三十層 : 鬼灯の記憶.01
普段は緩やかな動きの凌にしては、驚くほど早い足取りだった。
翔を言葉少なに引き連れたまま、彼はすぐにゼノラ層へと戻ってくる。
都市の輪郭をなぞるように、外壁沿いを歩く。
壁の切れ目から関所を通って、外へ。
翔が街の外に出るのは初めてだった。
整備された街道があるのに、凌はすぐに方向を変えて、再び壁沿いに歩き出す。
そこは開拓されていない森だった。
けれど、ウルネスの悪魔領とは雰囲気が全く違う。
高い樹冠と鬱蒼とした木立の中にも、夕日の赤が差し込んでいた。
壁沿いに進んでしばらくすると──陰を帯びた鳥居が一つ、壁にぴたりと寄り添って立っていた。
「……ここが?」
翔が思わず声を漏らす。
赤く塗られた鳥居は、城塞の外壁に半ばめり込むように立っており、通れそうな隙間など一切ない。
だが、凌は何も言わず、そのまま一歩を踏み出した。
「ちょ──っ、凌…!」
翔が叫ぶより早く、彼の姿は鳥居の向こうで“揺らいだ”。
壁の表面が水面のように波紋を広げ、凌の体がゆっくりと染み込むように消えていく。
追いかけようとしたその瞬間、足がすくんだ。
目の前の壁が、水のように“揺れて”いる。
現実じゃありえない光景に、声すら出ない。
けれど、次の瞬間には──自分の体も、その波紋に触れていた。
水面の向こうに滲む凌を見失わないように、翔は鳥居の中へと踏み込んだ。
鳥居を抜けた途端、暖かい風が頬を撫でた。
まるで別の層に入り込んだかと疑うほど、そこにはまた別の世界が広がっている。
まず目を引いたのは、異様な数の“鬼灯”だった。
道の両脇に連なる長屋、すれ違う者の気配すらない閑散とした通り。
その屋根から屋根へと連なる鬼灯の形をした提灯だけが、幽かに揺れていた。
浮かぶ灯りと仄かな熱を宿すそれらが、赤と橙で通りを赤く染めている。
そして次に目がいったのは、空の色。
先ほど日本で見上げたはずの太陽は、西に傾き、空を赤く染めていたのを覚えている。
そして、ゼノラの街を抜ける時も、あまり変わらない角度で空は染まっていた。
けれど、ここはすでに、とっぷりと夜の帷が降りていた。
翔も、層ごとに時差が存在することは知っていた。
たしか、イデラとゼノラは、一時間くらいしか違わなかったはず……
「……」
まるで時代劇や大河の映画セットのよう。
けれど、お化け屋敷みたいな雰囲気に、翔は思わず凌の羽織の裾を掴む。
不自然なほど、誰の気配もしない。
なのに、提灯の影だけが、どこかでこちらを“見ている”気がした。
無言のまま進む彼の背は、拒絶もせず、振り返りもせず──ただ静かに、目的地へと歩を進める。
ここは、妖たちの街──鬼灯通り。
かつてイデラに多く住んでいた妖怪たち。
裁判所の規律が厳しくなり、人類の“科学”が未知を淘汰していく過程で、いつしか彼らはこの通りに身を寄せるようになった。
この通りは、“忘れられた者たち”の避難所だった。
凌は慣れた足取りで、“誰の姿も見えない”その通りを進んでいく。
行き先は瓦版屋。
今は何より、確かな情報が欲しかった。
……いや、それだけじゃない。
少しの時間を経て、胸の奥の怒りは落ち着きかけていた。
けれど、この通りに入った瞬間から漂う香の匂いが、鼻をつくたびに、火種のように苛立ちをくすぶらせる。
妖たちの街では、言葉より“蜘蛛の情報”が信じられている。
そして今、彼はその“蜘蛛”にさえ腹を立てていた。
「おや、あれを見てよ」
ひそひそ。
どこからともなく声が聞こえた。
──けれど、見渡しても誰もない。
「──あれは獏の旦那だよ。やっぱり、いい男だねえ」
「まあほんと。相変わらず肌も白くて透けてるようだわ」
「その後ろは人間じゃないのかい?なんでこんなとこに来たんだろうね」
「食べてもいいのかしら……」
「まだ柔らかそうだし──」
「あらやだ、あんたの歯じゃ噛みきれないでしょ」
「むぐぅ……黙れよ」
姿が見えないまま、ひそひそ話は続く。
気味が悪くて、翔は聞こえないふりを決め込むが、
声だけではなく、たくさんの視線を集めているような気さえしてきた。
長屋と長屋の狭間。
軒先に置きっぱなしにされた雨坪の中。
提灯の灯の届かない長椅子の下──
そこかしこにある闇という闇の中に、目玉があるように思う。
ひとつ、ふたつ、増えていくような気配。
それらに、嘗め回すように見られている──そんな錯覚。
じっとりと嫌な汗が浮いてきた。
「気にすんな。妖怪は死角に入るのが上手いんだ」
全く周囲の声や視線を意に介さないまま、凌は言う。
そうかもしれないが、翔にとって、気にしないようにするのは至難の業だった。
早く帰りたいと思った矢先、澱みなく動かしていた凌の歩みが止まった。
見上げれば平屋の入口に『屋版瓦』の文字。
暖簾をくぐって中に入ろうとすると、それより先に、なにか黒いものが転がり出てきた。
「勘弁してくだせえよ店長!」
それは、奉公人のようないでたちの小男だった。
転がった拍子に目深にかぶってしまった笠を持ち上げる。
すると、その顔が露わになり──翔は小さな悲鳴をあげた。
無理もない。
その顔の半分が大きな目だったのだから。
俗にいう、一つ目小僧だった。
小男は凌たちを気にかける余裕もないようで、暖簾の奥の何かに低姿勢のまま反論している。
「あたしゃ何日働かされてると思ってんです?いい加減休みの一日くらい──」
「あらやだ。まるで私が休ませてあげない、いけずな女のように聞こえるわあ」
縋るような小男に続いて、優しげな声が屋内から聞こえた。
暖簾の奥から、声だけが続く。
見えないというのに、確かな存在感。
そして声の主が、こちらの“顔”まで見えていることを思い知らされる。
「──凌。新しい子を連れてきたのね」
声が凌を呼んだことで、一つ目小僧もようやく、そこに凌と翔がいることに気がついたようだった。
大きな目玉が怪訝そうに、店先に立ったままの凌を見上げる。
「…どうせ知ってただろ」
「知ってるわよ。だって、私が入れてあげたんだもの」
「……」
「じゃなきゃ、鳥居を永遠に潜り続ける羽目になってたのよ」
感謝を促すような言い草に、凌は心底うんざりしたように眉をしかめた。
いつもの鉄面皮が崩れる瞬間を目の当たりにして、翔が思わず目を見開いた。
凌、こんな顔するんだ…
でも、それよりも。
続いた凌の声の冷たさに、翔は身をすくめる。
「そんなこと言ってるんじゃない。店長。あんた、“知ってた”だろ」
同じ言葉を繰り返したのに、今度はたしかに苛立ちが含まれていた。
凌の影が不気味に膨らんだ。
足元に伸びるそれが沸騰する湯のように、今か今かと溢れ出すのを待っているように揺らいでいる。
暖簾の奥の誰かが、ふっと短く息を吐いたような気配がした。
「どうかしら」
涼しげな声が、それでも場を支配する。
「知ってて、黙ってたな? 今日、裁判所の奴らが来ることを」
「──仮に話していたとしても、きっと変わらなかったと思うわ」
その言葉には、責任という概念が含まれていなかった。
まるで“仕方のないこと”として流しているだけのように。
それが返って、凌の怒りをより深く刺激していく。
「だってあの娘さん、妖怪ではないんだもの──お可哀想だけれど」
「……」
「やだわ、怒らないでちょうだい。そんなに睨んだら、巣まで焼けちゃいそう」
笑う声に、血の通った温度はなかった。
そのくせ、蜘蛛の巣のように絡みついて離れない。
飄々と、鈴を転がすように笑う声。
いよいよ凌の影が広がって、そこから黒い腕やなにかの爪、靄のように滲み出る闇が見え始めた。
翔は息を呑んだ。
これは、幻覚じゃない。
生身の悪夢が、彼の中から溢れ出してくる。
「──亜月は今どこだ」
静かな声の中に、刃が潜んでいた。
「それ、“高い”わよ?」
「……」
暖簾の向こうを鋭く睨む凌。
しかし、女の声は涼やかに返す。
「その娘は無事よ。もう暫くはね」
「……」
「でも居場所は教えないわ。だって今のあなた──場所が分かればすぐにでも行ってしまいそうだもの」
その声が完全に挑発ではないことが、余計に恐ろしかった。
言葉を飾ることすら惜しまない“真実”という形で差し出されている。
凌の影がさらに膨れ上がる。
そこから現れる形のない闇に、翔や一つ目小僧が本能的に身体をすくませた。
──このままじゃ、”なにか”が本当に出てくる。
そう思った瞬間、一つ目小僧が慌てて間に滑り込んだ。
「まあまあまあ、待ちなさいなお二方。獏の旦那、あんたもいきなり殴り込みってわけじゃあないでしょ」
「……」
「一旦落ちきやしょうや。急がば回れ、ちゃんと手順踏んで、ね?」
手を揉みながら、にこやかに笑う一つ目。
凌はちらりとそれを一瞥すると、自分の影の広がりを少しずつ収束させていく。
──手順。
その言葉が、凌に冷静さを取り戻させた。
……今、自分も亜月も、そして翔も、綱渡状態だ。
一歩踏み間違えれば、奈落の底に落とされる。
あの、悪魔たちによって。
すこしの沈黙を挟んで、凌は静かに息を吸った。
それを音もなく吐き出して、一度まぶたをつぶる。
「……裁判所の内情に詳しくて、心がそこにない奴がいないか、知りたい」
正しい道筋を立て直すように、凌は言葉を選びながらつぶやいた。
揺らぎをなくした影をちら見してから、一つ目はにっこりと笑う。
「へえ、そりゃまた高そうな話だ。裁判所の情報は特別値段がつきますよ?」
「いいよ、いくらでも」
一つ目小僧を見下ろす凌の瞳は静かだった。
それが余計に、恐ろしい。
「……闇丸」
ふと、暖簾の奥の声が一つ目を呼ぶ。
「へえ」
「あなたが教えてあげなさい。この子、今の様子じゃ私の話なんて聞く耳もってくれないわ」
「え、あたしですか?」
「あなたで十分よ」
その言葉を最後に、暖簾の奥の気配が霧散するように消えた気がした。
あちこちに散らばるように。
けれど、散らばった先で、また見られているような感覚。
翔は思わず身震いする。
冷たい風が通りの真ん中を吹き抜けていった。
提灯がかすかに揺れ、誰もいない通りに、布擦れのような音だけが残った。
「結局使いっ走りじゃないかい」
闇丸と呼ばれた一つ目小僧が、わざとらしいため息をひとつついた。
手ぬぐいを首にかけ直しながら、それでもこちらを見上げる。
「じゃ、行きやしょうか。…ちょいと汗流してからで」
「……は?」
そして当然のように紡がれた言葉に、凌は眉根を寄せる。
闇丸はそれを予想していたように、悪戯っぽく微笑んだ。
「この裏手の“ちょっとした湯屋”でよろしいですかね。最近の情報屋同士の物々交換は、風呂場が一番って決まってるんですよ、旦那」
「…ふざけてんの?」
「とんでもない」
大きな目玉が弧を描く。
けれど、そこには嫌味はなく、むしろ何かの温かさがあった。
「気を緩めさせるって意味じゃなくて、逆ですよ。裸になれば、見えないものが見えることもありやすから」
翔が困惑して凌を見るが、凌は少しの沈黙の後、無言で闇丸について歩き出した。
さっきから険悪なように見えて、どこか親しみがある。
凌の知り合い…なのかな。
翔は置いていかれないように、凌の背中を追いかけた。




