二十七層 : 沈黙の審問.02
その空間は無音だった。
悪魔領“安寧の森”、中央都市ネスタ。
そこに高く高く聳える秩序のシンボル裁判所──別名、裁定の塔。
色を排除した黒い塔の中にある裁定前室。
ここで罪状は問われない。
あくまで判決前の心象聴取の場として存在していた。
けれどあまりに、重たく冷たい空間だった。
音を吸い込む素材に囲まれた黒い室内。
明かりは天井付近に浮く、光のウフが埋め込まれた天球がひとつ。
淡く青白い光が、床に長く影を落としている。
部屋は丸く、椅子はない。
ただ潔癖なまでに美しい円環模様が、床に描かれている。
凌はそこにひとりで立っていた。
色の薄いジーンズのポケットに、包帯の両手を差し込んだまま。
幽霊のように白い肌と、鮮やかな羽織。
それらが夜のようなこの部屋で、ただひとり、凌の存在だけを浮かび上がらせていた。
けれど、その手首には今日も変わらず、黒い布が巻かれている。
それだけが彼がまだ秩序の中にいることを、辛うじて物語っていた。
凌は、裁定の塔に入ると同時に、“視覚調和用眼鏡”をかけさせられていた。
灰色がかった薄膜レンズ。
装着と同時に、彼の紅色の瞳を墨のような暗色へ変える。
いわば“見た目の矯正器具”。
名前に“調和”なんてつけてはいるけど……
制御しているのは視覚じゃなくて、社会の不快感だろ。
血の色を禁忌とする悪魔社会。
生まれ持った瞳や髪色でさえ、その例外ではなかった。
差別ではない。ただの規定。
そう言えば、何をしても正義になる。
……だったら最初から“赤色禁止眼鏡”とでも名づけておけよ。
凌は皮肉を胸の奥で噛み潰しながら、目線を上へあげた。
天井からは惑星運行を描く金の粒が垂れ、光を浴びるたび微かに震えていた。
音のウフで反応し、誰の声がいつ、どのように震えたか──全てを記録する。
凌は眼鏡越しに、静かにそれを眺めた。
星を模すくせに、あまりに実務的な機能が嫌気を誘う。
そして凌の目の前の壁には、星々と狼の意匠が沈黙を邪魔しない程度に描かれていた。
足元や手首に鎖は繋がれていない。
けれど、ここに立てばみな、逃げられると思う者はいない。
漆黒による圧迫感と虚無感。
そして妙に整えられた美しい装飾が、アンバランスながらも成立していた。
──八時を告げる鐘が鳴る。
それと同時に、凌の正面、光の外にふたりの影が座った。
リーテとソルヴァンだった。
凌は微かに目を細める。
……第二裁判官と第三裁判官だったはずだ。
それぞれが裁判所の、過激派と穏健派筆頭。
前室に入ってくると同時に、ソルヴァンは凌の瞳の色を確認し、そして次に彼の羽織に目を向けた。
翡翠色と──緋色。
わずかに彼の眼差しがきつくなる。
それを凌は眼鏡越しに確かに見ていた。
ポケットの中で、人知れず拳を握り直す。
「──では、始めましょう」
リーテが口を開いた。
あくまで優しげな声。けれど、そこに情はない。
凌は静かに彼女へ隻眼を向けた。
「山本凌、あなたは八日前、ひとりの少女をフォールドラークの鍵屋へ連れていった。その少女、“アツキ”について確認させてください」
「……」
「彼女が鍵を登録されていることは、すでに確認済みです。その素材は──黒鉄と、タングステンの混合」
淡々と告げられる言葉に、凌の瞳がわずかに動いた。
「……タングステン」
「タングステン素材の鍵が、公式に鋳造された記録は一件もありません。そしてあなたもご存知でしょう──フォールドラークの鍵は、本人の血脈に刻まれた“種の記憶”によって素材が決定されるということを」
リーテの声は穏やかに続く。
「本人が何者だと自認していようと関係ない。選ばれる素材は、その者が“何者として生まれたか”を、儀式室に浮かぶ神獣の小石が読み取る」
「……」
「──血に刻まれた出自だけが、唯一の判断基準です」
──つまり、あの鍵は誤魔化せない。
本人の意思でも、職人の操作でも、どうにもならない。
「素材は種族によって完全に異なる。異なる種が混じることは、本来、鍵の構造上あり得ない」
そこへソルヴァンの声が割って入った。
低く、冷ややかに。
一言発するだけで、部屋の温度が下がる思いがした。
「鍵屋が細工をしたのか?──違うな。やつらが素材を操作することは不可能だ」
「……」
「フォールドラークの誇りは、鍵鋳造にだけ注がれている」
書類を弾くように、彼は一枚を机の端に滑らせた。
「そして、女の側に鍵の加工知識があるとも思えん。ならば──彼女の血が混じっているというだけの話だ」
淡々と、けれど確実に足場を削るような圧。
凌はまぶたを閉じた。
視界を遮ってもなお、ソルヴァンの冷めた眼差しが向けられていることがわかる。
「お前は獏でありながら、あの女を鍵屋へ連れて行き、今もなお自身の住処に招いている。──否定するか?」
凌は目を開き、眼鏡越しにまっすぐソルヴァンを見た。
「……否定はしない」
「なら、答えろ」
再び紙を指で弾く。
書かれた名は「アツキ」。
そして素材欄には黒鉄とタングステン──
「その女は、人類か? それとも──混血か?」
沈黙が落ちる。
凌は、その問いを真正面から受け取った。
目を伏せもせず、呼吸を乱さず。
「……あいつが“何者か”は、俺にも分からない」
そこに、嘘はなかった。
凌は、亜月の種族について深くは知らない。
ただ、彼女の父親に借りがある。
そしてその父親が悪魔だということだけは、よく知る事実だった。
……だからこそ、言葉を選ばなきゃ俺も亜月も断罪される。
「嘘は不要よ、山本凌」
リーテが穏やかに重ねた。
「人類であれば、それは重大な問題。“イデラ”から他層への移動は禁止されている」
「そして混血であれば……淘汰の対象になる」
その声に、感情はなかった。
ソルヴァンの言葉には、はっきりと「処分」の響きがあった。
そしてまるでそれが、業務報告の一部のように落ちていた。
「──お前は、裁判所に何かを隠していないか?」
その言葉が落ちると、凌は一拍だけ置き、滔々と答えた。
「俺は、あいつを裁判所に迷惑をかけないよう動かしただけだ。自分が人類だと思い込んで生きているようだったから、手助けしただけ」
堂々としていた。
けれどその内側には、言葉の選び損ね一つで彼女が焼かれるかもしれないという、張り詰めた緊張があった。
「あいつの父親…そいつが悪魔だってことしか、俺は知らない」
「……」
「結果として、その”新しい素材”の鍵が登録されたなら……それ以上の介入はしていない」
色の薄いジーンズのポケットに両手を差し込んだまま。
彼の肩にかかる緋色と翡翠色の羽織は、揺らぎもしない。
眼鏡によって黒く変色した眼差しは、静かに、けれどまっすぐふたりの裁判官を見つめていた。
凌の返答を受け、リーテのまつ毛が微かに震えた。
ソルヴァンはきつく眉根を寄せて、金色の目を細める。
「つまり、知らぬ存ぜぬを通すか……それが、獏の誇りだとでも?」
ソルヴァンの声が刺さるように響く。
まるで──「誇り」という言葉すら貶すような調子で。
けれど、凌の眼差しは揺らがなかった。




