百三十層:問いの幕開け.02
二日目。
クリスは白燈の中の一室で、ジャックの戦闘ログを見つめていた。
汚れひとつない白い壁に投影される舞踏のような動き。
流れる銀髪。その隙間に覗くアメジストの耳飾り。エメラルドの瞳。
一撃のたびに風が巻き、火花が散る。その美しさに、目を離せなかった。
決して口にはしない。
けれど、突如現れた奇妙なふたりの天使の前に立った、あの瞬間から、
こうなる運命だったのかもしれないと、静かに自分へ唱えた。
パチパチと暖炉の火が爆ぜる。
その脇に静かに立つフジが、微動だにしないクリスへ冷笑を向けた。
「〝情けを捨てろ〟。来るとこまで来ちまったんだぜェ」
施せる手は尽くした。
慈悲もかけた。
沈黙を黙って見守り続けた。
それでも、あの男は私の手を払った。
美しい外見に、惑わされていたのかしら。
それとも、本質を見抜いているように思えた、あの言葉たち?
でも、どれも結局は、彼の粗暴さが本性だった──ということ。
「…そうね」
ふと窓の外を見る。
数えきれないほどの戦士たちが、訓練棟から移動して、戦場に体を慣らすためソルファリウムへ今日も向かう。
その長い列の歩みは止まらない。
……それでも、もし彼が応えたら?
そんな仮定を、まだ捨てきれていない自分がいる。
でもきっと、また期待は裏切られるわ。
手に持っていた資料を暖炉へ投げ入れる。
燃えて消える文字を、静かに彼女の金の瞳が見つめていた。
*
ヴェルトルクの二日目は凪いでいた。
いよいよ日常を歩めなくなった天使たちが、入れ代わり立ち代わりに闘技場へやってきては、
ジャックへ一言かけようとして──入口から覗くだけで帰っていく。
ジャックはそれに気が付いていたが、呼び止めなかった。
戦士たちも島民たちの気持ちを汲みながら、自分の中の覚悟を確立させるために時間を割いていた。
帰るそぶりを見せない凌を放って、ジャックは両手剣の前に座り、酒を煽る。
日が傾いて西日が苛烈に空を染めていた。
その赤を映して、燃えるように佇む剣。
無数の傷が刻まれた、己の剣。
最後にこれを握った日を思い出し、酒瓶を静かに置く。
酒瓶の口を掴む手と、剣の柄を撫でる手──そのどちらに重みがあるか、自分でも分からない。
「ジャック。クリスの軍勢がソルファリウムに集まりつつあります」
ネクのそれが、どこか心配するような声色に思えた。
ジャックは片眉をあげた。
「おい、それ俺に教えていいのか?」
「私は事実を伝えたのみです。……母体から知りえるデータの参照は、罪ではありません」
「屁理屈かよ」
くつくつと喉で笑う声。
「ひとりでは統計的に、非常に不利な数です」
「…光栄だな。そこまで怖がられてんのか?」
ネクは黙ったまま、静かに浮かんでいた。
「ま、あの島屑をみりゃ、当然か」
視線の先に浮かぶ、かつてエザンバウトだったもの。
その一番大きな“割れ”が地図に載るほどには、年月が過ぎていた。
「ジャック、あなたなら──」
珍しく、ネクが言葉を切った。
まるで続けていいのかわからないと言わんばかりに、小さな唸りのような稼働音だけが、空気を震わせた。
ジャックは今度こそ笑った。
「ネク、お前ずいぶん口が下手になったな」
「…誠に遺憾です」
「責めちゃいねえよ」
ぐるぐる自分の周りを廻る銀の球。
その中心に、ジャックの目は火を捉えていた。
またひとり、島民が闘技場の入口に背を向けたとき、その後ろの誰かが中まで踏み入ってきた。
コツンと石畳を踏む音に、ジャックがゆるく目線を投げる。
白い衣に刺繍された金の糸が、ソルの日を受けて煌めく。
ノイマンだった。
ゆっくりとした足取りで……
それでいて確かに踏みしめながら彼はジャックへ歩み寄り、その手に持っていた紙袋を差し出した。
この二十年は、再び島民の手伝いをして、その報酬として食べ物をもらっていた。
だから、しばらくの間止まっていた、ノイマンの差し入れ。
ジャックは素直に手を出して、暖かい熱の残るそれを受け取る。
ノイマンは空いた手で、手話を刻んだ。
まなざしはまっすぐにジャックへ向けたまま。
動きは、単語ではなかった。
焦燥の滲む流れで、祈りのように手が揺れた。
ノイマンとは長い付き合いだ。
多少は覚えた動きもある。
でも、全てじゃない。
ジャックを含め、その場にいた戦士は誰も読み取れない手の言葉。
沈黙が風と共に流れた時、不意に、闘技場の影から声がした。
『この日々が、最後にならないことを祈っています。……ジャック』
淡々と、平坦な声で凌が告げる。
存在の薄い彼へ、みなの視線が一斉に向く。
陽の光に隠される影の中に、溶けるように座っている姿。
唯一、手話を理解して告げる様子がガットを彷彿させて、アウディは息を詰めた。
「……手話、分かんのか」
ジャックは目を細める。
見た目も声も違うはずなのに、どこか似ていると思ってしまったことを隠すように。
「“言葉”は大事だって、育ての親に叩き込まれたから」
淡々と凌は答える。
「取引でも、交渉でも、言葉がなきゃ始まらない。……それに、相手を理解しようと思うなら、言葉を無視できないだろ」
紅い瞳はどこか遠くを見ている。
情報屋の店長に教わっただけが、理由じゃなかった。
凌にとって、言葉はただの記号ではない。
記憶や感情を形にしたもの。
もし言葉を失えば、相手を知ることも、自分を残すこともできない。
悪夢を食う上でも、それがどれほどの“哀しみ”や“恐怖”を抱いているのか──
正確に推し量るためには、どんな種族のどんな言語も知る必要があった。
だから彼は、沈黙さえも学ぼうとしていた。
「分からない言葉を覚えるのは、嫌いじゃない」
「……」
「あんたも、明日は“審問”なんだろ」
凌の紅い目がまっすぐジャックを見た。
「悪魔の審問とは──まったく別物みたいだけど」
どこか疲れたように、肩をすくめる。
「でも、裁定の前の、“最後の言葉”には変わりない」
それだけ言って、凌は再び黙った。
ノイマンがまた小さく手を動かす。
柔らかく、いつもの調子にもどったそれは、確かに「ありがとう」と告げていた。
ノイマンの手が静かに降りる。
その奥で、凌は目を伏せた。
言葉を持つことの重さと、その終わりに訪れる“沈黙”を、誰よりも知っているかのように。
風が、三人の間に何かを残して通り過ぎた。
*
三日目。ハーウェンも黙る時間。
月が南中に昇り、静けさが辺りを包みこんでいる。
冷たい月明りに照らされるように、ジャックは廃闘技場に立っていた。
ガットを探し回っていたラスターたちは、結局痕跡ひとつ見つけられずに帰ってきた。
ゾムリスやアウディ、多くの戦士と共に、島民たちも老若男女問わず、闘技場へ詰めかけている。
観客席に座る者もいれば、入口から顔を覗かせるだけの者。
杖をつき、ノイマンに支えられながらもやってきたヴォルドの姿も、そこにはあった。
その中心。
突き立てられた大剣を見つめている、ひとつの影。
ジャックはその場に佇み、動かなかった。
凌は月明かりの影から、月光を一身に浴びるジャックを見ていた。
まるで二本の刀剣が立ち並ぶように見えた。
どちらも鋭く冷たいようで、刃こぼれした刃は傷つき、長く垂れる銀髪は優しく揺れる。
すでに全ての島民や戦士が集まったと思っていたそこへ──
新しい靴音が響いた。
軽いその音は、しっかりと石畳を踏んでジャックの前へと進んでいく。
子供だ。でも、ただの子供じゃない。
質のいい白いスーツ、胸元のバッジ。
風になびく橙の髪と、青い瞳。
多くの島民が誰か分からずに声をひそめた。
けれど、戦士の一部は、その姿を見て目を見開いた。
そしてジャックだけは、かすかに口元を緩めて、その名前を呼ぶ。
「グリプ」
一瞬、闘技場の空気が波のように揺れた。――誰かが、息を吞む音がした。
顔を出さないグリヴェスの島主。
声でのみ統治をしていることは知っていても、その姿を見るものはあまりに少ない。
その理由が“若さ”にあると、ようやくにして明かされた瞬間。
「いいのか?顔出して」
「僕の顔より、今は……ジャックさんとちゃんと話がしたくて」
長身のジャックを見上げるまなざしは、どこまでもまっすぐだった。
誰もが声を失った。
月光の下で向かい合うふたりの姿に、闘技場はただ、静かに息を潜めていた。
短い沈黙のあと、グリプが静かに頭を下げた。
「ごめんなさい、ジャックさん」
唐突な謝罪に、ジャックは片眉を上げた。
首を垂れたまま、グリプは続ける。
「僕は、ジャックさんの旗の色を塗り替えられませんでした」
「……」
「なんとかしようとしたけど……間に合わなかった。こんなことに、なるまで」
悔しさに握りこまれる小さな拳。
ちらりとそれを一瞥して、ジャックは首を傾けた。
揺れる銀髪の隙間から、紫の石が月明りを反射する。
「……で?」
「……ガットさんも、結局見つけられなくて──」
「そりゃそうだろ」
それが当たり前と割り切った声に、グリプは顔を上げる。
苦し気に。でも、確かに熱を持った瞳に、ジャックは口元の笑みを一度弾ませて、すぐに引っ込めた。
――笑いすら重さに押し戻されるように。
「悔しい……自分の無力さが。でもなにより、ジャックさんと約束したのに……結局、自分を守ることばかり一生懸命だったように思えたのが、何より、嫌だって思います」
「……」
「だから──」
グリプの青い目が、まっすぐジャックを見つめた。
「もう、僕は隠れません」
はっきりと、風を裂くような声だった。
「自分が子供だからなんて、理由にはならない。“僕だから”、交易も、統治も大丈夫だって思ってもらえるように。“年齢”なんて、今から重ねるんだから、もっと良くなるって思ってもらえるように」
「……」
「それを、あなたに──直接伝えたかったんです」
言葉は凛としていた。けれど、震えが混じっていた。
“今ここで言わなければ、もう二度と伝えられない”──そんな焦りが、月明かりに滲んでいた。
グリプ自身も分かっている。
この場にいる誰よりも、ジャックが夜明けに待つものの重さを。
だからこそ、顔を隠し続けてきた自分が、いまここで立たなければならなかった。
誰もが言葉をのんでいた。
少年の声は月光よりも澄み、闘技場のすみずみまで届いていた。
それはただジャックに向けられたものではない。
集まった戦士や島民たちへも、「次代を背負うのは自分だ」と告げる宣言だった。
一拍の間をおいて、ジャックは──柔らかく笑った。
皮肉や強がりのない、綻んだというに正しい笑みだった。
グリプは月明りに照らされたそれを見て、思わず息をのんだ。
けれど、一瞬の間に──ジャックのそれは、いつもの勝気な笑みへと戻っていた。
「──は、ようやく燃えたか」
ほんの一瞬、胸の奥が熱くなる。それを見せるわけにはいかなかった。
愉快そうに笑って、雑な仕草で銀髪を払う。
嬉しそうに、それでいて「遅えよ」と言いたげに。
「どうせ俺が言うことは同じだけどな」
「え…?」
「好きにしろよ。でも──あの時言っただろ。“お前の火に照らされてもいいと思えたら、対価以上に働いてやる”」
グリプの青い目が見開かれる。
──ドクンと、心臓が動いた気がした。
両手剣には触らないままなのに、ジャックを中心に、強い引力が働く。
視線も、胸の高鳴りも、何もかもを巻き込むように。
その生命の色を宿した瞳に、皆は惹き込まれた。
「ちゃんと話せば、クリスとも手が取れるってお前は言ってたよな。それ──今もか?」
「は、はい……ただ、やりすぎだと思うだけで、僕は彼女の“弱者救済”のすべてが悪いとは思っていません」
「ならいい」
たぶんきっと、俺の言葉はクリスには届かねえだろう。
ちゃんと伝わる言葉なんて、持ち合わせてねえ。
切れ味ばっか研いで、どうやっても相手を傷つける。
でも、一度壊した先に、何かを新しく作れるなら。
その時は──俺の代わりにこいつが立てばいい。
バンズが見限らずに長年仕えていて、
堅実なゾムリスが“立たせるならグリプ”と言った。
戦士たちが自発的に護衛を担って、
そして自分なら、クリスとも話し合えると。
顔も隠さず、“自分で立つ”覚悟も持った。
俺が審問に立つのは、ガットのためだ。
あいつが帰れる道が、このままじゃ潰れるから。
……でも、どうせ立つなら。
「──なら、お前のために一回、全部ぶっ壊してやるよ」
凝り固まった誇りも、制度も、信仰も。
全部一度、瓦礫に還してやる。
——それが、今の俺にできる、
グリプに返せる、唯一の責任だった。
散々タダ飯食らい続けてたしな。
その先に新しい社会を築くのは、俺じゃない。
バンズもゾムリスも、そして何よりお前自身が「立てる」と言った。
なら──俺は壊す役でいい。
「更地の上に築き直せ。お前が作りたい、“新しい社会”ってやつを」
「……」
「その時、クリスと協力できんなら、勝手にすりゃいい」
月明かりの下で、ジャックの声は鋭くも温かかった。
託すために、破壊する。
それが、彼にできる唯一の慈悲だった。
凌は、足もとに落ちていた一枚の新聞を拾い上げた。
そこに書かれる内容は、自分が知らなかった天使社会の片面を綴っている。
紙面から読み取れるものだけでは、目の前の男を推し量ることは出来ない。
でも短いながらも、見てきて分かったことがある。
この男は、言葉にはしないけど、何も思わないわけじゃなさそうだ。
世の中で語られる怪物の輪郭と、目の前の天使は──やっぱり一致しない。
『誰より繊細な奴だ』
──いつかガットから聞いた言葉が蘇る。
剣の傷をなぞる使い古した黒い手袋。
雑な言葉の中に垣間見える、思慮の深さ。
なにより、グリプの成長を見た瞬間の、あの瞳。
……ま、噂なんて大概こんなもんか。
凌は、空を見上げながらぽつりと呟いた。
「やっぱり、あんたの腕は長そうだ。だから、みんな──つい期待すんだろうね」
沈黙を破った、語尾が溶けるような優しい声。
闘技場に集まっていた天使たちが、死角の中に隠れていた凌をようやく見つける。
なんとも言えない顔で、ジャックも凌を振り返った。
まるでそれ以上何も言うなと言わんばかりだ。
凌は風になびく羽織を抑え、静かに立ち上がる。
新聞を尻のポケットへ突っ込んで、ペタペタと履きつぶしたスニーカーで石畳を進んだ。
「“たとえ世界を敵に回しても”──ね。まるで物語だな」
ジャックは目を細めて睨む。
凌は飄々と受け流す。
そのまま彼の横で一度止まった。
ちらりと一瞬、耳が聞こえないの燈守を一瞥してから──
「……ガットはゼノラ層にある“山脈都市”セレスカに行った。今もそこにいるのかは知らない」
声のトーンを落として、グリプとジャックだけが聞き取れるように呟く。
包帯の手のひらでかすかに唇を隠しながら。
グリプは驚いたように目を見開き、ジャックは目を細めた。
「でも、腕と手のひらを怪我してる。治療を終えてるとは言え、ガットの性格的にもそうすぐには動かないだろ」
「……今更なんだよ」
「別に。俺もガットには助けられたから、簡単には情報は渡せない。ただ──」
ふっと笑って、凌は再び歩き出す。
「案外、ロマンチストで安心したからだよ。ジャック・J・ジッパー」
凌はそのまま天使の間を抜けて闘技場を出ていった。
月明かりに浮かぶ白い影。
緋色と翡翠色の羽織に刺繍された、丸と霞と月の紋が遠ざかるのをただ見送る。
ジャックは小さく息を吐いた。
「……うるせえよ」
そのひと言だけが、闘技場に長く響いた。
銀髪を揺らす風は冷たい。
けれど、不思議と心臓の奥は静かに熱を帯びていた。
──夜明けが来るのを、ただ待つように。
空の端に、まだ見えない太陽の気配だけが、
静かに、空を染め始めていた。




