百三十九層:星をまわす.05
ヴェルトルクの朝はどこまでも凪いでいた。
まだソルが完全に上りきらない東の空。
上空は宇宙が透けて、まだ星の煌めきが見えている。
廃闘技場には、今日も昨日同様に多くの天使が集まっていた。
戦士や島民たち。ノイマンも、ヴォルドもグリプやバンズも、そこにいる。
最も影が濃い場所には、いつもの羽織を肩にかけたまま立つ凌の姿もあった。
すでにガットの帰還は全員が知っていた。
闘技場に足を運んだ者たちから順に、思い思いの挨拶を終えた今。
一日目の審問でさえ抜かれなかった重力の剣を前に、ジャックは静かに立っている。
その背後。少し離れた場所に、ガットは音もなく佇む。
剣が突き立てられた境界を隠す草を、彼はフードの奥から一瞥した。
……ずいぶん長い間、ここにあったみてえだな。
ジャックは少しばかりの休息しか得られなかった体を、だるそうに動かす。
肩を回して、包帯が巻かれた手に、いつもの黒い手袋を嵌めた。
右は腕一本覆う長い黒。左は短すぎて、その下から包帯の白が覗いている。
慣れた手つきで、両手剣の柄に指をかけた。
……案外、忘れねえもんだな。
握りすぎて鞣された質感と、吹き曝されて冷たくなっていたはずなのに、
長らく留守だった主の掌が触れた瞬間、まるで受け入れるように、どこか温かみすらあった。
──ゴトリ
地面から引き抜くと言うより、地面を引き上げるような重さがある。
だが、重さは馴染む。痛みより先に、呼吸に溶けていく。
ジャックは傷だらけのそれを軽く撫でて、一閃。空に向かって、振った。
風が切れた。音が鳴いた。
頭上に浮かぶ薄い雲が、静かに割れる。
懐かしい姿に、ガットは無意識に、口元を緩めた。
後ろ手に縛られたままのアントラが、割けた雲を、口を開けたまま見上げていた。
……そういや、初めてジャックの名前が蒼殻中に響いたのって……
たしか、「雲を割った」って噂だった。
自分の身の丈ほどあるような巨大な剣を、あの細腕で振りぬく。
それだけでも信じがたいのに、あまりにあっさりと切られたカノクィムの棲み家に、声も出なかった。
「……で、今日も、“問いかけ”ってやつか?」
ガットがあえて、軽口を叩いた。
ジャックは両手剣を肩に担いで、そんな彼を振り返る。
「答える気あんのか、あの女」
「知らねえよ。降りてこねえ」
面倒くさそうに言いながら、ジャックは長い髪を払う。
「答える気がなくても、答えさせる」
周囲の反応など気にも留めず、ジャックは短く答えた。
けれど、その声には確かな“決意”と“熱量”があった。
ガットは軽く肩をすくめる。
アントラのそばを漂っていたネクが、当たり前のようにジャックの周りを回り始める。
わずかに軌道を揺らしながら、ジャックの言葉を静かに記録していた。
その慣れ切った動きに、ガットがあからさまに顔をしかめた。
コバルトブルーの瞳は、しばらく無言でネクがジャックを周回するのを睨んでいたが、
やがて、低い声でぼそりと吐き捨てる。
「……お前、いつもこの金属回らせてんのか」
明らかな敵意。
ガットのそばに居た戦士が数名、背筋を伸ばした。
「ネクな。勝手に回ってる」
「邪魔だ」
ガットの即答に、ジャックが眉を上げた。
ジャックだけじゃない。
ガットを良く知る天使はみんな、初めて明確な“拒否”を示した彼に驚いた。
「……お前が“はっきり”言うの、珍しいな」
ガットはフードの奥でわずかに眉を寄せる。
「死角が出来る。俺の射線にも影響する。十分な護衛が出来ねえのは、論外だ」
その言葉はまるで感情のない報告のようで、けれど誰もが気づいていた。
──これは全部、“ジャックを守るため”の理由だ。
ネクもまた、同じ結論をはじき出していた。
静かに赤い光を瞬かせながら、そっと軌道を修正する。
「……了解しました。防衛優先で位置調整します」
ふわりと浮かび、そのままガットと正反対──“点対称”の位置へ移動する。
その動きは、あまりにも正確で、迷いがなかった。
ガットはその配置を確認すると、ほんのわずかに息を吐いた。
「……ジャックの視界の邪魔はすんなよ」
「理解しました。対象:ジャック・J・ジッパーの視界を配慮──適正距離を確保します」
ガットのコバルトがちらりとネクをかすめる。
警戒、拒否、そして…微かに“許容”。
三つが同時に浮かぶ目だった。
ジャックはそれを全部見て、声もなく、薄く笑った。
「心配しなくても壊さねえよ」
「……そういう意味じゃねえ」
誰も機械の心配はしてない。
そう言いたげなまなざしを無視して、ジャックは呆れたように笑う。
そしてネクへ片手をひらひらと振った。
「というか、今日はガットにくっついてろよ」
「は?」
思わずガットが腕組みを解いた。
「理由を教えてください」
ネクがゆっくり自転しながら問いかける。
「邪魔だから」
「……」
ばっさり。
無音になったネクが、静かに高度を下げる。
──落ち込んでる…?
見守る天使らがそう思うほどに、ネクの赤いライトが弱く点滅した。
……内部電圧のゆらぎ、と言えなくもない。
「今日で終わらす。お前に気を使ってる余裕はねえ」
けれど、その短い一言に、ネクの軌道がふわりと持ち上がる。
赤い機械眼がわずかに明度を取り戻し、周囲の空気がほんの少しやわらぐ。
……やばい。ウチの子かわいくない?
アントラは、叫びそうになるのを必死にとどめた。
反対に、ガットの機嫌はみるみる下がる一方だった。
あの球体が俺の周りに張り付く?──冗談じゃねえ。
「……他の誰かにしろよ」
ガットが低く言う。
その声音は普段どれだけ無表情でも滲み出ない“拒絶”に満ちていた。
「別に誰でもいいだろ」
ジャックが肩越しにぞんざいに返す。
ガットの口角が更に下がる。
「……だったら、余計に俺はやめろ」
その瞬間、ネクが静かに回転を止め、淡々と答えた。
「私はガット・ビターの随行に賛成です。対象:ジャックへの観察における影響指数が最も──」
「黙れ金属」
最後まで言わせない。
フードの奥でわずかに眉を寄せ、ガットは一歩だけ下がった。
それでもネクは気にする様子もなく、もうすでにガットの周囲二メートル圏へ漂い出ている。
ちょうど“護衛の死角”を埋めるような角度だった。
零度の空気を纏うガットのそばで、アウディがかすかに震えた。
ゾムリスが、ため息まじりの声で割って入る。
「預かってもいいぜ、ガット」
「いいえ。ジャックを観測するにあたり、ガットに随行が最適解です」
「え、じゃあウチについてきてよ!」
「残念です、アントラ」
「どういうこと?!」
間髪入れずネクが反論する。
その声はいつもの無機質なのに、どこか“意固地”にも聞こえた。
ラスターが笑いながら言う。
「頑なだね」
それでもネクは、まるで“危険判定”でも受けたかのように、くるりと向きを変えてガットの反対側へ逃げるように旋回した。
「……」
「撃つなよ、ガット」
ガットの指が、ポケットの鍵へ触れかける。
その一瞬の火花のような殺気を、ジャックの一声が寸前で止めた。
「やめろ」
その一言で、ガットの指がポケットの鍵から離れた。
ネクは何事もなかったように軌道を描き続ける。
赤い光が小さく瞬き、ジャックとガットの間を悠々と巡った。
その金属の丸い影が、ひどく目ざわりだった。
無音。無表情。鼓動も筋肉もなければ、感情の揺らぎもない。
五感を鋭く研ぎ澄ませたところで、読み取れる要素が何ひとつない。
なのに──熱源感知は、いくら気配を削ぐガットでさえも確実に捉えてくる。
……いや、そんなことより。
何より許せねえのは──
正確無比にジャックのデータを録り続けて、
その情報をクリスへ送るために張り付いているという、その事実だ。
……壊さねえ理由がひとつもねえ。
けど、壊せない。
たった一言。“やめろ”の命令がある限り。
「………」
乾いた沈黙の中、小さく笑う声が割り込んだ。
「へへ、強敵だな、ガット」
瓦礫に腰かけていたヴォルドが、掠れた声で言った。
懐かしい声だった。
前より視力が落ちてるのがわかる。
それだけじゃねえ。
服の下に隠れていても、全身筋肉が減った。
足が枝のように細い。肌のしわも増えて、髪は薄く、呼吸は浅い。
街から闘技場まで来るのさえ限界を感じさせる、抗いようのない“老い”。
けれど、その遊び心のある調子は、昔のまんまだ。
老天使の背を支えるように立つノイマンも、どこか穏やかな目でガットを見守っていた。
その視線にむずがゆさを感じながら、ガットは深いため息を吐いた。
気だるげに首を回して、視線を外へ。
ふと、天使らの輪の外。
闘技場の壁沿いに立つ、影の薄い男に気が付いた。
凌だ。
そういや、昨日の夜もすでにいたな。
なんであいつがここに。
ゼノラ層の病院で分かれてから、もう二度と会うことはないと思っていた、共犯者。
一瞬、その紅い目とコバルトブルーが交わったが、凌はすぐに眠たげにまぶたを伏せた。
「そろそろ時間です」
一歩、ジャックへ歩み寄ったグリプが声をかける。
幼い横顔はあまり変わらない。
でも、声は、記憶の頃よりしっかりと張っている。
「ああ」
短いジャックの返事。
それからポンと、軽く小さな肩を叩く黒手袋。
誰も気にもかけないその所作に、ガットだけがわずかに眉をあげた。
変わってない。
変わってないはずなのに──なにかが、変わっている。
グリプの背を叩き、ゾムリスたち戦士に叱咤されても怒らず、妙な機械に懐かれながら。
何が変わったか、うまく言葉にできなかった。
でも、裁判所で“停止”していた自分とは、違う。
長い銀髪を靡かせるその背は、相変わらずまっすぐで、
いつも通り、その足取りは迷うことなく進んでいく。
「ジャック、ちゃんと帰ってこいよ」
歩き出した背中を追いかけながら、肉屋が声をかけた。
「足一本くらいなら、折ってきてもいいけどな」
「やめろよ縁起でもねえなあ」
「大丈夫だって。こいつの昨日の戦いぶり見ただろ?」
魚屋もパン屋も、昔からいる奴らを中心に、島民たちがジャックの肩や背を叩いていく。
その光景を見て、不覚にも、じわりと目の奥が熱くなった。
──止まってなかった。
あの日、俺が落としたと思った星は、
「……ちゃんと、折れなかったのか」
誰にも聞こえない声で、ぽつりとつぶやく。
フードの奥で、深い青の瞳を細めながら。
「──ガット」
動かないガットに、ジャックが振り返った。
その彼を取り巻く、多くの天使たち。
……ひとりじゃなかった。
ちゃんと。
無意識に、視線がその場をひと巡りする。
そのことを知れただけで、あの日の罪が、ほんの少し軽くなった気がした。
「……戦士ってのは面倒な職業だな」
皮肉を落としながら、ガットが歩き出す。
「お前もだろ」
「……俺は戦士じゃねえ」
「まだ言ってんのかそれ」
「最初から名乗ったことねえよ」
いつもの軽口を返してくるガットに、ジャックは軽く笑った。
呆けているように見えたのに、今度は当然のように俺の影を踏んでついてくる。
そこに、空白の時間は感じられなかった。
あれだけ長い間、ひとりだったはずなのに。
そんな時間が存在していたのかさえ、すでに感じられない足取りで。
「めんどくせえな」
「終わったら奢れよ」
「…終わってから言えよ」
短い言葉を投げ合って、ふたりは石畳を踏みしめた。
──二日目の朝が、始まる。




