百三十三層:問いの幕開け.05
陽の光が、音を失った。
誰もが息をひそめたまま、ただ、ひとりの天使の声だけが耳の奥に残っている。
“テメーの誇り”は──いったいなんだ
その問いは、風すら止めてしまうほどだった。
冷たい空気が、白い神殿の柱を撫でる。
数百の兵が沈黙を貫き、矢尻の先で反射した光だけが、微かに揺れていた。
適性外の炎に焼かれ、衝撃で吹っ飛び、気絶をする者はいても……
この“戦場”では、まだ灯はひとつも消えていない。
一陣の風。
その刹那、ジャックを囲っていた兵たちの間を抜けて、ひとりの影が前へ踏み出す。
若い女だった。
戦場慣れしていないぎこちない足取り。手先に刻まれた無数の訓練痕。
そしてティティルの刻印が入った武器。
言わずともわかる。
……エザンバウト崩壊で多くを失った市民だ。
ジャックは空草を踏んで進み出てきた女を、まっすぐ見た。
「……誇り?」
声は、怒号でも雄叫びでもなかった。
ただ、凍えとは別に震えていた。
張り裂けた喉から、どうしようもなく零れ出た痛み。
刃の先の光に、唇を噛みしめる音だけが混じった。
──その沈黙を、女の声が引き裂く。
「お前が、それを語るな!」
空気が砕けた。
その叫びが、全ての沈黙を叩き壊した。
誰かが顔を上げ、誰かが剣を握り直す。
女が、軽装の鎧だけで踏み出す速度を上げた。
「お前のせいで妹が島から落ちた…!死にはしなくても……あの子は、もう──もう二度と浮島の地を踏める体じゃなくなった!!」
ただ立っているジャックへ、怒りのままに飛び込んでいく。
“正義”と“喪失”の名を持って、刃が振り上げられた。
ジャックは、肩にかついだ炎斧で受け止める。
誰もがそう予想していたが、
期待を裏切るように、巨大な斧は──鍵へと戻った。
女が剣を振る。
その刃が、あっさりとジャックの左脇腹を裂いた。
白い布が赤く染まる。
──避けない…?
「なんで、なんで避けないのよ…ッ!」
無表情に見下ろす顔は無機質なほどに整っていた。
その“美しさ”にさえ腹が立って、怒りが爆発したように、女の手のひらが飛ぶ。
けれど、それさえジャックは避けなかった。
パン!──と、頬に乾いた衝撃。
踏み込みが甘い。軸がブレて、ただ怒りのままに振られた手は、彼にとっては軽かった。
それでも表情は変わらない。やり返しもしない。
ただ、まっすぐに相手を見ていた。
避けようと思えば避けられるのに、足が動かない。
動かないんじゃない──動かさない。
俺が誰かの日常を、思い出を壊しちまったのは、もう変えられねえ。
どうやったって、取り戻してやれねえ。
……こいつらが怒り狂うのも、当然だ。
でも。
じゃあ俺が死んだとして、なにができんだよ。
後悔する気はなかった。
でもそれは反省しないのとは別だ。
あの日の朝に時間が戻せたら、エザンバウトに乗り込む方法も、
もっと──他にやりようはあったと、今なら思う。
でも、だからこそ。
……仕方なかった、なんて言葉で逃げねえように。
拳の重さも、胸に刺さる杭の痛みも、耳を塞ぎたくなる悲痛な声も。
全部感じなくて済む“死”に頼るんじゃなくて。
生きて、背負う。
それしか、償う方法が、わかんねえ。
その痛みが、まだ“こっちに残ってる”うちは──そこから、逃げちゃいけねえ。
彼は、目を閉じた。
傷だらけの手のひらが、もう一度振り下ろされる気配。
それでも、動かない。
パン!
音が戦場に響く。
唇が切れて、赤が滲んだ。
それでも立っていた。
揺るがず、どうしようもなく、静かに。
何度女に殴られても反応をしないジャックを見て、臆していたはずの市民兵らが踏み出した。
手を出さない。出せない。今なら──
ただひたすら受けるだけの彼へ向かって、天使の叫びが次々に重なっていく。
「……故郷を、返せよ!」
「テメーの誇りなんて、誰も望んじゃいねえ!」
「思い出も全部──もうどこにもねえんだぞ!」
誰かが泣き、誰かが怒鳴る。
そのすべてが、風と一緒に吹き荒れる。
市民兵の叫びは次々に連鎖し、あっという間にひとり、またひとりと周囲に群れを成す。
過酷な試験を潜り抜けた“戦わない天使”たちの数は、そう多いものではなかった。
けれど、取り囲む者たちは素手だけではない。
剣が、槍が、この二十年で叩き込まれた訓練の動きをなぞる。
だが──その刃は、全部、ジャックの手の中に集まっていった。
彼は避けもせず、最小限の動きで武器だけを払っていた。
斬りかかる刃を掴み、柄を握り、足元へ叩き落とす。
致命の一撃だけは許さない。
けれど、刃を奪ったあとで、ジャックは相手の拳だけを真正面で受け止める。
唇の切れた血の匂い、砕けた骨の低い響き、鉄の味が口に広がった。
そこには、いっさいの無駄がなかった。
市民兵らの後ろで、盾を構えていた兵士が目を見開く。
武器を取り上げられた市民たちは、それでも止まらない。
慣れない命のやり取りなんてどうでもいいとばかりに、拳を握る。
ジャックのジャケットに掴みかかり、誰が誰を殴っているのかさえ分からなくなっていた。
その乱戦を、クリスの兵士たちは誰も止めなかった。
度重なる訓練で身につけた動きではなくても……
戦士ではないからこそ、彼らの一撃は最もジャックに深く届く。
訓練の腕にはない“恨みの重み”が、そこにはあった。
「お前が全部ぶっ壊したんだ!!なにもかも!!」
クリスはそれさえ知った上で、上空から全てを見ていた。
瞳は冷え、唇はきつく結ばれている。
命令一つで止められる──それでも、止めない。
エザンバウトの島民たちへの配慮もあった。
けれどそれと同じくらい、長引かせることが唯一の勝機だと、彼女は理解していた。
たとえあのジャックと言えど、ソルファリウムの高度がありすぎる故の空気の薄さと寒さは体に響く。
時間を要するほどに、体は鈍るはず。
だからこそ、風が血の匂いを運んでも、ただ見下ろしていた。
報道用カメラが戦場を切り取る。
市民兵らの熱に引き寄せられるように、別の影が割り込んできた。
かつてジャックに鍵を奪われた「戦士崩れ」たちだった。
顔に深い皺、手には新調された鍵。
誇りの所在が分からなくなった者たちが、不満と復讐心で吼える。
「ジャック!!テメーを殺しに来てやったぜ!!」
一発の叫びが裂け、市民のひとりが剣を払われた後ろから、戦士が跳んだ。
目の前の天使らを押しのけ、死角からジャックの心臓を狙う──
はずだった。
だが刃は空を切るより早く、別の柄と激突した。
ジャックが別の誰かの剣を掴み、その刃を受け止めていたのだ。
戦士の武器が燃え上がり、その炎が押し合う群れにまで波及する。
怒号とは別の悲鳴が市民兵から上がった。
……ほっといたら無差別に焼ける。
一瞬、ジャックのエメラルドが炎を映した。
次の瞬間には、赤子の手をひねるように戦士の手首を掴み、刃を引き剥がして柄ごと地面に叩きつける。
そして相手の腹へ拳を叩き込んだ。
火が引き、焦げた土が残る。
ウフの適性外というには、火力が上がり切る前に、戦士は鎮圧されていた。
島民たちの拳は正面から受け止める。
だが、戦士らには容赦しなかった。
刃が届く前に、確実に動きを封じる。
戦士崩れたちの乱入ですべてが泥になる。
剣と盾がぶつかり、叫びが重なり、砂ぼこりと血の匂いが風に乗る。
誰の声が最初なのか、どの怒りが本物なのか、判別がつかないほどに入り乱れる。
……埒が明かねえ。
ジャックは殴られ、蹴られ、刃で擦られながらも──前へ進んだ。
前へ。前へ。
一歩ごとに石の粉が舞う。
クリスのいる方へ向かう一歩一歩が、小さな反抗の連続だった。
ジャラリと鍵束が鳴る。血の味。
風が軍幕を擦る音だけが、どこか遠くで鳴った。
腕の筋が張り、呼吸が乱れていく。
熱は十分にあるが、やはり最高空の島。酸素が薄い。
指先の痺れと肺の痛みが、その場の天使ら全員をじわじわと蝕みつつあった。
それでも拳は容赦なく。
そしてジャックの表情は淡々としていた。
殴られる音と皮膚の弾ける匂いだけが、戦場の隙間を満たす。
群衆の声は遠く、ネクの記録音だけが無機質に鼓動を数える。
殴られてもいい。
けど──死ねねえ。
言葉は出さない。
叫ぶ代わりに、胸の中で自分にそう言い聞かせる。
誰かの何かを奪いたくて、エザンバウトを割ったわけじゃない。
ただ、あの時はその後のことまで頭が回らなかった。
あの時は、何をしてでも、あいつを奪い返さなきゃなんなかった。
日常を奪っちまった奴らを蔑ろにするわけじゃねえ。
過去を更地にされた奴らに、悪いと思わないわけでもねえ。
謝るのは簡単だった。
ただ、それを言えば逃げだと思った。
そしてまた、俺の言葉が他人を焼くことになる。
“言わない”という選択は、たしかにジャック自身の成長だった。
ただ反論すればいいわけじゃない。
言葉は必要だが、同じくらい、何を話すべきかを考えなきゃならない。
それを、この長い年月で彼は学んできた。
市民と戦士、そして──怪物。
統制の取れない喧騒は、確実に殺意で満ちているのに、
ジャックは武器だけを的確に奪い取り、投げ捨て、戦士を地に叩き伏せていく。
誰もが目の前の男を殺したい。
だが、許されるのは拳だけ。
殴り合いの輪は、もはや戦場というより群衆の渦だった。
血と土と焦げた金属の匂い。
拳の音と、押し殺した怒鳴り声が、風に混じってこだまする。
誰の刃が誰を狙っているのか、気にする余裕すらもうない。
ただ、ジャックは“自分への致命”を許さないだけじゃなかった。
戦士の刃が無差別に市民兵に向かえば、瞬時に沈める。
訓練を積んだ動きでも、粗い一撃が誰かを傷つけそうになれば、殴ってでも止めた。
乱闘のなか、誰ひとり命を奪わせずに──
ジャックはただ“前”だけを見ていた。
肩を掠める槍の柄を掴み、押し返す。
喉元に伸びる刃は手で払い、切り裂かれた黒手袋から血が滴る。
それでも別の戦士の腕を捕らえ、ひねり倒す。
“重力”を使えば一発だった。全員地に伏せさせればいい。
でも、あの時の二の舞にはしない。
強引には進まない。
けれど確実に、一歩ずつ前へ。
「ひっくり返っただけじゃねえ、あの後どれだけ島が燃えたか──!」
「お前が自分勝手な誇りを掲げたから、全部が壊れたんだ!」
「復興にも顔出さなかったくせに、偉そうなこと言わないで!」
拳が鳩尾を打つ。すぐ隣で剣が跳ねた。
誰の声かもわからない怒号。
ジャックは倒れかけた戦士の腕を掴み、反転して盾代わりに押し出す。
殴られる。今度は市民だ。
受け止める。
──でも。
もう、限界だった。
「……だから受けてんだろ」
二十年。行き場を失っていた“恨み”が波のように押し寄せる。
それを正面から受けながら、ジャックは低く唸った。
「お前のせいだ……お前も全部なくしちまえばいいんだ!」
殴打にも裂傷にもひるまない身体は、鉄より硬く。
「あの子はもう二度と歩けないのに!なんでお前はのうのうと生きてるんだ!」
浴びせられる容赦ない言葉の数々を受けながらも、その中心は、酷く熱い。
「いなくなれよ!!もう、どこかに!!」
だがそれでも。
この声を、聞き続けるのが、限界だった。
「なんか言えよ!──言え!!」
武器を振り上げたひとりの男。
ジャックはそれを手で受け止めながら、歯を食いしばった。
言わねえ。
言えねえ。
言うようなもんじゃねえ。
でも、このまま黙って全部背負わされるのは──
──俺らふたりだけが、全部悪かったってことに、なんのか?
「……殴りてえなら殴れよ」
声が震えた。
どうすりゃいいかわかんねえ。
声高に自分の傷を知らしめたいなんて思わない。
でも、黙って全部背負わされるのはもう、うんざりだ。
「けど、死ぬわけには、いかねえんだよ!」
一歩、無理やりに踏み出した。
道を開くように、目の前の天使たちを押しのける。
押し合い、転び、悲鳴が走り、怒号が飛ぶ。
非難と、存在を否定する声が同じくらい耳に響く。
「テメーが鍵を獲ったせいで!嫁も子供も出てったんだよ!」
「死ねジャック!」
「うるせえ!テメーらの鍵の話はどうでもいいんだよ!」
戦士らのふざけた主張を殴り飛ばしながら、ついにジャックが叫んだ。
一度声が出れば、もう堰き止められるものはなかった。
「全部お前のせいだろ!!」
「邪魔だ!!」
「おい!誰だ今俺のこと殴ったやつ!」
「いてえ!」
もう何が何だか分からなくなっていた。
それでも、ジャックだけは“前”を見ていた。
「黙ってろ!!なんでもかんでも押し付けてくんな!!」
「はあ?!お前が言うな!!」
「テメーがひとりのためだけにやった事だろうが!!」
みんな「正義」や「誇り」って言葉じゃなく──“感情”で動いている。
報道機の映像を観てる天使たちは、全員が言葉を失っていた。
そこに写るものは化け物討伐である「正義の戦場」だと思ってたのに、
実際に映るのは拳と泥と血だった。
「これ……戦争、なのか……?」
「違う……あれは……」
「殴り合ってる……?」
視聴者の声が重なる。
理解できない。だけど、目を逸らせない。
その混線の中で、ジャックの声が拾われる。
ノイズまじりで、でも確かに聞こえる。
「──あいつが何の罪を犯したってんだよ!」
怒号の中でも、その声だけが突き抜けた。
乱戦の最中、誰も気づかない。
けれど空に浮かぶ報道機器のスピーカーが、それを正確に拾っていた。
「ただ、“時間の適性”だったってだけだろうが!!!」
世界が、一瞬、止まった。
戦場では誰も聞き取れていない。
だが、空に漂う鉄の箱──そこにはめ込まれた音のウフが、その音を清音として拾い上げ、拡声した。
ソルファリウムの“審問”を中継していた映像転写機が、同時にその声を蒼殻全土へ流してしまう。
──時間の、適性──?
報道局の管制室がざわめく。
誰も、止めろと言えなかった。
「今の、聞こえたか……?」
「音、拾え!」
通信士が慌ててパネルを叩く。
映像はなおも、白光に焼けた戦場と、殴り合いの中で血に染まるジャックの姿を映し続けている。
モニター越しに見守っていた天使たちは、言葉を失っていた。
子どもたちが、白幕に流れる中継を見上げている。
市場の女が、手にしていた果物を落とす。
老天使が祈りの手を止め、唇を震わせた。
──捕らえられたのは、適性が“時間”だったから?
風がマントを煽る。
整列した兵たちの上空で、クリスは凍りついたように戦場を見下ろしていた。
「……やめなさい、ジャック……!」
歯を食いしばるように、クリスが叫ぶ。
乱闘の喧噪を裂いて、音のウフが彼女の声を響かせた。
拳は止まらない。
ジャックの歩みも、止まらない。
「今更何を止めろってんだ?!話があんなら──ここまで降りてこい!!!」
拡声がなくても、ジャックの声は戦場に響いた。
クリスは強く拳を握る。
そしてすぐ足元の部下へ怒鳴った。
「……映像を止めなさい!」
クリスの怒号が、指令塔を貫いた。
「報道班、放送を切断!音声も遮断しなさい!」
司令官が慌てて返す。
「……で、できません!この放送はエザンバウトの通信機以外にも、外部の局が中継を──!」
「……っ」
白い陽光に焼かれながら、止まらないジャックを見下ろす。
その瞬間、クリスは初めて、
本当の意味で、恐怖を抱いた。
こんな男を……統べられるはずがない──と。




