百三十四層:問いの幕開け.06
ソルファリウムの上空を映す映像は、浮島群の至るところで流れ続けた。
どの島でも、天使が集まり、言葉少なに映写を見上げていた。
子供が目をこする。商人が商いを続けながらも、視線だけは白幕に向ける。
化け物討伐の公開処刑。
誰もあの火を“聖火”と呼ばせぬように、あえて公にした全島放送が、仇となっていた。
エザンバウト支給のカメラが沈黙しても、代わりに報道局のカメラが投影を続けた。
“交易の島”、グリヴェス。
ここの街頭中継前にも、多くの天使たちが集まっている。
エザンバウト崩壊後、強制的に“中立島”に戻されたグリヴェス。
けれど、それでもジャックの拠点であるヴェルトルクとの交易を絶たなかったことで、
この島には、声に出さないままに、“ジャック派”が多く集まっていた。
最初は、クリスの正義が巨大な力を下ろす瞬間を、皆が固唾を呑んで見守っていた。
けれど、映し出されたのは──「ジャックを断罪する光景」ではなかった。
たったひとり。
何百の兵士の前に立たされ、殺意を向けられながらも、
そのひとりは生き残っていた。
武器を正統な“武器”として扱わず、投げ捨て、適性外を利用し、致命を避ける。
だが、そのおかげもあって、“武器本来の殺傷力”を発揮しないまま、最小限の動きで多くの兵士を鎮圧していく。
──そのやり方を、この島の多くの眼は「不器用な慈悲」として受け取った。
「……すご」
「え、今の、盾投げた?……投げてウフが暴発……した?」
声が、あちこちで漏れる。
けれど、誰も“歓声”をあげない。ただの驚愕と、ざわめきだけ。
「でもさ……」
誰かが呟く。
その場にいた者たちの時間が、少し止まる。
「……あんな四面楚歌で、生き残れって言われたらさ……俺、正直……無理だよ」
そんな言葉がこぼれ落ち、また沈黙。
けれどすぐに、近くでまた別の声が上がった。
「俺、そもそも行けない。死ぬって分かってる場所に、自分からなんて……」
それでも奴は行った。
……勝てるかどうかではなく。
たぶん……何かを、勝ち取りたくて。
「……これが、“誇りのために死ぬ”ってやつなのか?」
誰かがそう言った。けれど誰も答えない。
風が止まり、誰の吐く息も白いまま宙に凍った。
環境整備された部屋の中。
窓越しに映像を見ていた翔と亜月は、言葉を失っていた。
「…これが、ほんとに天使なの……?」
「……漫画の世界みたい」
自分たちが知る“天使”からは程遠い。
事情も何も知らないふたりだったが、それでも。
あの美しい銀髪の言葉だけは、他の何より汚れを知らないままの声に聞こえた。
“鉄鋼の島”、ティティルでも、同じようにぽつぽつと声が上がっていた。
最初こそ武器の扱いに憤慨する者も現れたが、ジャックの焼けた拳と、
「なんのために武器を握るのか」という姿勢を見せつけられて、皆が閉口していた。
「……使えれば、それで十分、か」
一番老齢の鍛治職人──ユニフが呟いた。
「……武器は自分の命を守るためにある、ね」
ユニフは、自分の工房を一度振り返った。
「…鍵職人の武器と、俺らが作った武器──鍵に変わるかどうかだけじゃねえ。その“差”が、越えられなくて苦しんでるってのに……」
「……でも、どっちも武器で、どっちも“命を守れる”」
窯の火は落とさず、絶えず空気を送り込むふいごの音が響く中。
彼らの声は静かで、鉄に沁みるように重かった。
自分の鍛冶工房の火を落として久しいユニフは、切り出されただけの丸太に腰かけたまま。
ただ、強く耐熱手袋を握りしめた。
武器ってのは、なんのためにあるんだ。
熱が手袋越しに沁みた。
誰かを守れと、ゾムリスの背を叩きあげてきた自分の言葉を思い出して──
「……“自分の守り方”は、教えてこなかったかも、しれねえな」
ぼそりと、誰にも届かない声が、溶けた鉄の熱気に呑まれていった。
“文化と愛の島”、アネモルムは、この映像が最も衝撃を与えた島の一つだった。
最低空に浮かぶ島ゆえに、戦士が寄り付かない平和特区。
だが、悪魔の襲撃に何度も耐えてきた“護りの島”であり、もっとも諍いを嫌う島。
そしてそこでも、花屋の天使が、風に揺れる一輪の花を見つめながら、静かに漏らす。
「天使の戦士は、誇りに生きるって言うけどさ……俺たち、戦士じゃないから、正直よく分かんないよ。でも──あいつも含めて、分かってて戦ってるのか?」
「……分かってるなら、あんな多勢に無勢なんてしないでしょう?」
「それにこんなの、もう殴り合いの喧嘩だろ……」
死合いの前に誇りのランタンを灯す。
決闘はソルのまなざしの元で。
散々語られてきた「正々堂々とした戦士像」とは真逆を映すモニターに、広場は静まり返る。
そこに写るものは、すでに“戦場”とは名ばかりだった。
怒号、悲鳴、拳が骨を鳴らす音。
だが、誰も死なない。
血を流すのは、あの“化け物”が拳を受けた時だけだ。
カフェの店員が、ポットを片手に言った。
「なんかもう……化け物退治、って感じじゃないよな。……クリス様、怯えてるように見えた」
皆が足を止めて、映像に見入っていた。
いつまでも動かない母親の袖を、幼い子供が引っ張る。
「ねえ、時間のウフって……罪なの……?」
母親は何も言えず、ただ子の頭を撫でた。
少し前。
映像だからこそ拾ったジャックの叫び。
『ただ、“時間の適性”だったってだけだろうが!!!』
その時の沈黙が、再び周囲に舞い戻る。
“時間のウフ”に関して、全層統一の法があることは、多くの天使が知っている。
──いや、天使種に限らず、ほとんどが認識している悪魔が制定した法律だった。
停止・加速・遅延。
自然の理に反するそれに、厳しいルールが不随することに不満はない。
だが、生まれ持った適性が、“時間”だった。
ただそれだけで、ガット・ビターは悪魔たちに捕まった。
天使たちは当時の報道紙を思い出していた。
あの時確かに、明確な捕縛理由は明かされなかった。
ただ「ウフの不正使用」とだけ。
「……不正使用って……適性があるのに……?」
「炎のウフ適性なのに、火を使うなって言うようなもん、だよな」
「でも、“時間”だよ…?変なことに使われたら、確かに危険だよ」
でも、ガット・ビターが何をした?
ガットはジャックの右腕で、それ以上の情報はほとんどない。
その悪事が報道されていないだけなのか。だとしたら報道局への不信が募る。
けれどなにより、あの“不殺”を掲げる男が、そばにいることを許している。
ジャックについて、化け物か英雄か、いまだ誰にも断言できない。
それでも、映像の彼は、市民には手を上げない。
武器は取り上げても、殴るのは鍛え抜かれた戦士だけだ。
その事実が、俯瞰だからこそ、よくわかる。
──あの男は、ただの怪物じゃない。
「どっちにしろ……あいつが間違ってるって言うなら、せめて、もう少しまともな形で、ぶつかるべきだったんじゃないか……?」
「エザンバウトの天使らが、怒り狂うのもわかるけど……」
「こんなやり方……正義って言っていいのか……」
言葉はまとまらない。
でも、皆が何かを感じ取っている。
“信仰の島”、ラファナでは、すぐ頭上のソルファリウムでの戦争を、燈守たちが寺院にかけられた白幕越しに見つめていた。
──あれが、ノイマンが“美しい焔”と称した男。
イヴァンは椅子に腰かけたまま、銀の天使をじっと見る。
戦場でのやり取りはすべて、スピーカーによって聞き取ることができていた。
だから、クリスが映像を止めろと言ったことさえ、筒抜けだった。
“神獣の島”を戦場に選んだクリスへ、燈守らは憤慨していた。
そこへ、まるで火に油を注ぐように、情報統制の指示をかけるあの声。
“火の梯子”を上ってソルファリウムへ乗り込まないように、燈守たちを監視するクリスの私兵らに、抗議が飛ぶ。
「こんなことをして、独裁と何が違う?」
「ソル・ベリリウムの信仰の場を血で汚すだけではない。“陽”の可能性がある者さえ、邪魔なら屠るつもりか?」
「最初に白燈へジャックを座らせようとしたのは、クリスじゃないのか!」
私兵のひとりが、燈守の肩を押し返しながら叫び返した。
「お前たち燈守も、ジャックを長く観測してただろう!それが世間に与えた影響は大きかったんだぞ!」
実際、観測を担当していたのはノイマンただひとりで、他の燈守たちにジャックとの面識はなかった。
彼らは本来、誰かひとりに傾倒するような“観測者”であってはならない。
だが── 燈守に観測されるというその行為自体が、すでに世間を揺らすには十分だった。
その点から言えば、確かにノイマンの観測時間はあまりに長かった。
政に干渉せず、ただ星を見つめるように、その者の内に燃える“誇り”を観測する役目の彼ら。
けれど、今回ばかりは、もはや黙っていられなかった。
燈守の役目はソル・ベリリウムの“ランタン”の再顕現の可能性を探すこと。
そのために、夥しい数の“誇り”を観測してきた。
神器の顕現を願うあまりに生まれたその役職は、多くの天使の願望の代弁者だった、はずだ。
ジャックは確かに信仰や文化への理解がない。
英雄に恋焦がれ、神獣の炎にすがる天使たちを一蹴した。
だが、神獣の名を口にしながらも、太陽の島を血で染めたクリスの方が、許しがたかった。
「どちらが勝っても、きっと何も残らない」
ふいに、イヴァンが口を開いた。
立ち上がり、私兵に詰め寄っていた燈守らが振り返る。
「……信仰は崩れ、正義は欺瞞に満ち、誇りの所在はわからぬまま……社会は一度崩れるだろう」
「……そんな…」
「けれど、始まってしまったことを、もう誰も止められない」
イヴァンの隣に座るエドナは、膝の上で拳を握った。
老齢なイヴァンの声が、沈黙の中に落ちていく。
「……太陽の神獣が、すべてを見ている。せめてこの戦火が“陽”に届くことを、ただ祈るしかない」
水を打ったように静まり返ったラファナの地で、
その中心の祭壇の中に燃える“不滅の分け火”が、ぱちりと鳴った。
天使社会が静まり返っていることさえ、銀髪の天使は全く気にもとめない、知りもしない。
当事者であるジャックは、画面の中で笑っても、泣いてもいない。
ただ、殴られながらも──前に進み続けていた。
*
ソルファリウム上空で、全てを見ていたゾムリスたち戦士もまた、言葉を失っていた。
各々が今まで信じていたものが、音を立てて崩れていく。
“誇り”とは、強さだったのか?
彼らが惹かれていたのは、“強くて美しい誇り”だった。
ジャックの姿に重ねていたのは、たとえば──不屈の剣士。あるいは堂々たる反逆者。
いや、決して折れない王道の強さ。
適性外さえ握りつぶすことは知っていた。
けれど、彼は常に鮮やかに、無駄なく武器を使いこなしていた。
だが今、目にしているのは、“戦闘”ではなく、殴り合いの“泥試合”だ。
生き残るためだけに、なりふり構わず。
その血と火傷と泥臭さが──
……美しいとは、到底言えない。
それでも、前に進む。
“憧れ”が、“現実”を突きつけてくる。
理想の剣士像が壊れていく音がする。
「……あれが、戦士の戦いかよ」
「いや、まて……あいつ本当に全部ぶっ壊してきやがる……」
天使の戦士は誇りを持って死に向き合う。
彼らにとって“誇り”とは、自分の芯であり、
華麗で、静かで──それを守るためなら、死すら美しいものだった。
だからこそ、ソルファリウムの上空に集まっていたジャック派の戦士たちは、今日という日を重く受け止めていた。
たとえ、あのジャックであっても、これだけの数を相手に倒し切ることは難しい。
あいつは誇りのために、斃される覚悟で戦場に立った。
誰も口にせずとも、皆、その覚悟を胸に、この空へ集まっていたのだ。
「……正直、震えるねえ。今さらになって、自分たちも“あいつに理想像を押し付けてた”って──思い切り、殴られた気分だよ」
帽子を片手で抑えながら、バンズがぼそりと呟いた。
「規格外だってのは、知ってたはずなんだが…」
「……ほんとっすよ……こんな、“許容範囲”を超えてくるなんて……いや、覚悟はしてたんすけど……」
新しい煙草に火をつけながら、ゾムリスが続けた。
すかさずアウディが小さく頷く。
「…“許容”?……そもそも、これはなんの衝撃なのか──私は自分でもよく分からないよ」
その隣で、ラスターは眉をしかめた。
予想を大きく外れたのは事実だ。
でも、それを“許容”できないという表現は、少し違う気がした。
……むしろ、泥だらけになっても“殴るべき相手を選ぶ”姿は、ジャックらしいとさえ思う。
けれど……
「彼はもっと美しく、たとえ他人の武器でも──鮮やかに扱うものだと、どこかで思っていた」
「実際、そうやって俺らと訓練、してくれてましたもんね…」
「……確かにな。分かんねえ。けど──」
それ以上の言葉は誰からも続かなかった。
誰も彼の死を望んではいない。
それなのに、“生き残る”行為が、あまりにも……
彼らに根付く常識が、胸の奥をざらつかせていた。
戦士なんて生業をしているものは、生きて帰ることを目標にしつつも、必ず一度は自分の死を考える。
自分は、どう華々しく散るか──?
けれど、誰も殺さねえと宣言した限り、ジャックが戦い慣れない市民に刃を向けることはない。
そんな“制約”を自分で課しておきながら──
彼らには、最後まで生にしがみつくような浅ましさに見えてしまっていた。
──誇りってなんなんだ。
自分の芯を守るって、なりふり構わずに生きることなのか。
あんなに、殴られ傷だらけになりながら……?
もっと、鮮やかに、無駄なく、戦えるはずなのに──?
誰も言葉を継げなかった。
グリプはそんな戦士らを見渡してから、商船の縁に腰掛ける真っ白の男──凌へ、静かに視線を向けた。
誰もが寒さに鼻を赤らめ、息を白く吐く中で、凌はいつもと変わらず、そよ風にでも吹かれるようにそこにいる。
「……凌さん。あなたの目には、どう映ってるんですか?」
声が少し震えた。
分厚い外套に包まれても、冷風が滑り込んでくる。
グリプの問いかけに、凌の紅色の目が一瞬、彼を見た。
「僕たち“天使の目”じゃなくて、もっと違う、第三の視点として……ジャックさんは、どう映るんですか?」
「……」
「あれは……神話の創造なのか、それとも既存の破壊なのか」
受け止め方がわからない。
そう続きそうな言葉に、凌は沈黙を落とした。
他の戦士たちも、興味深く、黙っている凌を見やる。
そのあまりの視線の多さに、凌は小さくため息をついた。
「……あんたらが、都合のいいほうを選べばいいんじゃない」
めんどくさそうに。端的に。
強風に靡く緋色と翡翠色の羽織を抑え、彼は淡々と続けた。
「受け取り方なんてそれぞれだ。……でも、ジャックは“天使全員に問いかけた”。──誇りがなんなのか、考えろって」
「……」
「だったら、あとは“あんたら次第”だ。“各々が問い続けるしかない”」
獏は元来、悪夢を食べて命を削るからこそ、短命な生き物だ。
だからこそ、凌は長らく“死”について悩んできた。
凌の中で、まだ“死ぬこと”の整理は完成していない。
けれど、
“誇り”とは何か。“正義”とは何か。”生きる”とは何か。
それを問い続けるジャックの姿勢は、凌の目に鮮やかに映っていた。
……泥だらけになってまで、生き残ろうと思ったこと、俺にはない。
自分のために戦おうと思ったことも。
どこかで妥協して、疲れて、それでいいって折れてきた。
社会なんてそういうもんだって、諦めにも似た達観を学んで。
だからなのか。
「少なくとも──俺の目には、“嫌な奴”には映らない」
答えはない。
それは同じ空を見て思うことが全員違うように。
でも、あの男は苔むす時間を廃闘技場で過ごす中で、自分なりの定義を見つけたんだろう。
「……“欠けた杯”を掲げるあんたなら、分かるんじゃないの?」
商船の帆に描かれる紋章を目線で指した。
グリプの青い目が、風に煽られるそれを見上げる。
「泥臭く生きるのは、そんなにダメか?」
空気に溶けるような優しい声。
「“死”なんて、いつだってすぐ隣にある。……特に、あいつは今、そのど真ん中にいる」
指先まで包帯に覆われた、儚さの象徴のような彼が口にする“死”は、どうにも天使らが認識するものとは別種に思える影があった。
「それでも俺には、まるで“ハーウェン”の気配すら寄せつけないほど──“ソルの命”を鮮烈に感じるよ」
紅い目はジャックから逸れない。
その姿を焼き付けるように、ただまっすぐと見下ろしている。
「……生き残るのは、想像よりずっと、難しい」
獏という種族の、たったひとりの生き残り。
彼が言葉にするからこその重みが、そこにはあった。
重くなった空気を払うように、凌が長い息を吐いた。
「まあ、社会動物である限り、クリスって天使が正義を守ろうとする気持ちもわかる」
「……」
「でも、あるもの全部使って、“理不尽”から自分たちを守ろうとする姿を嗤うほど、俺は冷血漢じゃない」
空気を読み解くように、“本質”だけを優しく掬い取る凌の言葉は、“心で飲み込めないもの”を、すっと喉を通す役割を果たしてくれたようだった。
ゾムリスが小さく、目を閉じて吐息を吐く。
「……ありがとな、獏の兄さん」
言葉にはならないが、救われた者の吐息だった。
ジャックは“剣士像”としての偶像ではない。
もっとむき出しの、“ひとりの男”として誇りに生きている。
そしてそれこそが、本物の「強さ」だったと、視線を向け直す一瞬が、船の中で生まれはじめていた。
戦場では、一歩、また一歩、ジャックが歩くたびに、重さが増す。
殴り飛ばされた戦士や、乱闘で疲れ果てた市民兵たちが地面に転がるなか。
高空の地に、集まった多くの天使らが体の限界を覚えていた。
指先まで冷え込み、酸素の薄さが眩暈を起こす。
“陽傘”の淵に風が当たる音と、耳にかけた同時通信用のリングが鼓膜を痛めつける。
体温維持用の炎のウフの巨大な結晶は変わらず燃えても、兵士らの中で、膝をつく者が出てきていた。
報道局の滑空船は交代しながら、それでもなお放送を続ける。
「──正義も、誇りも、正解なんて知らねえ。けど、どっちかしか抱えられねえなんておかしい」
遥か上空から降りてこない、正義の象徴へ向かって、ジャックは声を張る。
肩で息をしながら、黒手袋からは血が滴る。
頬を殴られ切れた唇。だが、あれほどの殴られてなお、その陶器のような顔は健在だった。
……化け物だわ。
高空から見下ろすクリス。その背筋がすうっと冷えた。
まるで心臓に氷の刃を刺し込まれたようだった。
あれだけ骨が鳴る音がしたというのに……
折れたのは殴った拳の方だったとでもいうの?
「俺は、ここに、“共存”しに来てんだ。殴り合って擦れて傷だらけになっても。一回正面からぶつかりゃ、どこに線を引けるか分かるはずだろ」
見上げてくるエメラルドの光は、消えていない。
「だから──降りてこい。クリス」
流れる血も拭わない。
切り裂かれた腹の傷も押えない。
それでもまっすぐ、彼は立つ。
「上から命令じゃなくて、“対等な立場”で目の前に立て」
重く、重く。どこまでも重く。
彼を中心に引力が働く。
引き込まれる。
奴の重力に、圧倒される。
気圧される。
怒りを殺意に変えて、この場に立ったはずの島民たちさえも、後ずさった。
戦場という極限の状況の中で、ジャックはひとり、命を張って“対話”をしようとしている。
でもそれは言葉ではなく、彼の“在り方”で突きつけてくる。
だからこそ、皆が自分の中心へ問いかけた。
自分たちがしているのは、本当に正しい“正義“なのか…?
それはまだ、誰も答えられなかった。
クリスは最後まで降りてこなかった。
それが象徴するのは、“正義の未回答”。
問いかけは空に残されたまま、でも戦場の誰もがその問いを受け取っていた。
お互いが“自分の誇りと正義”を探すように、問いながら、戦いは続いていく。
市民が座り込めば戦士崩れが。それらが殴り飛ばされれば兵士らが。
やがて、ソルが眠る。太陽が沈む。
そして夜を司るハーウェンの時間がやってきて、一日目の停戦が告げられた。
けれど、誰の胸の中でも──問いはまだ、燃え続けていた。




