。それに──」
続けて、凌は呟いた。
「槍を取り返したその先のことは、今はどうするか分からない」
冷たいようで、確かに届いた言葉だった。
ユヴェにとっては、それだけでも十分だった。
「……条件って、どんな…?」
ゴーグルの奥から見つめてくる眼差しに力が入ったのが分かった。
凌はそれを見届けてから、自分のポケットの中の鍵を取り出す。
「あんたは、その”槍”を取り戻したい。俺は”抜け道”が欲しい」
「……」
「あんたが鍵職人なら、星層扉を作れるだろ」
「…うん」
「だったら、イデラに行く扉をまず用意してほしい」
「イデラの…?」
槍を持って行ってしまった裁判所があるのは、ウルネス層だ。
何故、人類しかいないイデラの扉なのか?
そう目線で問うけれど、凌は答える気がないようだった。
ユヴェは目線をうろつかせる。
「…分かった。でも、扉の登録には少し時間が──」
「登録はしなくていい」
端的に紡がれた言葉に、ユヴェは耳を疑った。
「え?」
凌は静かに彼女を見つめる。
「それ、不正扉を、私に作れって、言ってるの…?」
「……それが、この取引の条件だ」
ユヴェの手先が震えた。
口を開いては、音にならない声を何度も飲み込む。
そんな、そんなの──
ユヴェは、フォールドラークの中でも浮いた存在だと自負していた。
生来、この種族は神獣と共に生きることを誇りとする。
ユヴェもまた、神獣を愛していた。
でも──その恋心が、古参たちとの間に生む軋轢だった。
彼女は、神獣のまなざしに恋をしていた。
それと同時に、神獣をただ“崇める”だけではない道を求めていた。
自分の鍵工房を持ち、独り立ちを夢見ること。
それもまた、星を繋ぐ者としての、自分なりの誇りだった。
それなのに、目の前の男はそれを──
「……」
「…出来ないなら、この話はなしだ。忘れて、普段の生活に戻る方がいい」
揺れ動く。
自分の中の価値の天秤が。
フォールドラークとしての、鍵や扉を扱う誇り。
神獣の神器を取り戻したいという気持ち。
正しいことと、私が信じてきたこと──それが、同じじゃないのなら、どうすればいいの?




