百三十八層:星をまわす.04
一方、ソルファリウムの軍幕の中。
煌々と燃えるランタンのもとで、本日の戦況報告を聞くクリスが机を見下ろしていた。
兵士の多くはエザンバウトへ帰還し、治療や休養を取っている。
残されたのは各部隊長や責任者。
皆一様に防寒具を纏い、エアフィルターで口元を覆っている。
戦術マップには赤い点が散らばっていた。
それは味方部隊の混乱、崩壊、離脱を意味する。
軍幕の内側の空気は張り詰め、凍るように重い。
誰も口を開けない中、クリスがゆっくりと机の前に立つ。
その背後で、フジは崩れかけた柱にもたれたまま、口元を薄く歪めていた。
「……たった一日で、予定戦力の四割が壊滅。二割が戦意喪失」
静かに報告書をめくる。クリスの指先は震えていない。
「──もういいわ」
一瞬、空気が凍る。
その一言に、報告者たちが言葉を詰まらせる。
だけど、誰もが“もっと酷いこと”を言いたいのを我慢しているのがわかる。
それを、フジが代弁するように、喉の奥で笑って言った。
「まだ続きがあるぜェ、姫さん。“戦況報告”じゃなくて──“戦意崩壊”だ」
まるで続きを促すように、フジの薄い銀の瞳が横目に細められる。
報告担当の技術局副主任は、手元の資料を握りすぎて端がわずかに折れていた。
唇が乾き、声も震えている。
「……高密度の重力地雷も突破。適性反転エリアに関しては、途中からウフを使用せず“拳”で戦い始めたため、効果測定が不可能になりました。また、適性外火力に対応するため強化した防具ですが……確かに炎・氷などの属性攻撃は表皮で抑えられ、致命傷には至っていません」
「ですが──打撃による戦闘不能が圧倒的多数で……足止めには、なりませんでした」
言葉を引き継いだ戦況解析要員の言葉の終端が震えた。
そんな彼を一瞥してから、技術局副主任は、紙束を握る手を微かに強ばらせ、次の頁をめくる。
「……明日のために、改めて確認します。“風の靴”を用いた滑空行動は予定どおり可能。ただし、引き続き風のウフ適性者のみの使用を推奨します」
空軍隊長が、低く唸るように口を挟む。
「滑空隊は感電で医療班行きが八割だ。部隊の編成し直しは避けられん」
技術局副主任は一度だけ瞬きをして、淡々と続けた。
「……直前まで議論されていた“時間遅延フィールド”案ですが、
ご存じのとおり、三度の試作審査で──予算、倫理、そして層間協定に抵触。いずれも実用化には至っておりません」
その場にいた誰もが知っている“事実”だった。
だが、あえて口にしたその瞬間、空気が音もなく沈んだ。
そもそも、時間のウフは適性者がいないからこそ、研究が一向に進まない分野のひとつだった。
それこそ、ガット・ビターという例外が現れるまで。
空軍隊長が言葉を吐き出す。
それは苛立ちではなく、諦念に似た呼気だった。
「……分かってる。だが、今日ほどその“不採用理由”が呪わしいと思った日はないな」
軍幕内の空気が重く沈む。
誰も驚かない。
誰も反論もしない。
全員“分かっていた”けれど、口にしたくなかった事実。
──そんな空気。
沈黙が落ちる。
硬質の空気を割ったのは、戦況解析要員の震える声だった。
「……彼の武器運用には、統一性がありません。鍵束から抜く武器は完全にランダムです。遠距離が必要な局面で近接武器を、密着戦闘で投擲武器を──“まったく状況を無視”して使用しています」
空軍隊長が喉を鳴らし、椅子を握りしめた。
「それで、どうして成立するんだ……?」
解析者はうつむいたまま、しぼるように答えた。
「成立……していません。正確には──“成立させている”。反動、適性外、距離、属性相性……本来なら破綻する要素をすべて、“ねじ伏せて”使っているんです」
その瞬間、金の火鉢がいくつも炊かれているはずなのに、気温が一段階下がった気がした。
指揮官たちが、揃って息を呑む。
彼らの全戦略と常識が、目の前で崩れ落ちていく音がした。
「彼の戦術は、“正しい武器選択”に基づいていない。その場で出た手札を“無理矢理”勝ち筋に変えてるんです」
「……」
「だから、他人の武器で、武器を受け止める。流す。利用する。応用の天才です」
言ってから、解析担当者は言いすぎたとばかりに息をのんだ。
クリスの金の瞳は、どこまでも冷ややかに机の上の資料を見つめている。
沈黙が落ちた。
隊長格のひとりが、紙束を落とす。
「適性に逆らって使ってる武器であの威力……──信じたくないな…」
「その信じられないことを、“成立させてる”のがジャックだ」
重騎兵隊長が低く唸るように言った。
「彼は適切な武器を選んでいない。“誤った武器”で、最適解を叩き出してる。つまり──こっちの想定、すべてが無意味ってことだ」
「ですが、その“誤った武器”を“誤った使い方”で振るうことで、今日も死者数はゼロのままです」
救護班長の控え目な声が再び沈黙を呼ぶ。
クリスは、その場で静かに目を閉じた。
……私たちは、ジャックを“正しく戦う者”として見ていた。
でもそれは、私たちの都合。私たちの“理想”だったのね。
──あの男は本当に、“不確定そのもの”よ。
彼女はゆっくりと、戦場の映像が映るの白い軍幕の前へ歩いた。
そこには、乱戦の最中、背を向けたまま誰かの武器を奪い、振り返りざまに別の敵に投げつけるジャックの姿。
火傷。出血。跳ねる適性外の風や氷、炎。
そのどれもを“無視”したように突き進む、その姿。
「……これは、戦士の動きじゃない。恐れもなにもない」
誰かが呟いた。
「戦場で、遊んでいるみたいだ……」
静寂。
そして、クリスが低く言った。
「…違う。あれは“遊び”なんかじゃないわ」
彼女の眼差しには、初めて浮かぶ感情があった。
畏怖。悔しさ。怒り。
そして、──焦り。
「全部、自分のためだけに振るっているのよ。相手の正義も、秩序も、計画も、全部関係ない。“自分の芯”だけで戦っている」
「……」
「生き残る覚悟。……それを殺すのが、どれだけ難しいか。ようやく分かったわ」
彼女は手袋を外し、拳を固く握りしめる。
「準備を。夜明けには、第二戦が始まる。……必ず、“仕留める”。このままでは、“あの男が正しい”という現実が、世界を塗り替えてしまうわ」
誰も反論しなかった。
フジがわずかに首を傾げながら、クリスを見やる。
「報道局はどうする?今日のジャックの発言、物議を呼ぶぜェ」
──ガットは、時間の適性という理由だけで捕まった。
長らく伏せられていたその事実が、ついに明るみに出てしまった。
“化け物”と断定した報道機関は、いま、再び揺れている。
生まれ持った適性で裁かれる友人を救おうとするのは──悪なのか、正義なのか。
でも、それを今更言っても仕方がない。
戦争の火蓋は切られている。
今更この火は止められない。
彼と私は、どこまで行っても平行線上を歩いている。
これ以上──どうすればいいかなんて、もう思いつかないわ。
「……放っておきなさい。いずれにせよ、この審問の終わりが“正義”を決める」
そう言い捨てて、クリスは軍幕を捲って外へ出る。
火鉢から離れると、そこは極寒の地だった。
ソルの光が、月に置き換わるだけでこうも凍える寒さになるなんて。
肌を刺すような冷たさの中、クリスは静かに空を見上げる。
薄く張られた“陽傘”。
“天蓋”への張り替えさえない、この場を戦場にするためだけの傘。
天使にとっても半日が限界の高度。
一度帰還して、間を置いてから明日の準備のためここへ来たとは言え、そろそろ自分も、戻って休まなければならない。
彼女は手癖で、銀の髪を耳にかけた。
けれど、短いそれは引っかかりもなくすぐにもとにもどる。
その瞬間、ふと“重ねてきた記憶”がよみがえる。
『淑女らしくしなさい』
それなりに裕福な家に生まれた彼女は、紅茶のカップを両手で持たされながら、母によくそう言われて育った。
家名を継ぐのは兄だった。
彼女は、ただ“美しく在ること”が期待されていた。
けれど、兄は弱かった。
かつて蒼殻の統治者を生んだことがある家系だからこそ、戦うことが天使の“誇り”だと教わった。
戦って勝ち続けることこそ、なによりの“肯定”だった。
それなのに、肺が弱く生まれた兄と遊びではじめた子供の手合わせ。
それに勝ってしまったのは、クリスの方だった。
「兄に勝ってはいけない」と言われた。
「兄を立てなさい」と言われた。
けれど、彼女はもう知ってしまっていた。
剣の重みと、勝つ喜びと、自分の中に眠っていた“強さ”を。
最初は兄の手加減だと思っていた。
でも、そのうち、兄は壊れていった。
笑わなくなり、部屋にこもるようになった。
父は目を背け、母は泣いた。
そしてようやく気が付いた。
──途中から、兄が本気だったことに。
天使社会はそのころ、ライパビの火が燃え上がる全盛期だった。
派閥争いという名の内乱もあった。
悪魔との戦争も。
度重なる戦火を潜り抜けながら、クリスの鍵は、“彼女”を象った。
細く美しく、しなやかで真っすぐな剣が、彼女の手の内に現れる。
鍵の意匠は“欠けた杯”。
──神獣エペ。
正義と、調和の象徴。
兄は肺を患ったまま、寝たきりになってしまった。
だから、家名の跡取りがいなくなった日、家の者は、彼女の髪を短く切った。
異論はなかった。
自分の鍵に刻まれた“正義”を全うするための武器を得たその時から、自分は“正しい道”を歩き続ける運命にあると悟ったからだ。
スカートを脱ぎ、軍服を羽織った。
肌を太陽の陽の光で焼いて、血と泥と勝利の味を覚えた。
けれど、ただ強ければ生きていけるほど、天使の実力社会は優しくなかった。
「女でも強ければいい」なんて誰も言わない。
むしろ「女のくせに」と罵られた。
女らしくしろと、多くの戦士が彼女をなじった。
決闘や組手で負けた男達は、苦しんだ末に剣を捨てた者までいた。
強くあれと背中を押す家族とは裏腹に、現実の社会はクリスにひどく冷たかった。
どんなに正しいことを叫んでも、勝たなければ届かない。
だから彼女は欠けた杯ではなく、鷹と月桂樹を掲げた。
戦争と勝利の象徴。
神獣グリューの意匠を纏う。
正しさをより多くの天使へ、指し示すために。
──正しさは、強さがなければ届かない。
その気づきが、彼女の杯を欠かせたままにした。
背負った鷹は、まっすぐに彼女を見つめる。
──戦えと。戦え抜けと、言われている気がした。
強くあること。
女であること。
社会に生きること。
その全部を、同時に求められるのは、あまりに長すぎた。
だから、彼女は自分に言い聞かせ続けた。
「強き者は、弱き者のためにあれ」
──正義の、ために。
神獣グリューの名のもとに、その鷹と月桂樹を胸に抱いて、剣を握る日々。
それが唯一、自分の“存在理由”だった。
──そうでなければ、“周期”で自分を裏切る体のままで、ここまで立ち続けられなかった。
だだっ広いだけのソルファリウムの島の縁に立つと、広がる星の海が彼女を出迎える。
見下ろせば、煌々とランタンをともす浮島群。
振り返れば、火鉢で照らされる軍幕の向こうに、ソルの神殿。
崩れた石の遺跡の隙間から、中の不滅の炎が光を漏らす。
透かし彫りのランタンのようなそこへ、自然と、足が寄って行った。
神殿の入口に立てば、夜の気配を押し返すような火がそこに灯っていた。
でも、伝承にあるような“昼の陽”とは程遠い。
ふと──問いを投げてきた、あの男の姿が、脳裏に浮かぶ。
正義と誇りは共存できるか……?
知らないわ、そんなの。
けれど──
その先の言葉が、口に出せない。
自分は、勝つことでしか証明できなかったのに。
勝ち続けることしか、望まれてこなかったのに。
あの男は、勝ち負けじゃない。
ただ、“生き残ること”に誇りを見出している。
私は死ぬ物狂いで勝利にこだわってきたのに、
ジャックは何にも優る強さをもちながら、自由にこだわる。
──その強さを、誰かのために“背負う気はない”。
そんなもの、力があるからこそできる傲慢だった。
そして、“男”であるからこそ、許され、英雄視されている。
もし、彼が女だったら……?
きっと「生意気」の一言で終わったでしょうね。
戦士が集まることもなく。
でももしかしたら、私は逆に、もっと優しくできたかもしれない。
神殿の上を、年末の星が静かに流れていく。
……彼が示す誇りが正しいというのなら。
「──じゃあ私は、何のために生きてきたのよ」
問いかけた相手が、最初から誰もいなかったことを、彼女は知っていた。
沈黙だけが、彼女の傍に残った。
彼女は知らない。
その頃、ジャックのもとには、“もう一匹の怪物”が帰還していたことに。
二対の星が揃った今──静かに、静かに、歯車が回り始める。




