二十四層 : 第六の影.03
──ゼノラ層中央都市、大扉の街ノード。
街の中心を通る角通りに面しつつ、イデラ層への大扉に近しい位置に、イデラ管理局は居を構えていた。
そこにあるアンブレラの執務室は、整然としていながら、どこか柔らかさを感じる空間だった。
それは無機質な黒の空間に、一輪だけ添えられた花があるせいかもしれない。
けれど、存在の記憶がないまま置かれた子供用の椅子が、どこか虚しさを覚えさせる。
ガットはすでにそこにいた。
光を落とした、ディアナ・ホロの沈黙の時間。
まるでそれがガットの存在の希薄さを助長させるように、何者も彼を認識することができない。
デスクに向かい、灯りを絞った手元灯のみで執務をこなしている女──アンブレラを背後から見る。
華奢な女だ。
几帳面に切り揃えられたショートボブ。
そこから見える細い首は折れそうなほど。
”沈黙の夜の時間”の終わりを告げる…日の出の時刻に差し掛かっている。
……ずいぶんと、早い仕事始めだな。
朝の気だるげな空気はそこにない。
小枝のような指が握る万年筆は、澱みなく動く。
「──獏について」
気づくそぶりのない女の背後から、静かに腕を伸ばした。
その喉元に小さなナイフが添えられる。
わずかにアンブレラの肩が震え、万年筆の動きが止まった。
「知ってることを話せ」
執務室の空気が、瞬時に張り詰める。
先ほどの静寂とは別の、息を止めるほどの緊迫感。
しかし、さすがその若さで局長を務めるだけはあるようだ。
……へえ。
ガットは静かに感心する。
“傘”のコードネームを持つ彼女は、静かに目線を上げるのみで、無駄な動きを見せない。
「……資料に書かれているもの、それが全てですわ」
窓にかかるカーテンの隙間から、光が一筋伸びていた。
クラウディの私邸があったウルネス層のナジェムとは異なり、ゼノラ層の空に、ゆるやかに朝が滲む。
時差五時間半。
──日付はすでに、変わっていた。
無駄のない言葉。
ガットの異常なまでに鋭い洞察眼が、彼女の声や指先の動き、心音までもを正確に“読む”。
「…資料は、隣の管理室に」
──嘘はない。
そう判断すると、ガットはナイフの刃を静かに避けた。
アンブレラは一拍置いて立ち上がり、扉の向こうへ。
そして管理室の鍵を開けると、中に入り、慣れた動作で棚からファイルを取り出した。
振り返るまでもなく、背後に気配があると、アンブレラは肌で感じていた。
「…こちらに」
アンブレラは前を向いたまま。
一時的に荷物を置けるように備えられた小さな机の上に、ファイルを差し出した。
ガットはそれを受け取りながら、彼女の指先をじっと見つめる。
わずかな震えも、乱れもない。
「……中身がないのは同じか」
ガットは書類を一瞥したのち、指先でページを捲る。
何も書かれていないに等しい。
まるで“空白を見せるための報告”だ。
そして開かれた資料の上に、裁判所本部が管理する極秘のファイルを重ね置いた。
その瞬間、わずかにアンブレラの黒い瞳が揺れ動いたのを見た。
「…どのような要件で、獏をお調べに?」
けれど声は震えていなかった。
アンブレラはわずかに瞬きする。
この漆黒のフォルダに刻まれた銀の円環模様は、裁判官以外には決して触れられないはずのもの。
……なぜこの男は、それを持っているのか。
そう問いたい衝動を、喉の奥に飲み込む。
言わずとも知れる。
今背後に立っている男こそ、実態を見たものが極端に少ないと言われる、第六の影だ。
「知ってどうする」
「この種族については、取り扱いが難しいため、私の記憶に留めているものもあります」
「…へえ」
それは朗報だ。
そして同時に多くの意味を含む言葉だった。
「賭けに出たな。俺がそれを理由に裁くかもしれねえだろ」
情報をあえて伏せている。
それが何を意味するか、そしてそれを明かすことがどれほど危険な行為か、分からないほど馬鹿な女じゃないはずだ。
短時間の邂逅でも、彼女の対応からは知性と最適判断を下せる性格を読み取ることが出来ている。
ガットが探るように問えば、アンブレラは、一つ抜けたフォルダの穴を見つめて、淡々と言葉を返す。
「事実のみを述べております。…あなたの前では、全て見通されると伺っておりましたから」
「……」
「私が情報をあえて絞って報告しているのは、全ては完全な機密のためです」
それほど獏という種族は、扱いに困るのか。
天使というだけで、悪魔社会のあらゆる権利を剥奪されている彼にとって、真実を知ることは今のところ出来なかった。
ガットはコバルトブルーの目を細めた。
「…所在は?」
「……イデラ層の日本という国に。鍵帳簿の登録に記載された層から動きはありませんわ。最も近しい星層扉は、19607番」
静かで、滑らかな声。
淀みはなく、偽りもない。
「──最近の出入りは?」
ガットは低く問いかける。
アンブレラの指が、書類の角を撫でた。
「……特筆すべきことは、ありません」
その声に、ガットの耳が研ぎ澄まされる。
鼓動、平常。
呼吸、穏やか。
視線、濁りなし。
──なのに、どこか引っかかる。
言葉の背後に、“何かを置き去りにしている”気配がある。
「言葉を選んでやがるな」
「……ええ。ですが少なくとも、裁判所に報告すべき事案ではありません」
“報告すべき事案ではない”。
選ばれたその言い回しに、ガットの眉がわずかに動いた。
「……テメー、そいつに借りがあるな」
アンブレラは少しだけ目を伏せた。
黒衣の肩が、わずかに揺れた気がした。
「……何十年も前のことですわ。私の中で終わった話です」
少しの沈黙のあと、彼女が振り返った。
すかさず、ガットはナイフをその細い首へ添える。
けれど怯みもせず、アンブレラはガットを真正面から見据えた。
「裁判所に従うことは当然ですわ。私情を挟んだ覚えはありません」
まっすぐと放たれた言葉に嘘偽りは感じ取れない。
血の気のない女かと思ってたが……意外と熱がある。
ガットの眼差しは、彼女の中心に灯る小さな火を確かに捉えていた。
ガットはナイフを下ろし、慣れた手つきで胸のホルダーにしまった。
足音を立てずに、静かに背を向ける。
蝶番の擦れる音すらさせず──ガットは消えた。
アンブレラは、その場で小さく息を吐く。
閉じたまぶたの奥で、あの時の“愛しい痛み”がよみがえる。
──あの子は、まだ生きていた。
このお腹の中で、柔らかくも力強く蹴る足の感覚を覚えている。
夢の中で、何度となく繰り返されていた幸せと、同じだけの恐怖と哀しみ。
一時期、眠ることを拒むほどに苦しかったあの絶望は……
今はもう、その時の苦しみだけがすっぽりと抜け落ちて、安らぎだけが胸の内に宿っている。
すべて、彼のおかげで。
彼女は執務室へ戻り、よろけるように椅子に腰掛けた。
止まっていた時間が勢いよく元に戻ったような、鼓動の早送りを深呼吸でやり過ごす。
机の引き出しを開け、小さなペンダントを取り出す。
中には、微かに擦れた、古びた写真。
黒字に白の、小さな影。
「……報告義務に該当しない。そうでしょ?」
胸元にそっとそれを抱き、彼女はまたいつもの無表情へと戻っていった。




