三十二層 : 鬼灯の記憶.03
結局脱衣場から動けなかった翔は、竹の長椅子に腰掛けたまま、扉一枚向こうから聞こえてくる声に耳を澄ませていた。
闇丸のはつらつとした声は聞き取りやすい。
けれど凌の空気の溶けるような声は、ほとんど何を言っているかわからなかった。
……聞いても、僕にはどうしようもないけど。
そんな皮肉を心でつぶやいた時、凌と闇丸が脱衣所へ戻ってきた。
本当に今まで湯船に浸かっていたのかと疑いたくなるほど、真っ白なままの凌の肌。
そこに見える火傷痕から、翔は咄嗟に目を逸らした。
凌はそれに気がついていながらも、何も言わなかった。
淡々と服を着て、最後に羽織を軽く肩にかける。
そして何も言わない翔を連れて、湯屋の暖簾を潜った。
その瞬間だった。
赤い鬼灯の提灯がふわりと揺れたかと思うと、小さな影がどこからともなく転がるように駆け寄ってきた。
「凌!!」
翔が「え?」と振り向く間もなく、小さな女の子が凌の腰に思い切り飛びつく。
まるで彼が出てくるのを、今か今かと待ちわびていたように。
咄嗟にそれを受け止めた凌が、めんどくさそうに眉を寄せた。
「……重い」
「文句言わないの。ここにいる間は、ずっとくっついててあげる」
怒ったような、でも嬉しそうな声だった。
黒髪のおかっぱ頭に、白と赤の千鳥模様が染め抜かれた着物。足元はぽっくり。
けれど夕焼け色をした目だけはどこか大人びていて、年齢の分からない雰囲気だった。
そしてその見た目は、翔にとって見覚えのあるもので──
「もしかして、座敷わらし……?」
翔が恐る恐る尋ねる。
小学校の図書室でみた、妖怪図鑑。
それで見たまんまの姿の彼女は、にっこり──いや、にたりと笑った。
「福よ。この通りじゃ、あたしが一番凌の成長見てきてるんだから」
得意げに、翔を見上げるその姿がなんとも頼もしい。
「何百年前の話してんだよ」
凌は呆れるものの、その小さな手を剥がそうとはしなかった。
器用に凌の背中をよじ登る福。
鬱陶しそうに、でも何も言わず、凌は背に腕を回して小さな体を背負った。
「昔はもっと素直だったのにねえ?」
「……うるさい」
「だって本当のことだもの」
「……」
「あら、照れてんの?」
「違う」
どちらが子供かわからないような、そんな掛け合い。
闇丸はそれを一歩後ろで眺めながら、音もなく笑った。
翔は反対に、珍しいものを見るように、凌のことを見つめている。
──凌って…本当は、いろんな顔を持ってるんだ。
見えてるのは、ほんの一部だけで。
鬼灯が多く照らす表通りに戻ると、そこは、不思議な色をしていた。
提灯の明かりが空中に浮かび、赤でも橙でもない“妖しい光”が、土の道や石畳を照らしている。
さっきまではなかった、通りに漂う香ばしい匂いと、どこかから聞こえる三味線の音。
まるでどこかの縁日のようだった。
「わあ…」
翔は思わず声を漏らしていた。
入りたての時に感じた不気味な視線や、こそこそ話はもうどこにもない。
縁側で寝転がる猫又。
あんこ屋で餅を売るの化け狸。
何かを警戒するように彷徨く赤と青の鬼。
洗濯物と流れる一反木綿…
そこには、当たり前のように、妖怪たちが通りで生活していた。
「なんだ、凌じゃねえか」
あちこち気になる物が多すぎて、目が足りない。
翔が目をちかちかさせていると、ふと誰かに声をかけられて、凌が歩みを止めた。
声の方を見れば、茶屋の店先に出された赤い長椅子に──ぬらりひょん。
「まだ生きてたのか、お前さん」
「…そのまま返すよ」
「へへ、口が減らねえのは変わんねえなあ」
どこからともなく酒を取り出し、舐めるように飲む。
「飯まだだろ?食っていけよ」
「要らない」
「いいじゃないの。あんたが食べなくても、この人間は食べるでしょ」
凌の背中に張り付いたまま、あっけらかんと福が言う。
凌は気だるそうに顔をしかめたけれど、翔をちらりと一瞥した。
翔の幼い顔は、どこか期待と不安が浮かんでいて。
「……騒がしいのは好きじゃないって」
「そう言わさんな。きっとみんな待ってるよ」
「……」
「お前さんの顔を忘れてない奴らは、ここにたくさんいる」
ぬらりひょんの酒焼けした声に、凌は目を伏せた。
本来なら、日が落ちればディアナ・ホロの“沈黙”を守る時間だった。
凌の包帯の指先が、手首に巻かれた黒布に触れる。
けれど煌々と照る灯りの多さは、むしろヴァルカニア祭を彷彿させる。
そのくせ、少し不気味な雰囲気が滲み出るのは、妖怪街だからこそなんだろうけど──
その懐かしさが、ここに来る時震えるほどに煮えた怒りを、優しく解していく。
「……少しだけな」
その言葉を待っていたように、ぬらりひょんは椅子から立ち上がる。
今まで何も言わなかった闇丸が、示し合わせたように「こっちですよ」と手招いた。
先を歩く闇丸の肩口から着物の中へ、蜘蛛が一匹滑り込んだのを、凌は見逃さなかった。
──店長め、分かってたな。
凌は心の中でひとりごちる。
闇丸の案内で通されたのは、通りの奥にある広場だった。
真ん中には狂い桜が花をつけている。
でも、夜風は冬ではなく春のそれだった。
──この温かさが桜の違和感を消している。
翔はそんなふうに思いながら、見事な桜の木を見上げた。
その木の根元で、すでに何体もの妖怪たちが食卓を囲んでいた。
まるで花見客のように。
見た目も年齢もバラバラ。
首のない奴がいれば、ふわふわと浮いてる提灯のようなものもいる。
顔が真っ赤な火の玉の子が、ぐるぐると円を描きながら舞っていた。
「凌の坊主が久々に戻ってきたと聞いてなあ!」
「祝いじゃ祝いじゃ!これでも食らえい!」
「その隣の子は…なんだ?人間か?細いな!もっと食え!」
どこからともなく運ばれてくる料理の数々。
焼き魚に、炊き込みご飯、汁物に、おはぎや干し柿のようなものまであった。
「す、すご…!」
気圧されて動けずにいる翔。
けれど心のどこかで、なぜか安心感が滲んできていた。
誰もいなかった、声しか聞こえなかった不気味な通り。
姿が見えても、異形な妖怪たちは怖いはずなのに……
戸惑う翔は、なかなか凌の羽織を離せずにいた。
そんな彼に、火の玉の妖怪がふわっと近づいてきた。
「ねえ人間って本当?オレ、灯丸!沢山食いなよ、ほら!」
「えっ、あ、ありがとう……」
火の玉なのに、唐揚げの皿を運んでる。
しかもちゃんと熱くない。
……不思議すぎ。
翔は思わず受け取って、頬張った。
「……んまっ!」
それを聞いた周囲の妖怪たちが、わっと盛り上がる。
「小僧がうまいってよ!ほれ、次は煮物じゃ!」
「さっさと食え、あっという間に冷めちまうぞ!」
翔の目がまんまるになっていく。
怖い、どころか──あったかい。
あちこちでご飯をついでくれる妖怪たちの手は、時にふわふわで、時にぬめっとしてて、
でもどれも“優しかった”。
翔の手が離れた凌は、ぬらりひょんに背を押され、あっという間に妖怪たちに囲まれていた。
賑やかな笑い声に埋もれる、いつもと変わらない淡々とした声。
平坦な話し方は変わらないのに、どこかそれが柔らかく感じる。
翔は思わず笑った。
凌と出会って一年くらい経つけど、こんなに楽しそうなの、初めて見た。
そしてふと、彼が手にするものが、水の入った湯のみだけだと気がついた。
少し前、ゼノラのレストランで凌が話した内容が思い出される。
翔はためらいながらも、ずっと気になっていた疑問を口にした。
「……ねえ、凌って、妖怪の食べ物もやっぱり食べないの?」
「そうよ〜獏の旦那は水しか飲まないよ〜」
誰に当てたものでもない翔の疑問。それを明るい声が拾った。
そばを漂っていた提灯おばけが、ほわっとした明かりで翔の顔を照らす。
「あ、私はちひ。よろしくね人間〜」
「あ…うん。僕は翔……」
灯丸と同じく、熱くない。
近寄ってきた提灯に驚きながらも、チラリと凌を盗み見る。
「…やっぱり、何食べても”紙”なのかな?」
「なんだ、知ってるんじゃない〜」
「聞いてはいるけどさ、それってどんな気持ちなのかなって思って……」
翔は手元の料理へ目線を落とす。
暖かい湯気、香ばしい匂いや甘い香り。
その全てが、噛めば紙になるなんて……
するとそばから、闇丸が茶碗を片手に声を上げた。
「そういう生き物なんだ。油しか舐めない奴もいる」
「…それは……もっと嫌な気もする」
「あたし、夢みるの好きだから〜食べられたらやだな〜」
ちひが揺れながら言った言葉に、闇丸はふっと笑った。
「はは、そこは心配する必要ねえさ。旦那は悪夢しか食わねえんだとよ。優しいよなあ」
そんなふうに周りが勝手に盛り上がる中、凌は何も言わず、ただ水を啜っていた。
うるさそうにもせず、楽しそうでもなく。
ただそこに、自然に存在している。
「──遠慮せずに、食えよ」
翔の視線に気がついた凌。
静かに目を伏せたまま、声をかけてくれた。
翔はうん、と頷いて、また唐揚げを一口。
なんか──
怖いはずだったのに、ちょっと、懐かしい味がする。
「それにしても、またべったりだな、座敷」
「だってこの子、影が薄くて危なっかしいのよ。ちょっとでも油断すると、死んじまうんじゃないかって心配になっちゃう」
「そんなに…?」
思わず口を挟んだ翔に、福は驚きもせず笑う。
まるで何日もここに居たかのように、自然とその場に馴染んでいった。
「ほんとよ。だからあたしがここにいると、魂がちょっと引き留まるの」
「福の守護つきとは、贅沢なやつだねえ」
「……ねえ、俺の意志、無視しないでくんない」
肩越しに交わされる妖怪たちのやり取り。
巻き込まれる凌の様子を見て、なんとなく、翔はほっとしていた。
それが何の安心か、まだよくわからなかったけれど。
鬼灯通り。
ここは人ならざる者たちの、もう一つの“ふるさと”だった。
知らない世界のはずなのに。
なぜだろう、ここにきてから、少しずつ心がほどけていく気がする──
から揚げを口に含みながら、翔は妖怪たちの声に耳を傾けていた。




