三層 : 夢を食う男.02
亜月は夢をみていた。
誰かに抱えられて、暗い路地を駆け抜ける夢。
──そうだ、この夢。
夢の中にいると鮮明に思い出せる。
これは、私が幼い頃から何度も見ている夢だ。
誰が自分を抱えているのか分からない。
どうにも視野がぼやけていて、視力が悪い世界を生きているようだった。
荒い息づかいがすぐ近くで聞こえる。
上下に揺れる霞む視界。
何かに追われているのか、自分を抱える誰かは必死に逃げているようだ。
足音が増える。音が近づく。──追いつかれる。
そう思った瞬間、夢が、止まった。
ぼやけた世界に、ただひとり、ぼんやりと白く浮いて見える男がいた。
まるで幽霊のように、静かに暗闇に佇んでいる。
こんなことは初めてだ。
いつもは追いつかれた足音によって、自分を抱える誰かは捕まる。
そして目が覚めるのに。
白い男が、一歩前へ出る。
目の色が、右と左で違う。
紅と金の瞳が、ぼやける空間に鮮明に浮かんで見えた。
夢が震える。
まるで何かに怯えるように。
男は、静かに口を開けた。
亜月の目の前で、世界がゆっくりとねじれる。
霞のような靄が、吸い寄せられるように男の喉の奥へと消えていく。
ごくりと、男の喉が上下に動いた。
その瞬間、亜月の体が、ぞわりと震えた。
何かを失った感覚だけが、はっきりと肌に残る。
「──ああ、まずい」
男はそう呟き、暗闇に消えた。
夢の中の亜月は、ただじっと、その消えていく白い影の残像を見つめていた。
何かを思い出さなければいけない気がした。
けれど、それが何なのかは──もう分からなかった。
それから急に、体が浮きあがるような、意識の浮上を感じた。
*
「……」
カーテンの隙間から差し込む陽の光に、亜月は目を覚ましていた。
ベッドから足を下ろし、思い切り腕を伸ばす。
やけに体が軽く、気分がスッキリしている気がした。
こんなにぐっすり眠れたの、いつぶりだろう?
……いや、本当にぐっすり眠れたのかな?
夢を見ていた気がする。
どんな夢だったかは、もう思い出せない。
それがどこか、ぽっかり胸に穴を空けているような感じだった。
なんでだろう?
…なんか、変な夢を見た気がするのに、全然、記憶にない。
ついさっきの事のように思うのに、なかなか内容が思い出せない。
ただ、白い男の姿が、うすらぼんやりと脳裏に残っている。
見ていたはずの夢は思い出せないのに、
あの男に“飲み込まれた”瞬間だけは、肌に貼りつくように、今も残っていた。
枕元に充電されているスマホを手にとって、寝転がったまま、慣れた指遣いでSNSを開く。
『変な夢みた気がするのに、全然思い出せない』
『なんか、誰かに夢を食べられた?みたいな。…こわすぎ』
朝は忙しいから、すぐにコメントはつかない。
けど、いつものノリで呟いたそれは、馴染みのアイコンにすぐいいねを押してもらえた。
そして何気なく、新しい呟きを読み込もうとスワイプした。
そのとき。
唐突に画面が──黒くなった。
黒地に白の文字で『このアカウントは利用できません』と書かれている。
「え?」
間違ってログアウトしたのかな。
不思議に思いつつも、再ログインしようとした。
けれど、たった今呟いたはずのアカウントが、凍結されている。
「なにこれ……何かに引っかかった?」
胸の奥がザワザワする。
特におかしなことを呟いたつもりはなかった。
もう一度、今度は別のアカウントでログイン。
そして試しに、さっきと同じような投稿をしてみる。
と…また凍結。
「……意図的に通報されてる?」
体の中の重りが取れたような、清々しい朝だったはずなのに。
今はカーテンの隙間から入り込む光でさえ、どこか怪しく揺れているように見える。
外は明るいのに、部屋の中はほんのり薄暗い。
その対比が少し恐ろしくて、亜月はふるりと肩を震わせた。
試しに検索エンジンを開いて、『夢を食う男』と調べてみる。
けれど、ヒットしたのはたったの五件しかなかった。
どれも開けば『404 NOT FOUND』の文字。
無機質に、画面上に表示されている。
ようやく開けるページを見つけたかと思えば、数年前まで動いていた形跡のある、掲示板のログ。
しかも全部、個人の書き込みのみ。
公式な情報は一切ないようだった。
こんなワードなら、都市伝説やオカルト系で、大量の情報が錯綜していそうなものなのに…
古臭い簡素なデザインの掲示板には『夢を食われた気がする』という匿名の書き込みがあった。
けれど、返信は全て削除済みになっている。
ただ、『僕も似たような夢を…』と誰かが返信した、冒頭部分のキャッシュだけが残っていた。
唯一のコメントには、『この前友達も同じようなこと言ってた』という書き込み。
でも、投稿者のアカウントはすでに消えているようだ。
その先はどこをクリックしても辿れない。
情報の不確かさもさながら、何か大きなものが裏で動いているような気がしてしまう。
まるで、情報が意図的に消されている感じがして、亜月はスマホをベッドへ投げた。
ぽすんと、布団に軽く沈み込む携帯。
「…なんか、やな感じ」
陰謀論を信じるつもりはないけど、何かが蠢いている。
そう思わせる最悪な朝となってしまったことに、亜月はため息をついた。
やっぱり、そういう星の下に生まれたのかもしれない。
また彼女の小さな“悲劇”が顔を出してくる。
それを振り切り、彼女は立ち上がった。
夢なんて変で当たり前。
そう割り切って、制服がかかるハンガーへ手をかける。
さて、今日の学校の準備をしないと。




