三十一層 : 鬼灯の記憶.02
瓦版屋の脇道を抜け、鬼灯の灯りがまばらになっていく通りを三人で歩いた。
薄暗い裏路地を抜けた先。闇丸は風のように足音もなく進んでいく。
「こっちですぜ、獏の旦那。今なら湯もぬるめでちょうどいい」
赤い提灯の灯りがわずかしかない裏道は、先ほどよりも、さらに闇が深い。
まるで異界に通じているようだった。
舗装されていない地面に足音を落としながら進むと、低く軋むような音が遠くから聞こえた。
それが、木戸の鳴る音だとわかったのは、その建物が見えてからだった。
そこには、古びた木造の湯屋があった。
瓦屋根の上に鬼灯がぶら下がり、静かに風に揺れている。
鬼灯通りのはずれ、瓦版屋の影のように寄り添って建つその木造家屋は、どこか打ち捨てられた神社のようにも見えた。
「湯屋って……僕もお風呂入るの?」
翔の声が、少しだけ裏返る。
場違いな響きに、闇丸がにんまりと笑った。
「好きにしなせいよ。でも、見られるより、見る側でいなきゃ損だぜ坊主」
そう言って、暖簾をくぐる。
“蒸ノ湯”とだけ墨で書かれた布が、風もないのに静かに揺れていた。
中に入ると、ふわりと湯気の匂いが鼻をくすぐった。
板張りの床と、籠が置かれただけの簡素な脱衣所。
客はいないようだった。
壁には見たことがない文字と、抽象的な絵が描かれている。
塗料が剥がれて、所々歯抜けになっている。
しかし辛うじて、霞が広がるように、“何か”が夜に変わる絵のようだと翔には思えた。
おかしな絵だった。
特に変だと思ったのは、その中心には牛なのか虎なのか、よく分からない獣がいたことだ。
これも神獣、なのかな……?
その獣を真ん中に、円を描くように星か、あるいは火の粉か──
なにか煌めくものが、空に昇っているようにも見える。
…不気味。でも、なんか意味がありそう……
視線をうろつかせる翔の横で、凌は何かを諦めたように、無言で羽織を脱ぎ、無造作に籠へと放る。
何度か通ったことがあるような、手慣れた仕草だった。
……やっぱり来たことあるんだ。
ぼんやりとそんなことを思った時。
凌がポロシャツを脱ぎ捨てて──
翔が思わず、息を呑んだ。
ゆっくりと解かれる全身の包帯。露わになる肌。
その白い肌を、灼け跡が走っていた。
肩から胸、そして背中、足元。指の先まで。
場所によっては皮膚が引きつり、色すら変わっている。
ただの火傷の痕ではない。
いや、ただの火では、こんな焼け方はしないように思えた。
見てはいけないものを見てしまった気がした。
それは、傷口よりも、言葉よりも、ずっと深い罪の形だった。
翔はそれを“聞けなかった”。
この焼痕が、なにによって刻まれたものなのか。
凌は、それについて何も言わない。
けれど、その痕が彼の過去の一部であり、そして今なお生きている罪であることを、語らずとも示していた。
言葉を飲んで動けずいる翔へ、凌が振り返る。
「……ただの湯屋だよ」
「……でも…」
「怖いなら、ここで待ってろ」
タオルを肩にかけ、凌は先に戸を押して中へと消える。
翔はしばらく、籠に置かれた包帯を見つめていた。
それが、“過去を引きずる者”の匂いを、強く宿している気がした。
*
ざばりと湯が揺れた。
湯気の立ち込める木造の湯屋。
夜が更け、妖怪たちにとって動きやすい時間にも関わらず、足払いしているのか、一向に他の客が来る気配はない。
蒸気で曇った灯りが、淡く肌を照らす。
背もたれのない浅い湯船に、凌は無言で腰を沈めていた。
その隣、やたらと居心地よさそうに腕を広げて湯を楽しんでいるのが──闇丸だ。
「……なあ、獏の旦那」
「……」
「その火傷……まだ治んねえのかい?」
一拍置いて、視線だけで刺すように睨む凌。
「余計なことは喋るなって、顔だな。相変わらず静かなお方だねえ……」
冗談めかして笑いながらも、闇丸の視線は──凌の腕に残る焼け痕から外れなかった。
「旦那が出てってから、しばらくぶりじゃないか。人の形してんのは珍しいから、見かけねえとすぐ分かるのさ」
「……」
「店長もあれで、旦那のこと可愛がってんだぜ。ここの湯も、火傷にいいのはあの人の捻くれた愛情ってやつですよ」
湯に濡れ、赤く照らされる傷跡。
皮膚が引きつれ、模様のように浮かび上がる。
湯けむりが、それをなおさら目立たせる。
「……よく滑る口だな」
水滴が滴る灰銀の髪をかきあげながら、凌が静かに切り出した。
「それより、さっきの話の続き」
毒気を抜かれたとまではいかなくても、少しだけ、普段の凌に戻ったような気がした。
空気に溶けるような声が、湯気の中で不思議に響く。
闇丸はようやく真面目な表情に変わる。
「──なにを知りたいんで?」
「…裁判所の中で、“心がそこにない奴”がいないか。それでいて、内情に詳しいやつについて」
「……なるほどね。あんた、本気で動くつもりだな」
「…そのために来た」
その言葉に、闇丸は一度目を伏せた。
「……昔、粛清の名のもとに、何人の妖怪が消されたと思う?」
「……」
「“神獣の秩序”の言葉の裏には、血がある。正義なんてのは、言葉を喋る奴の都合だ」
ぽつぽつと話すその口調は、普段の軽口とは違っていた。
悪魔の裁判所が掲げる秩序と規律。そして誇りある死。
それらは、“神獣信仰”に則っていた。
死と慈悲、夜を象徴する──キング・ハーウェン。
そして秩序と均衡を象徴する──アラ・カラ。
この二柱の教えをもとに、悪魔たちは正義を語る。
凌はうすいまぶたを閉じた。
ぽたりぽたりと、天井から垂れる滴が床に落ちる音が聞こえる。
「けど、そんな裁判所の中にも──変わり種がひとり、いる」
少しの沈黙の後、闇丸は勿体ぶるように口を開いた。
”変わり種”という単語に、凌は薄く目を開ける。
「粛清側にいるくせに、やる気のねえ奴さ。なんてったって、そいつは悪魔の裁判所の中で唯一、天使だって噂だ」
「──天使?」
思わず訝しる声が出た。
普段は閉じられている金色の右目まで開いて、闇丸を振り返る。
眉根を寄せる凌に、「そりゃ旦那でも、そんな顔するよな」と闇丸は笑う。
悪魔領と天使領は、同じウルネス層に存在している。
──が、その二種族は、常に争いが絶えない。
種族の違いや土地だけではなく、権力や社会の在り方まで。
まるで違う価値観がぶつかり合い、常に戦争と停戦を繰り返している。
そして今はつかの間の停戦期間。
不可侵条約が結ばれたと聞いたのは、つい二、三百年前の話だ。
それなのに──悪魔領に天使がいる?
「そいつは天使のくせに、派手に騒ぐわけじゃない。ヴァルカニア祭なんかで踊るようなタチでもない」
「……」
「殺しも命令でしか動かないし、“意味のない仕事”は黙って無視するようなやつですよ」
「……特徴は?」
「表向きは小刀を使う。声は低くて、やたら静か。どこにいても、気配すらなく現れる」
表向き。
その言葉に凌が反応したのを、闇丸はその大きな一つ目で見逃さなかった。
「よっぽどの時だけ、銃を使う。本人はひた隠しにしてる」
湯気の向こうで、凌の目がわずかに細くなる。
揺れる湯船と、その上を滑るように巻く湯気。
紅と金の両の目が少しの間、それをじっと見つめていた。
「……名前は?」
「──ガット・ビター」
湯けむりの中で、その名が重たく響いた。
「……会えるか」
「そりゃあ運次第だな。けど──」
闇丸は顎で湯屋の外を示す。
「たまに、あいつの気配はある。仕事のにおいがするんですよ。あっしら妖怪とはちょいと違う、時間の狭間を歩いてるみてえな、不思議な気配だ」
「……」
「おそろしいのはそいつ、目も耳も鼻もとにかく良い。妖怪たちが見つかるほど」
思わず凌も眉を上げた。
紅と金の目が、闇丸を捉える。
「…死角にいても?」
「ああ。あたしも直接見たことはないけどね……あっちは気付いてたんじゃないかって、後になって思うのさ」
凌はわずかに肩を沈める。
湯に濡れた火傷の痕が、より赤く滲んで見えた。
──ガット・ビター。
凌は生きていく上で、裁判所に関する最低限の情報を掴んでいた気でいたが……
それは、聞いたことがない名前だった。
「……代金は後で払う」
「ちょっと待った」
凌は腰を浮かせて、湯船を出ようとした。
けれど、闇丸がそれを止める。
「…ひとつだけ、こっちからも聞いていいですかい?答えてくれたら、おまけを一つつけるからよ」
無言のまま、再び金の目はまぶたの奥に閉じられ、残された紅い目が闇丸を見る。
「旦那、あんた──悪夢もあんまり食わねえで、どうしたいんだ?」
沈黙が落ちた。
またどこかで天井から水滴が落ちる音が響く。
「…いや、前見た時より、やっぱり影が薄くなってる気がして、気が気じゃないんだよ」
「……死にそうか?」
「…今にもね」
凌は立ち上がりかけた体を再び湯に沈め、長く息を吐いた。
そしてぽつりと、一言。
「……誰かの記憶が、無かったことになるのが嫌なだけだよ」
「獏が食った夢は二度と見なくなる、ってやつかい?」
「そ。死人を悼む夢でも食ってみろ」
ふと、凌は自嘲するように僅かに笑んだ。
「それは、二度殺されるのと、同じだろ」
記憶されなくなった死者は、はたして生きていたと証明できるのか。
そんな疑問は、何度となく自分に問いかけてきた。
答えなんて出ない。
死んだ先のことなんて、誰も分からないのだから。
闇丸はまぶたをそっと閉じて座る凌を、その大きな目で見つめた。
そこにいるのに、はっきりと輪廓が掴めない。
湯気にさえ隠れる存在感。
目の下のくまは前より濃いし、それなりに浸かったはずの湯に、白すぎる肌はまったく赤みを帯びない。
……ほんとに、幽霊みたいなお方だね。
妖怪なんて一括りには語れない者たちばかりだ。
だとしても、人の形をしてるなら、多少なりと生き物としての道理を踏んでもいいはずなのに。
まるで存在を世界から拒絶されるような、そんな儚さが凌にはあった。
「旦那」
声をかければ、薄目があく。
紅い目は眠たげに見えた。
「ガット・ビターについて、あとで少しおまけしてやるよ」
「…へえ。ずいぶん優しいな」
「あんたが死にそうな顔してるからだよ」
冗談めかして言うが、心ではザワついていた。
店長がやけに気にかけるのも、納得出来る。
最後の獏だから、とか。
そんな都合の話じゃないんだろうね。
「ところで、さっきの坊主は入ってこないんですかね」
唐突に話題を切り替えて、闇丸は悪戯に笑う。
凌はふっと肩の力を抜いて、呆れたように大きな目へ視線を投げる。
「目玉が一つしかないやつと、風呂に入ろうなんて人間はそういないよ」
「やっぱり、人間なんですかい?」
「……ほとんどは」
「へえ……」
少しの沈黙が落ちた。
闇丸は困ったように肩をすくませる。
「ほんと、面倒なもん抱え込みますねえ、旦那は」
「……目の前で死にかけてた。助けるだろ、普通」
「妖怪の普通なら、ひと飲みで終わりですよ」
冗談めかして言う台詞に、凌が顔をしかめた。
じっとりとした眼差しを気にもせず、闇丸はカラカラ笑う。
それきり、ふたりの間に言葉はなかった。
また、湯が静かに揺れた。




