二十六層 : 沈黙の審問.01
イデラの冬の朝は、太陽が顔を出すのさえ億劫そうだ。
他の層と比べて、どこか空は濁っているように見えるのは何故なのか。
他では見れない飛行機雲。
神獣の存在が薄いそこに、薄明光線がにじむ頃。
まだ空が白む前。
薄明かりに包まれた空気を裂いて、玄関の扉がわずかに開いた。
凌はいつものように、上着も羽織らず外に出た。
寒さに反応するそぶりもなく、吐く息も白くならない。
儚げな空気を纏ったまま、庭先へと歩く。
薄着のまま、まるで──冬が寒さを忘れたかのように。
道の端。
花も蕾もないはずなのに、どこか懐かしさを思わせる木蓮の木。
その枝を、しばし見上げる。
何を見るでもなく、何を思うでもなく。
けれど、その紅い瞳には静かな揺らぎがあった。
──亜月が引っ越しを決めてから、少し経つ。
先週、ゼノラ層に連れて鍵を作った日から、毎日のように亜月はここに顔を出していた。
学校帰り、たまに、学校に行く前。
最初の警戒なんてすっかり忘れた顔をして、凌の家の引き戸を開く。
それが、ホッとするような、でもどこか後ろめたいような。
不思議な気持ちが凌の中にはあった。
木蓮の木を見ると思い出す。
自分が幼い頃にいた、里のこと。
そして──亜月の父親のこと。
……まだ、あいつには何も話してない。
ただ、お前の父親に恩がある、としか、伝えてない。
ふと、彼女の鍵の煌めきを思い出した。
二種類の鉱石が織り混ざったような──
それが意味する真実を、まだ凌自身は知らなかった。
でも──厄介な運命だということは、誰に言われなくてもわかっていた。
話すには、亜月の受け皿を整える必要があると思ってたけど……
でも、本当はきっと、俺の方だ。
「……言葉にするには、まだ重いんだよな……」
語尾が溶けるような凌の声は、静かな朝に消えていく。
けれど、自分の耳にはしっかり届いてしまう。
凌は気だるげに首を回すと、ひとつ息を吐いた。
…そして、玄関へと戻ろうとしたときだった。
ポストに、一通の封筒が差し込まれているのが目に入った。
黒。
装飾のない封筒。
そして──
宛名には、流麗な悪魔文字で「山本凌」の名。
風が吹いたわけでもないのに、肌に鳥肌が立った。
亜月か──
それとも、翔のことか。
いや。
いよいよ裁判所が、獏を“手元に置く”気になったのか。
……それとも。
本当に、淘汰の対象として呼ばれたのか。
何も書かれていない封筒の裏面を指でなぞり、少しだけ目を細めた。
「……どう転ぼうと、厄介でしかないな」
誰に聞かせるでもなく、心底めんどうそうに声を漏らす。
それでも、封筒を手にしたまま、家の扉をゆっくりと閉めた。
ダイニングへ戻り、いつものソファに腰を下ろす。
余計な封蝋もない漆黒の封筒を、慎重に開けた。
中には、一枚だけの便箋。
悪魔文字で記された、形式的な文章。
── 審問通知書──
審問対象:山本凌
場所:中央都市ネスタ 裁定前室
日時:11月29日 ウルネス刻 午前8時
立会人および弁述者の同席は認められない
読み終えるのに、さほど時間はかからなかった。
けれど、そのまま指先に便箋を挟んだまま、彼は何も言わずに目を伏せる。
紙が異様に冷たい気がした。
内容は──日時と場所、それだけ。
なにを問われるのか。どこまで知られているのか。
それは一切、書かれていない。
ふと気配を感じて、目を上げた。
便箋の上を、小さな蜘蛛が一匹、音もなく歩いている。
「……勝手に読むなよ」
淡々とした声。
手の上に乗ったそれを、そっと掌ごと持ち上げる。
壁の窓際へと移動して、やさしく、何も言わずに置いてやる。
その様子を背中越しに見ていた者がいた。
「……凌?」
ぼんやりした声。
寝癖のままの翔が、パジャマ姿でダイニングに現れた。
手にはスマホを持ち、眠そうに画面を眺めている。
「……亜月ちゃんの引っ越し、明日だって僕言ったっけ?」
「……」
「連絡きてた。ほら」
スマホの画面を突き出す翔に、凌は一瞥だけして、無言のままだった。
「一緒に迎えに行く?」
「……」
先程読んだ便箋の内容が、ふと蘇る。
人類のイデラ層と、悪魔の裁判所が建つウルネス層。
そこには当然、時差が存在する。
「…明日の何時?」
「えーっと、二時くらいって言ってたかな?」
その差は、およそ六時間半。
……仕組まれたのか?
イデラで午後二時は、ウルネスの同日午前七時半だ。
移動時間も考えれば── ほぼ同時刻と言ってもおかしくない。
「…悪いけど、用事がある」
「え、そうなの?僕と亜月ちゃんだけでやるの、大丈夫かな…?」
スマホを操作しながらキッチンへ消えていく翔。
凌はテーブルに置かれたままだった通知書を手に取り、静かに畳んでポケットへしまった。
カップに注がれた白湯の湯気が、静かに揺れていた。
*
翌日の日曜日の午後。
サンドイッチをお茶で流し込みながら、亜月は姿が見えない男の名前を口にした。
「……凌はどこに行ったの?」
「なんか用事があるんだってさ。そりゃ言うの忘れてたのは僕だけどさ…」
ぶつくさ文句を言う翔。
小さく笑いながら、亜月は自分で抱えてきた段ボールをひとつ開いた。
引っ越し先の部屋は、凌の家の二階。
誰も使っていた形跡がないけれど、空気は澄んでいて、埃もない。
そこにはまだカーテンもなかった。
それでも、どこか楽しそうに、段ボールから自分の荷物を取り出していく。
翔はスマホで地図を見ながら、こちらへ向かってくる配達業者の現在地をチェックしていた。
「そろそろトラック来るみたいだよ!僕、受け取りしてくる!」
「あ、うん。ありがとう」
日常の一コマ。
けれどこの瞬間、誰も知らないところで、
──凌は“裁き”の場に立っていた。




