二十九層 : 沈黙の審問.04
ゼノラ層を経由してイデラ層へ戻り、凌は自らの家の敷地を跨いだ。
先程までいたウルネス層は、まだ昼前だったのに対し、日本の空は赤くなりつつある。
差し込む光が夕陽の橙。
それに、軽い時差ボケを覚えた。
玄関の扉を開けると、乾いた冬の空気がすり抜けていった。
朝出ていった時と何一つ変わらない部屋。
けれど、その“変わらなさ”が、妙に居心地を悪くさせた。
靴を脱ぎ、羽織を軽く壁にかける。
室内の灯りはすでに点いていた。けれど人の気配がない。
キッチンに湯を沸かしたような痕跡も、食器の並ぶ音も──どこにもない。
テーブルの上には、丸められたクロスと、その隣にぽつんと置かれたスマートフォン。亜月のものだった。
「……翔?」
呼びかけても返事はない。
廊下を抜け、扉を開けると、ベッドの端に座り込む翔がいた。
猫背で、スマホを握りしめたまま、顔を伏せている。
ゴーグルが床に転がっていた。
「──凌」
ゆっくりと顔を上げた翔の目元は赤く、声はひどくかすれていた。
「……ごめん。僕…何もできなかった」
凌の胸に、なにか冷たいものが落ちる。
けれどその表情は変わらなかった。
ただ一言だけ。
「──何があった?」
凌は一歩だけ、翔に近づいた。
膝をついて、目の高さを合わせる。
けれどそれ以上、何も言わなかった。
そして──時間は、巻き戻る。
午後の光が窓から差し込む中、亜月は二階の──これから自室になる予定の部屋で段ボールを開けていた。
「ねえ、翔くん、この部屋ほんとに使っていいって凌が言ってたの?」
「うん!二階は僕ら使わないから、都合いいだろって」
そういう小さな気遣いができるくせに、普段はあまりに口数が少ないからこそ気づきにくい。
けれど、この数日で彼女は学んでいた。
凌が隠そうとする優しさの見つけ方を。
埃をかぶっていた、ダイニングのストーブ。
凌は寒さに強いようだし、翔くんは自室にいるから使われてなかったみたいだけど……
私が来るようになってから、いつも部屋を暖めてくれてた。
ほんの些細なことだけど、胸の内を暖めるには十分だった。
──その時、インターホンが鳴った。
「あれ?トラックはもう帰ったのに…誰だろ?」
まっさきに翔が階段を降りて、ダイニングの親機を確認する。
小さなモニターには、スーツ姿の男たちがふたり映っていた。
どこか無表情な顔、首元に見慣れない銀のバッジ。
「──アツキさんにお話がありまして」
口調は丁寧だが、どこか“拒否は許されない”響きがある。
なにより、発音の癖。イントネーション。
日常会話ではまず耳にしない“どこか異なる層”のにおいがした。
翔の後を追って降りてきた亜月は、インターホンから翔を遠ざけ、その前に立った。
「…どちら様ですか?」
「ゼノラ管理局からの依頼で伺っております。“本人確認と簡単な聞き取り”です。──すぐに終わります、ご安心を」
その言葉に、亜月の心がわずかに波打った。
……そんなの、凌からは何も聞いてない。
警戒が、胸の奥でうずく。
けれど──モニター越しのふたりは、どこか“もう知っている”顔をしていた。
「翔くん、扉は……」
「……僕、断ってくる」
翔が言いかけたときだった。
インターホンの音が、もう一度鳴った。
まるで“時間がない”と念押しするように。
言葉にしない圧だけが、強まっていく。
きっと、このままだと押し入ってくる。
亜月の直感がそう告げていた。
不安そうにする翔を部屋の奥へ押し、目線を合わせるためしゃがみこむ。
「翔くん……」
「え、あ……亜月ちゃん……?」
「翔くんはここで待ってて。絶対──出てこないで」
困惑する翔の肩をゆっくり撫でて、立ち上がる。
「……大丈夫、すぐ戻るから」
笑ってみせた顔は、自分でも作り物のように感じた。
でも、呼ばれたのは私だ。
翔くんを巻き込むわけにはいかない。
ぎゅ、と拳を握って、亜月はダイニングを出た。
ガラス戸をぴたりと閉めてから、玄関へ。
玄関まで来た亜月の前に、スーツの男たちがいた。
戸を少しだけ開けたその隙間に、一歩だけ差し込まれた足。
──その動きは、穏やかであるほどに、強制だった。
「……あの、今日は引っ越しで──」
「構いません。すぐにお戻しします」
逃げ道はなかった。
視線を少し外しただけで、背筋に粘るような嫌な感覚が走る。
このまま断っても、いずれは同じだと──何かが、そう告げていた。
靴を履く手が少しだけ震えた。
それを見せないように、家の中に背を向ける。
一瞬振り返った先、ガラス戸にほんのり翔の輪郭が浮いていた。
この人たちに気づかれる前に、出なきゃ。
皮肉にも、心配で顔を覗かせる翔の姿が後押しになった。
そして──扉は閉まり、音を立てて、現実を遮断した。
光が完全に閉じる寸前。
翔はふと、男たちが身につけていたものすべてが──漆黒で統一されていたことに気がついた。
ただのスーツじゃない。
それは、“裁く側”の色だった。
途中言葉に詰まりながらも説明を終えた翔は、再び顔を伏せる。
「……連れてかれちゃった……あの時は、何が起きてるのか分かんなかったけど、思い出すとふたりとも、真っ黒の服だったと思う。だから、きっと──」
「……」
「すぐに、凌に連絡、しようと思ったんだ。でも…連絡手段がなくて……」
スマホを握りしめる翔の手は震えていた。
「……あのとき、もっとなにか、僕もできてれば……」
震える声に、凌は何も言わない。
ただ視線を落とし、静かに拳を握りしめた。
──謀られた。
真実を知ることはできないが、その言葉が、確かに質量をもっていた。
誓約書にサインするとき……
ソルヴァンは時計を気にしてなかったか?
あれは、正確な時間を記録するためじゃなくて──
──”亜月の拘束後に署名させるため”だったんじゃないか?
リーテが「署名した瞬間から」と言っていた。
その時にはなにも引っかかりなんて覚えなかった。
でも今思うとすべてが、計算の上に立たされていたんだと、凌は確信していた。
獏を裁かず、混血だけをかすめ取っていく。
ただ、それだけのために用意された、茶番。
「……車のナンバー、覚えてるか」
「……え?」
「行き先は?」
「なにも……僕、ただ……見てるだけで……」
「──分かった」
凌が翔を責めることはなかった。
けれど、彼の足元の影がじわりと広がって、そこから何かが翔を見つめている気がした。
何も見えないのに、手招きされているような。
見慣れた自室が、急に暗くなったように思える。
明かりは付けていなかったが、それでも差し込む西日があったはずなのに、影が濃い。
「し、凌──」
「お前は顔、覚えられてないか?」
「……僕は、たぶん見られてないから…」
「……行くぞ」
踵を返した凌は、さっき壁にかけたばかりの羽織を手に取る。
一歩、玄関へ向かう。
凌の背が、初めて“怒り”に見えた気がした。
廊下が長く歪んでいるように見える。
玄関のガラスから赤い光が染めるそこが、何か不気味な雰囲気を助長させる。
「行くってどこに…?」
翔は普段見ないほどの圧を放つ凌に、思わず問いかけた。
振り返りもしない凌は、履き潰したスニーカーを素足で履く。
「……」
凌は答えなかった。
紅い瞳がいつもより無感情に見える。
それが翔の目にさえ、少し恐ろしく写った。




