三十四層 : 陽の届かぬところ.01
時間は少し遡り、亜月がふたりの悪魔に連れられ、車に乗り込んだ後のこと。
エンジンの低い振動が、シート越しに背中へ伝わる。
後部座席。隣には誰もいない。
前の座席には、無言のスーツ姿がふたり。
会話は一切ない。
車内に流れるのは、ラジオでも音楽でもなく──ただ道路を滑るタイヤの音だけだった。
……全身、黒い服。
ゼノラで見た異種族のような、派手な髪や目の色ではない。
けれど、面立ちは日本人と言われると、すこし違和感を覚えるそのふたり。
たぶん、この人たちが凌の言ってた、“気をつけなきゃいけない相手”だ。
亜月は音を立てないよう、パーカーのポケットに手を差し込んだ。
指に触れるのは、自分の鍵と、翻訳機が入った小さなケース。
ポケットの中で器用に箱から翻訳機を取り出して、両の耳にそっと付けた。
ぼんやりと、耳の奥が温まる感覚。
でも、窓の外の景色は、無情な速度で流れていく。
どこを通っているのかもわからない。
……どこに連れてかれるんだろ……
頭の片隅で、必死に現実を整理しようとしていた。
けれど、事態が飲み込めない。
自分はなぜ捕まったのか、誰に連れていかれているのか。
何をされたわけでもないのに、背筋に、じわりと冷たい汗が滲んでいた。
凌はなんて言ってたっけ……
とにかく黒い服の人達から逃げることと──人間だと言わず、悪魔のふりをしろってこと。
それ以上は、まだ教わってない。
信号待ちで車が止まる。
ほんの短い静止のあいだに、視界の隅で、見慣れた交差点を見つけた。
……ここ、学校の近くだ。
いつも制服で通っている場所。
笑い声やチャイムの音が、耳の奥に残っている。
なのに今、自分は──
車は静かに、右折した。
その瞬間、亜月の中にあった“日常”が、完全に背後へと押しやられる。
それから高速道路を走って、知らない道に降り……
次に停車したのは、雑居ビルの前だった。
駅前にいくつもある、どこかくたびれた雰囲気の──金券ショップのひとつ。
看板は古く、窓には色褪せたチラシが貼られていた。
……ここ?
スーツの男たちは車のドアを開け、彼女を無言のまま促した。
逃げ場はない。
諦めのように立ち上がった足元に、コンクリートの冷たさが染みた。
外から見れば、ただの金券屋。
けれど、その扉の奥が──世界の境界だった。
店の入口に吊るされた古びた鈴が、からん、と乾いた音を立てた。
外から見れば、どこにでもある店構えだ。
ビルの一階、くたびれたチラシと色褪せたテープ。
けれど、スーツの男たちは何の迷いもなくその扉の中へ、彼女を押し入れた。
中も、ごく普通だった。
ガラス越しのカウンター。棚に並ぶ金券。
「買い取り強化中」と印字された古びたポップすら、偽物には見えない。
ただ──違和感は、そこから先だった。
「こっちです」
低く無機質な声に促され、亜月はカウンター脇の従業員用扉を通された。
事務所の奥、さらにその奥。
埃っぽい倉庫のような場所に通される。
薄暗い蛍光灯。金属ラック。
段ボールに詰まった、もう誰も使わない販促物。
その真ん中に、ぽつんと置かれた古い木製の椅子がひとつ。
「そこに」
言われるままに腰を下ろしたとき、初めて、背筋がひやりと冷えた。
この人たちは、最初からここに“閉じ込める”つもりだったんじゃないか?
そんな思考が頭をよぎる。
眼差しを向けても、男たちは一切こちらを見ない。
搬送担当。
──ただそれだけの役割であることを、彼らの態度が語っている。
しばしの静寂。
男たちの眼差しは、腕時計に落ちていた。
まるで一分、一秒を正確に測るように。
そして時が来たのだろう。
ふいに、男のうちのひとりが、懐から何かを取り出した。
亜月の視線が反応する。
それは──見たことがあった。
黒鉄の鍵。
光沢はなく、煤けたような質感。
普通の合鍵とは明らかに違う、重たさを感じさせるそれを、男は無言のまま、部屋の扉にかざした。
すると、鍵穴のなかったドアノブの金属が、ゆるく“溶ける”ように変形していく。
何もなかった場所に、ぬるりと鍵穴が現れる。
鍵が、差し込まれる。
──これ、“星層扉”だ。
理解が追いついた瞬間、心臓が跳ねた。
……この先は、別の層…?
ゼノラ、もしかしたら、もっと別の……?
行き先を知らされていない。
けれど、直感で分かった。
ここから先、もう“元の世界”には戻れない。
少し話をするだけって、言わなかった?
すぐに終わるって──
逃げようにも、身体は強張って動かない。
男たちは何も言わない。
ただ鍵を回す音だけが、部屋に響いた。
カチリ。
音が鳴った瞬間、空気の密度が変わった。
まるで世界が、わずかに“沈んだ”ようだった。
「立って」
短い指示の声。
肩を押されるようにして立ち上がり、男たちに挟まれて扉の前に立つ。
──そして、一歩、踏み出した。
次の瞬間、視界が水に沈んだように揺れる。
音も重力も、すべてが鈍くなる。
……空気が違う。前に扉をくぐった時と、同じ感じ。
目に見えない膜を抜けたその向こう。
そこには、異なる層の“匂い”があった。
焦げたラズベリーのような香り。
でもその変化を確かめる暇もなく、背後から冷たい布がふわりとかぶせられた。
「……え?!」
目隠しだった。
けれど、何も言われない。
押し返すより早く、両腕を押さえられ、背中を軽く叩かれる。
「進め」
無機質な声。
押し出されるように一歩、また一歩と進む。
しばらくそうして進んでいると、目隠しの布越しに光の気配がゆらいで、重心がわずかにずれた。
──足元が、変わった。
ざり、と砂か石を思わせる音。けれど、地面を歩いている感触ではない。
床はわずかに柔らかく、弾むような質感すらある。
そのまま、後ろから手を添えられて促される。
腰を下ろせと言われるより早く、亜月は薄い座面に背を預けた。
「……」
動き出したのは、それからすぐだった。
何の音もなかった。
振動もない。ただ空気の流れだけが、ゆっくりと周囲を滑っていく。
──動いてる。何かに、乗せられている。
でもそれが車のようなものでも、列車のようなものでもないことは、亜月でもすぐに分かった。
あまりに静かで、あまりに滑らかだった。
まるで地に足がついていないような──
空の上を滑っているような、そんな感覚。
けれど、それは「ふわふわ」ではなかった。
どこか、冷たくて硬質な、張り詰めた気配がこの乗り物にはあった。
……今、どこにいるんだろう…
何も見えないのに、何かが遠ざかっていく気がした。
地面も、時間も、自分という存在すらも。
こうして目隠しをされていると──
「ここではない場所」に、確かに連れていかれているのだと、いやでも実感する。
「……」
押し黙ったまま、亜月はただ風の音なき風を感じていた。
──どれだけ経ったかな。
ぴたり、と乗り物が止まった。
振動のないまま、動き出し、止まる。
それが逆に、不気味さを際立たせた。
やがて目隠しが外される──ことはなかった。
代わりに、耳元で乾いた声が落ちる。
「着いたぞ」
そして、その手は静かに、彼女の持ち物に伸びた。
着いたぞ、の一言の後。
冷たい指先が、亜月のポケットに触れた。
「っ…」
身をすくめる暇もなく、その指先が鍵に触れる。
亜月が自分の手で握りしめようとするより早く、それは引き抜かれていった。
「──鍵を保管する」
後ろで、もうひとりがつぶやく声。
答えるように、なにかが高速で凍りつく気配がした。
冷蔵庫の前に立った時のような、冷たい空気が左側から流れてきた。
目隠し越しでもわかった。
たぶん、私の鍵を、凍らせたんだ。
「保存処理。後で紐付けして保管庫へ」
声に抑揚はない。手順を確認するような、ただの業務連絡。
亜月の手のひらに、もう鍵の温度はなかった。
さっきまで、自分の存在証明のように感じていた重さが──奪われていた。
「立て」
指先に軽く力をかけられ、亜月は立たされる。
そこから歩いた距離は短かった。
目隠しはまだそのままなのに、すぐに周囲の空気が変わったことがわかった。
……狭い。低い。硬い。湿ってる。
そんな言葉ばかりが、肌に触れてきた。
石の気配が強い。
けれど、足元に広がっているのは金属音だった。
水滴のような靴音が、何度も何度も、鉄の上を打っている。
……施設の中……?
小さく考えを巡らせた瞬間、目隠しがふっと外された。
「……っ」
眩しさよりも先に、目に入ってきたのは──黒い壁と、鉄の格子。
自分のいる場所が、独房だと、瞬時に理解できた。
鍵のかかった扉の外に、悪魔の女が立っていた。
全身黒のフォーマルドレス。
その胸元には、銀色に輝くバッジが複数ついている。
「イデラ層管理局局長、アンブレラと申します」
無機質な声だった。
切りそろえられたショートボブの漆黒の髪。
同じく黒い瞳が、まっすぐとこちらを見つめている。
「あなたは、“裁定対象”として正式に拘束されました。現在は“予備審理”の段階にあり、裁判官の召喚を待っています」
「よ、予備審理…?」
「あなたに課せられたのは“協力義務付き拘束”です。裁判までは、この施設で過ごしてもらいます」
「え、あ、待っ──」
ただそれだけを言い残して、彼女は踵を返した。
ふわりとレースの裾が揺れる。
扉の外で鳴る、施錠の音。
──がちり。
その音が、部屋の空気を静止させた。
空間は、思ったよりも狭い。
ベッドのようなものがひとつと、洗面台。
簡易的な机と椅子があるだけ。
それに、どこか遠くから絶えず水音が聞こえるし、実際に天井や壁を水滴が滴っている。
窓は高い位置に一つだけ。
それも、とても小さい。
──凌は、今、何をしているんだろう。
その問いが、最初に浮かんだのが悔しかった。
だけど。
目隠しをされ、鍵を奪われ、居場所も知らされず──
たった今、世界のどこにも自分がいないような感覚に陥っていた。
だからこそ、その名前が、思考の底に明かりのように灯ってしまった。
亜月はどうしようもなく不安な気持ちを押し殺すように、ベッドの端に腰掛けて、膝を抱えた。
そこに顔を埋めて、強く自分の服を握りしめる。
「……凌…翔くん…」
つぶやいた声は誰にも聞かれなかった。
でも、窓の格子に巣を張り始めた、小さな蜘蛛だけが知っていた。




