三十七層 : 陽の届かぬところ.04
夜の象徴、ハーウェンが眠りにつき、太陽の象徴、ソルが目を覚ます。
鬼灯通りには誰の姿もなかった。
提灯の火は落ち、鬼灯の灯りもすでに消えている。
まるで、夜の気配ごとすっかりしまい込まれたような、無音の通り。
朝の光はどこか弱々しく、街の色をすべて洗い流していくようだった。
凌は屋根のある縁側で雨戸を背にして座り、煙草でも吸うかのように長く息を吐いた。
けれど、その手にはなにもない。
ただ、指先がわずかに震えるほどの静寂が、そこにあった。
「……早いですねえ、獏の旦那」
その沈黙を割って、どこからともなく声が降ってくる。
振り返るまでもなく、そこには闇丸の姿があった。
「こんな朝っぱらから起きてるなんて、妖怪の風上にも置けませんよ。……けど、まあ、あんたは違うか」
「……夜が終わった後が一番、静かだから」
「へえ、趣深い」
闇丸はいつもの調子で笑うけれど、その目だけは笑っていなかった。
「……昨日の“おまけ”、持ってきやしたよ」
「……」
静かに目線をよこす凌。
闇丸が一度、辺りを見回してから声を潜める。
「──ガット・ビター。奴は、裁判所で“労働によって刑期を削る”契約を結いてる。……けどね」
一拍。
「その刑期は、“無期限”だ。 ……本人は、そのことを知らねえ」
風が吹き抜ける。
「……は?」
凌の紅い目が見開く。
「そんな馬鹿な話あるか」
「馬鹿げてるけど、真実ですよ。裁判所は“永久に働き続ける戦力”が欲しかった。あいつはそれにされちまった」
闇丸の声が、珍しく低かった。
「そんでもって、ガットの目は、もうずいぶん濁ってきてる」
「……」
「けど、それでも目の前の仕事をこなす。静かに、律儀に、淡々と。自分の罪を、いつか贖えるって……そう思ってるんだろうね」
沈黙が落ちた。
「……いつか、爆発する。そういう奴は」
凌が呟く。
闇丸は小さく肩をすくめるだけ。
何も言わず、朝の光に溶け込むように姿を消した。
ただ、地面の影がほんの一瞬だけ、蜘蛛の脚のように広がったようにも見えた。
障子の隙間から射す朝の光が、薄い布団の上に落ちていた。
翔はまだ眠っている。
深く、無防備な寝息を立てながら。
凌は、その傍で静かに腕の包帯を巻き直した。
羽織を肩に掛け、ひとつ息を吐く。
……刑期が“無期限”であることを知らずに働いてる、なんて。
闇丸から聞いた話を反芻する。
信じがたい話だったが──妙に納得できてしまうのが悔しい。
審問に呼び出して、厳しい誓約書にサインさせておきながら……
裏で手を回して亜月の身柄を抑えるその周到さと、卑劣さと、冷徹さ。
でも、闇丸の話が本当なら、使える。
獏という種を潰した裁判所。
その中で働かされている“天使”ガット・ビター。
今もまだ、天使領に帰ることを考え続けているなら。
“意味のない仕事”は無視する──か。
湯屋で闇丸が教えてくれた、ガットへの評価。
……賭ける価値はある。
ガットがまだ自分の“判断”を持っているなら、簡単な話だ。
“他人の言葉”を、まだ信じてくれるかどうか──それだけだった。
「……”悼み月”」
呟きが漏れる。
かつての戦死者へ追悼を行う1ヶ月間の夜、神獣ディアナ・ホロの──”沈黙の時間”。
この時期、裁判所の表の顔は静かになるが、“裏仕事”は加速する。
この期間だけは、夜を好む悪魔たちがハーウェンの時間、動きに制限がかかるから。
つまり日が落ちている間は、唯一のその文化圏にいない──“ガットだけが動く時期”だ。
亜月の一件で、凌自身にも確実に監視の目はついてるはず。
…いや、きっと審問に呼ばれる少し前から、”視られて”いたはずだ。
それなら、なおさら。
故意に“疑わしい動き”をする。
それが裁判所の目に止まれば、再び審問──
……いや、この前結んだ以上の誓約更新は、それこそ命をかける厳しさになる。
それに俺を騙した直後に、大きく動くとは思えない。
たぶん表向きは、しらばっくれる……
獏相手に動くとなれば、裁判所も大事にはしたがらないはず。
……だったら、ガットを俺のところに来させるしかない。
その方が、確率は高い。
出会えたらそのとき、交渉すればいい。
凌の紅い目が、眠る翔に向けられる。
この無防備な少年に、何もさせたくない。
ポケットに滑り込ませたのは、昨日の誓約書の控えだった。
“裁判所の不利益を避けるための誓約”。
それを逆手に取ることで、裁判所は必ず自分に反応する。
そして──その裏で動く、ただひとりの“天使”が姿を現すはず。
「……さて、やるか」
凌はゆっくりと立ち上がった。
──と、そのときだった。
何の気配もなかった天井の梁から、ひゅうと一筋、風のような声が降ってくる。
「──凌。ちょうどいいわ。帰るなら、その前に寄ってちょうだいな。入口の方に、ちょっとした“迷子”がいるの」
面倒事の匂いがした。
凌は慣れた手つきで羽織の裾を払い、外を見る。
「……迷子?」
「ええ。ここへは入ってきて欲しくないわ」
「ふーん」
うまく連れ帰れってことか。
それが誰かは言わないが、店長が軽く頼むなら、そう危険な存在ではなさそうだ。
「でも気をつけて。今、あの鳥居の中、不安定なのよ」
そっと囁くような声で店長が言葉を足す。
「とくに悼み月の時期はね」
「……分かった。じゃあ、代わりに翔を頼むよ」
「あら、置いていくの?」
「亜月が連れられたなら、翔だっていずれ目をつけられるだろ」
それに、亜月はアパートから悪魔たちに連れていかれたわけじゃない。
凌の家から、連行されている。
本人は姿も見られていないとは言うが、連れ帰る必要がなかった。
でも、凌が振り返るより先に、布団の上から声がした。
「……やだ。僕も、行く」
いつの間にか布団から起き上がっていた翔は、それを許さなかった。
幼い顔立ちの中に、なにか決意を滲ませて、凌の羽織の裾をしっかり掴んでいる。
凌は静かに、見上げてくる眼差しを見返した。
「僕、悔しかった。なんにも出来なくて…だから、自分の出来ることくらいやりたい」
「…何をやるんだよ」
「分かんない…でも、ここでずっと隠れてろなんて言わないでよ」
強く羽織を握る手。
まだまだ子供。凌からしたら、子供とさえ数えられないほどの年数しか生きてない。
それなのに、これほどしっかり話せて立てるのは、やっぱり人類だからなんだろうな。
そう思った。
「……」
少しの沈黙が落ちた。
けれどそれはすぐ、凌が翔の頭を撫でたことで終わる。
「危ないと俺が思ったら、すぐここに連れてくる」
さらりと黒髪を撫でる包帯の手。
ことを甘くみてるつもりはない。
でも、自分には許されなかった幼い無垢を守りたいとも思った。
翔は驚いたあと、すぐににっこり笑顔を見せた。
凌の細い腰に腕を回して抱きついたあと、すぐさま自分の荷物をまとめ始める。
ため息まじりに、翔の後ろ姿を見やった。
「…てことだから」
投げやりに聞こえる声は、語尾が抜けるようだったけれど、優しい音だった。
「店長」
部屋を出る直前、凌はふと足を止める。
店長の声は落ちてこない。
「亜月のこと、見ててくれよ」
「相変わらず、蜘蛛使いが荒いわねえ。後でちゃあんと支払ってもらうわよ」
どこか呆れのような、それでいて楽しそうな店長の声。
その事を気にもとめず、凌は後を着いてくる翔と共に瓦版屋を出た。
*
朝の光が差し込む静かな鬼灯通り。
その外れにある鳥居へと足を向ける。
結界の外縁。“歓迎されていない者”が中へ入ろうとすると、延々と鳥居の中を彷徨う──そういう仕掛けだと聞いていた。
「凌、迷子って、鳥居の中で…?」
「そうらしい」
迷う仕組みは知らないが、連れ帰り方は知ってる。
それで十分だった。
鳥居の端に足をかけた瞬間、肌がぴり、と鳴いた。
誰かが“今も”鳥居の中で迷っている。
一歩、足を踏み出す。
翔は突然現れた紅い鳥居の連続に目を白黒させた。
一歩で入ったはずの空間が、まるで世界ごと裏返ったように、朱のトンネルに変わっている。
鳥居の中は不思議な静けさだった。
足音が吸い込まれる。響かない。
まるで、誰かに聞かれることを許されない空間のように。
凌は何度か経験のあるその空間を、ゆっくりとした足取りで進んでいく。
たしかに記憶してるよりもどこか、空気が重いような、軽いような、不思議な感覚がした。
そして──すぐに見つけた。
一度見たら忘れない服装。
分厚い濃紺の耐熱服と皮の手袋。目元を隠すゴーグル。
服は肩から背中にかけて金の鱗模様が刺繍され、鳥居の隙間から差し込む光を反射していた。
裾は竜の鱗のように編まれ、計算された装飾が施されている。
「……へえ。鍵職人か」
その女は、何度目かの折り返し地点で立ち止まり、くるりとこちらを振り向いた。
そこに敵意は感じられなかった。
むしろ焦りと混乱、それに不器用な誠意のようなものが滲んでいる。
明らかに、助けを求める目をしている。
驚いたようにこちらを見たその顔は、長くこの空間に閉じ込められていたことを示していた。




