二十五層 : 第六の影.04
「…今日も開いてない……」
ユヴェの声は、思っていたよりも掠れていた。
焦燥と疲れが滲み、喉の奥で絡まったように震える。
彼女は、まるで扉に取り憑かれたように佇んでいた。
大扉の街ノードにある、商業区の端。
かつては喧噪の中に埋もれていたその一角も、いまは取り残されたように静かだった。
ちいさな煉瓦造りの建物。
格子状の扉に嵌められた色硝子は所々ひび割れ、それを金継ぎで補った模様は、明らかに意図的だった。
──蜘蛛の巣のような線。
「……やっぱり、女郎蜘蛛って呼ばれるだけのことはあるよ……」
思わず呟いて、自分でも背筋に薄い寒気が走る。
美しい。けれど、どこか“捕らえるための罠”のような。
この店を営む、妖しげな店主の気配が、いまだそこに絡みついているようだった。
そこはゼノラ層一の、情報屋だった。
噂によると、ノードの街が発展し始めたころからそこにあり、ゼノラ層の事なら何でも知っているという。
本当なのかはわかんないけど……
ユヴェは扉に寄りかかるようにしゃがみこむ。
分厚い耐熱服に顔を埋めて、膝を抱え込んだ。
夜の色の髪が、ふわりと肩に垂れる。
裁判所の悪魔たちが、“悼む槍”を持ち去ってから数日──
ユヴェは、まるで習慣のようにこの店を訪れていた。
もはやここはただの情報屋ではない。
妖怪が営む店として知られるからこそ、彼女にとっては、唯一の頼れる場所だった。
彼女は、最後の獏を探していた。
けれど──どんなに覗いても“準備中”の札は動かない。
灯りも点かない。声もない。
まるで、彼女の願いごとだけが、この扉の向こうで拒まれ続けているように。
でもその“準備中”の札の奥。
ガラスの裏側で、誰かが見ているような気配が──したような、気がした。
でも、やっぱり扉は開かないまま。
「……これじゃ、探しようがないよ…」
こんなにも情報がない。
こんなにも、誰も答えてくれない。
本当に、“獏”はまだ、存在しているのかな……?
拳をひとつ扉に当てる。
けれどその音さえ、すぐに冷えた空気に飲み込まれていった。
「ねえ、お願いだから……せめて、なにか手がかりを」
低く、祈るような声。
けれど、答えはない。
ユヴェは額を扉に押し付けた。
星層を繋ぐ技術を持つ唯一の種族、フォールドラーク。
その彼女にとって、開けられない扉なんて存在しないのに。
目の前の蜘蛛の巣柄のそれだけは、きっぱりと彼女を拒絶しているように、冷たく、無機質だった。
──ひとりだった。
あの日から、ずっと。
ひとりで、どうにかしようと、奔走してる。
けれどそのとき。
どこかで何かが“引っかかる”感覚があった。
「……地図」
ぽつりと、思いついたように口にする。
その瞬間、頭の中で何かが繋がった。
彼女の眼が、色濃いゴーグルの奥でわずかに光を取り戻す。
「……地図、地図……! 妖怪が住む通り! あの時、鍵屋のどこかで…っ!」
弾かれたように立ち上がる。
足が勝手に走り出していた。
諦めを食いちぎるように。
冷たい空気を裂くように。
彼女の“鍵職人”としての血が、確かに何かを感じ取っていた。
そして走り去る彼女の背中を、小さな蜘蛛が見つめていた。
*
悪魔領第二区都市、ナジェムの夕暮れは、空が焼けるよりも早く、森の影がすべてを覆い隠していく。
特に“悼み月”の期間中は、日没を過ぎると街の機能そのものが停止に向かう。
その制限のせいで、今日という一日が、いつもより数時間早く“終わり”へ向かっていた。
ソルヴァンの執務室には、既にカーテンが引かれている。
黒く塗られた室内に灯るのは、光のウフが埋められた幾本かの管。
それすらも徐々に光を弱め、夜の神獣、“ハーウェンの時間”がやってくる。
そんな中、時計通りに動く彼の前に──気配もなく、ガット・ビターはそこにいた。
「……報告しろ」
いつの間にか視界の端に、あえて気付かれるように立っていた存在。
書類から目を上げることなく、ソルヴァンが命じる。
「…確認した。女は“イデラ”にいる。鍵登録の記録通りだ」
抑揚のない声が空間に落とされた。
「獏の住処と、自分の住処を行き来してる。獏との関係は確定だ」
わずかに書類の捲る音が止まり、ソルヴァンの視線が書棚の隅に移る。
だがガットの方を振り向くことはない。
「……獏が女を匿って動いていると?」
「黒だな。──間違いねえ」
報告はそれだけだった。
証拠資料も、映像記録も、書き起こしすらない。
だがそれは──彼の報告がすでに“それ以上”の価値を持っている証拠でもあった。
沈黙が流れる。
やがてソルヴァンは、机の端に積まれたファイルの隙間に、埋もれるようにあったベルを鳴らす。
即座に執務室の扉がノックされ、ひとりの悪魔が入ってきた。
本来そこにいるはずのないガットの姿を見た瞬間、びくりと部下の肩が震えた。
そんなことを気にもとめず、ソルヴァンは声を低く落とした。
「……審問の準備を始める。“呼び出し”は正式な手続きで行う」
「…は。対象は?」
「獏だ。場所は第一区ネスタ。あくまで内部処理だ。穏便に済ませる」
すぐさま部下が部屋を出ていく。
時計が就業の時刻を指し示すまで、あと三分。
ガットは既にいなかった。
扉の開閉音すらなく──扉から出入りしたのかさえ分からなかったが、ソルヴァンにとってはどうでもいいことだった。
残された彼は、光が落ちていく部屋の中で、小さく書類に銀色のサインを入れる。
「──口を割らないなら、代償は誓約に背負わせればいい」
その呟きが、ゆっくりと夜に沈んでいった。




