二十八層 : 沈黙の審問.03
「知らないものは知らない。これ以上に、話せることがない」
静けさが支配する前室に、凌のはっきりとした声が落とされた。
混血、あるいは人類と断定されてしまえば、亜月は確実に処刑される。
同時に、俺もそれを匿ったとして罪を償わされる。
今はまだ亜月の調査しか入ってないかもしれない。
でも、いずれ翔にも辿り着くだろう。
あいつも、まともな血筋ではないことは確かだ。
……遅かれ早かれの問題だ。
凌はひとつ息を吐いて、ゆっくり瞬きをする。
「言葉が足りないなら、誓約書の上書きでもすればいい。……俺はそれに署名する。ただ、これ以上の言葉は、俺にはない」
沈黙が、再び部屋を包んだ。
「…あいつの保護を名乗り出たのは俺だ。何かあったら、俺が責任をとる」
語尾の抜ける声は、ひたすらに静かだった。
でも確かに熱を帯びていた。
なにものにも覆しようがない、覚悟と共に。
誓約とは、無罪を証明する手段ではない。
けれど、ときにそれは──罪を“引き受ける”という選択肢の一つにもなる。
悪魔たちの厳しすぎる法を支えている最大の理由が、この“誓約書”だった。
多くの者が、裁判所と誓約書を結ばされている。
凌もそのひとりだった。
むしろ、唯一の獏の生き残りとして、他よりも厳しい誓約を──彼はすでに、受け入れていた。
その紙に書かれたことは、破れない。
破れば、即時処分。
……その瞬間、声を上げる暇もない。
そして今、その言葉が口にされた瞬間、部屋の空気は確かに緊張を孕んだ。
「犯罪者を、匿うと?」
ソルヴァンの冷たい声が、すでに決められた事実のように突きつけてくる。
まるで氷を落とすように。
凌は思わず眉根を寄せ、彼を睨むように見返した。
凌はすぐには答えずに、ほんのわずか間を置いた。
まるで──この場の“正義”を測っているように。
「……あいつは何もしてない。知らない。……逆に、知らないまま、悪魔が人類社会に溶け込んでいる方が、あんたらにとってはまずいだろ」
ソルヴァンは鼻を鳴らす。
リーテはゆっくりと視線を落とし、机の上に準備されていた新たな誓約書を手に取った。
まるで、こうなることが分かっていたかのように、すでに用意されていたそれを。
「……分かりました。この場における黙秘を、あなたの責任として課す。“アツキ”という人物がもし重大な法に触れたとき、この誓約書に署名した瞬間から、その責はあなたが背負うことになる」
「……」
凌は答えなかった。
けれど、眼差しはまっすぐにリーテを捉えている。
ソルヴァンは自分の腕時計を一度見下ろした。
針はない。けれど、わずかな揺れが時刻を告げる。
「──読み上げておく」
リーテが無言で視線を落とす中、ソルヴァンが新たな誓約書を手に取り、まるで判決文のように無機質に語り始めた。
「対象、山本凌。本誓約の更新に際し、以下の項目を明示する──」
一、裁判所の不利益になる行動を禁ず
一、裁判所からの指示には、いかなる場合も拒否権を持たない
一、誓約違反があった場合、適性ウフは直ちに適性反転を発動
一、反転発動後、三時間以内に裁判所がこれを拘束・処理する権限を保有する
一、対象が保持する鍵のウフ適性は、”永久に無効化”されるものとする
──そして。
「……ここに、一文を追加する」
ソルヴァンは眼鏡を押し上げる。
金の瞳が、ほんのわずかに細められた。
一、適性ウフの適性反転は、誓約違反があった場合“永久”に反転するものとする
「……これが、今回の追加内容である」
適性ウフ──それは、生まれ持った“自分の個性”のようなもの。
かつて、多くの種族が神獣に近しい存在だった頃。
彼らはそれぞれに、“固有能力”と呼ばれる特別な力を持っていた。
悪魔は鏡を抜け、夢を渡り、囁きひとつで他人の心へ声を届けた。
天使の涙は万能薬となり、その佇まいだけで魂を浄化した。
ウフとは、神獣に等しい存在──ドラゴンの“血の化石”。
その力に似たものを、多くの種族は自らの“血”に宿していた。
けれど今──
その力の多くが失われた。
“固有能力”は退化し、種族間の違いは平坦化されつつある。
神聖な存在から、“ただの生き物”へ。
彼らは皆、その“退化”に怯えていた。
唯一の救いは、血の系譜に応じて、それぞれの適性ウフが現れるようになったことだった。
けれどもう、誰もがウフなしでは自らの力を引き出せない。
ウフ文化の発展は、固有能力の損失と背中合わせだった。
だからこそ、適性ウフは、ただの“能力”ではない。
それは、“生まれ持った自分であり続ける”ための最後の証。
それを“剥奪”されるということは、まるで、こう告げられるようなものだった。
──“お前はもう、ただの人間だ”、と。
そして今──
読み上げられた誓約書には、その“最後の証”に対する支配権を、
裁判所へ譲渡する内容が、確かに記されていた。
一拍の静寂。
「前までは、適性ウフの反転はあくまで三時間の制限つきだった。鍵を作り直せば、再びウフを使うこともできたかもしれない。……だが今回は、“一度でも破れば、お前のウフの力は二度と戻らない”ということだ」
ソルヴァンの視線が、ゆっくりと凌に向けられる。
「……獏にはまだ固有能力が残っている。ウフによらぬ力──それも承知の上だ」
ソルヴァンは指先で誓約書の端をなぞる。
「だが、管理できぬ力こそ最も危うい。力は秩序に従ってこそ価値を持つ。従えぬなら、無力化するまでだ」
その目は一切の感情を浮かべない。
トントンと、ソルヴァンの指先が机を叩く。
「貴様の影のウフは、攻防・移動、全てに応用可能な“汎用適性”。そこに、“影に悪夢を棲まわせる”固有能力が加われば──それはもはや、一種の兵器だ」
「……」
ふっと、わずかに目を細めた。
ソルヴァンの口調は、まるで全てを知っていると言わんばかりだった。
それが、凌にとっては無性に、腹立たしかった。
──分かっててやってる。全部。
ウフを縛っても、俺は夢を食えると。
その力さえ残れば、悪魔たちにとっては十分だってことを。
拳に力がこもった。
爪が皮膚を食い破りそうだった。
それでも、紅い瞳はただ静かに相手を見据えていた。
「我々の記録に照らせば、固有能力とウフが、ここまで噛み合った例は他にない。つまり貴様の存在は例外中の例外」
「……」
「“例外”は、“例外として裁く”しかない」
手元の誓約書を一瞥し、ソルヴァンは小さく鼻を鳴らした。
今回書き足された、“例外”のための一文を見下ろして。
「ウフ適性を失ってでも、貴様は沈黙することで何かを守ろうとしているようだな。だが──その“何か”もまた、裁定の対象だということを忘れるな」
「……」
「──それでも、署名するか?」
冷え切った裁判官の声を、床が吸って、沈黙が落ちる。
凌は口を閉ざしていた。
選択肢なんて初めからなかった。
その中で最善を選んだ結果の、黙秘。
……でも、誰かのために口を閉ざす行為すら、“裁判所に屈した”って顔される。
その沈黙に何が込められているかなんて、悪魔たちにとってはどうでもいいと言わんばかりに。
凌はまぶたを閉じた。
現実から一度、きり離れるように。
………くだらない。
でも、今はまだ誰かを守れる。
怒りを飲み込むことに意味があるなら、それで良かった。
凌は、ゆっくりまぶたを開ける。
一言も返さないまま、静かに手を伸ばした。
差し出された万年筆を取り、目線を落とす。
そして、静かに名前を記す。
さらりと走った銀色のインクの跡が、沈黙の中で重く響いた。
リーテが小さく目を伏せる。
ほんの一瞬だけ、彼の“沈黙”を重く受け取ったように。
ソルヴァンはペンを回収し、書類を重ねる。
小さく鼻を鳴らして、彼はそれきり何も言わなかった。
……こうしておけば、“力に屈した”という形は残る。
その形があるのとないのとでは、守れるものも守れない。
「……凌」
労わるようにリーテが名前を呼ぶ。
立ち去ろうとする凌は足を止め、顔だけ振り返った。
「あなたを守ることも、私たち裁判所の仕事でもあるのよ」
「……」
「秩序とは、そういうものだわ」
……懺悔のつもりだろうか。
普段は感じたことも無いような、確かな苛立ちが腹の底に湧いた気がした。
けれど、声を荒らげるほどの炎には、もうならない。
凌は眼鏡を畳み、適当な手すりの上に置いた。
彼の紅色の瞳がふたりを見つめる。
リーテは目を細め、ソルヴァンはさっと目線を逸らした。
「…あんたたちに守ってもらおうとは思わない」
遠く昔に、彼は思い出を置いてきてしまっていた。
「何をしても、時間は巻戻らない。あんたらが獏を粛清したことも変わらない」
「……」
「思いやるくらいなら、教えてくれよ。秩序の枠組みに、形を変えてまで組み込もうとするのは──正義なのか?」
凌は無意識に羽織の裾を握っていた。
背中に獏の家紋が刺繍された、それを。
反逆思想かと顔をしかめるソルヴァンを、リーテが手で制する。
「どうでもいいよ。あんたら悪魔の正義や秩序は」
「……」
「俺は、ただ静かに生きるだけだ──裁判所に逆らう気はないから、ほっといてくれ」
*
漆黒の塔を後にする。
無機質なまでに生き物の気配がしない、支配の街ネスタ。
鬱蒼と生い茂る森の樹冠は、朝の光さえほとんど遮る。
視界の端で数名の悪魔たちが小競り合いをおこしていた。
泣き声。叫び声。怒声。
普段なら厳粛さを保つはずの裁定の広場に、そんな雑音が響いている。
制服姿の黒服たちが、悪魔たちを取り押さえていく。
引きずられるように倒れた悪魔は、濡れた地面に縋りつきながら叫んだ。
「……あんなに、法を守って、生きてきたのに……!」
「……なんで、なんで魂の裁定で、罰を受けなきゃならないんだ!」
──魂の裁定。
死後の魂の重さを測り、その質量の軽さに応じて遺族には還付金が支払われる。
軽い魂は空に昇り、神獣キング・ハーウェンの輪へ還る。
そして星のひとつとなって、永遠と記憶される。
悪魔たちにとって、それは誇りある死だった。
──が、もし重すぎる場合、その逆も然りだ。
「魂の重さ」は、過去の罪、後悔、未練。
重ければ重いほど、その人生は“悔いのあるもの”として、罪に換わる。
声は張り裂けるようだった。
けれど、誰もそれに耳を傾ける者はいなかった。
黒服たちはただ、冷たい手つきで、粛々と秩序を回収していくだけ。
凌は、塔の影に立ったまま、無言でそれを見下ろしていた。
生き延びるために法を信じて、守った結果がこれだ。
誰も救われない。誰も報われない。
……それでも、裁判所はきっと言う。
“秩序を守った結果です”って。
感情がないわけじゃない。
怒りも、憐れみも、同情も──どれも、胸の奥でひっそりと燃えていた。
悪魔領“安寧の森”は、嘆く悪魔たちの声さえ飲み込む。
都市の外壁の外側は、神獣が棲むとされる森。
そこに仮住まいするからこその、闇が支配する街。
その共存の結果だったはずだ。
でも、森の影を利用して生きる街構造とは異なり、裁判所は自らが闇を拡げていく。
獏という種族を淘汰した組織のくせに、簡単には処罰をしない。
誓約書を結ばせてでも、生き延びさせようとしてくる。
理由なんて簡単だった。
悪夢に苛まれる自分たちを救えるのは獏だけだと、粛清の後に気がついた。ただそれだけ。
そこまでして、魂の重さに固執する。
わずかに見える、白んだ空。
凌は長く息を吐く。
「…ほんと、何なんだろうな、悪夢って」
生きるために夢を食う──そんな単純な話じゃない。
食えば魂が軽くなり、食った相手の夢の記憶は消える。
ただ“食べる”という行為が、凌にとっては、あまりに重かった。
何のために、誰のために、自分は悪夢を食べるのか。
獏種の絶滅は、もう決められた未来だった。
覆しようのないそれは、長い年月の中でゆるやかに凌の感情を削り取っていく。
その中でもわずかに残る”慈悲”が、いつも彼を動かしていた。
幽霊のように。
生きることも死ぬことも選べない狭間で揺れる。
その影に巣食う悪夢が、彼の寿命を削っていく。
光のウフによって、意図的に石畳に落とされた影。
影のウフ適性者が多い悪魔たちの移動用であるそれは、凌の影も伸ばしていた。
そして彼の影に棲む悪夢も、このほの暗さを好むように滲んでいる。
咽び泣く声が響く。
それは、亡くなった誰かを悼む声なのか、
それとも、遺された者に課せられた罪への嘆きなのか。
「……こっちのほうが、よっぽど悪夢だろ」
ふっと、吐き出すように呟いた。
けれど風に乗って、その言葉はすぐにかき消えた。
誰にも聞かれないまま、ただ冷たい空に溶けていった。
もう、この塔に戻ることはない。
凌はまぶたを一度閉じて、ゆっくり開く。
そして静かに歩き出した。




