二十三層 : 第六の影.02
「アンブレラのところに行くんですか?」
クラウディの屋敷を後にした三つの影。
それらはウルネス層の大扉を抜けて、ゼノラ層の裏路地を静かに進んでいた。
一番小さな影が、建物の影を踏むように進む、目の前の男を見上げて問う。
ずいぶんとごつく重そうなブーツを履いているにも関わらず、足音を立てないように歩くのは、ガットの昔からの癖だった。
薄ら雲に半身を隠した月明かりでは、闇夜を照らすには頼りない。
けれど、前を行くガットには十分なようだった。
中央都市の中でも人影の少ない複雑な路地を、迷うことなく歩を進める。
夜中でも、ヴァルカニア祭の賑やかな音が遠くから聞こえていた。
彼はフードを一度外し、億劫そうに金髪をかきあげた。
多くの種族が混在するこのゼノラの層。
特に角層につながる大扉が立ち並ぶ街として繁栄するここは、長年”共存”を謳っている。
けれどその実──明確なほどに、種族による居住区分けがされていた。
今まさに歩いている裕福な悪魔たちが暮らす地区もあれば……
妖精たちが煌びやかに住む地区もある。
まるで、スラムのような生活を送るところも。
そして一様に、その道は入り組んでいる。
大抵は、普段使いの大通りを覚えている者がほとんどだ。
職業柄、この広すぎる街の路地裏まで全て知り尽くしているのは、この男くらいかもしれない。
「…端から詰めていく。いつもと変わらねえよ」
低く、気だるげな声。
けれど、彼の足は止まらない。
「さすがガットさん。対象の“アツキ”より先に、獏の方から洗うんですね」
「それにしても、わざわざ第一級金庫まで入り込んでも何もわからないなんて、何か臭うわよね」
二メートル近くある長身の影がふたりの会話に入り込んだ。
紺色のツーブロックは乱れることなく、褐色の肌に薄青い瞳がよく映えた。
その声は低く落ち着いた男の声だが、身振りや口調はどこか女を思わせる。
別段それを気にする様子もなく、ガットが不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そういう面倒も含めて、あの眼鏡の嫌がらせだろ」
皮肉になじる言葉の節々から、軽蔑のようなものを感じる。
「あまり言いたくないけれど…ちゃんと名前を呼んだ方がいいわよガット」
「でもめっちゃ嫌がらせしてくるところ、あるじゃん?」
「…あなたもよリリー。口を慎みなさい」
「だって本当のことだもん」
リリーと呼ばれた女はつまらなそうに口を尖らせ、頭の後ろで腕を組んだ。
肩の長さで切りそろえられた黒髪が、さらりと揺れる。
大きな目にそぐわぬ眼鏡が、月明かりを反射した。
その様子を「女の子なんだからやめなさい」と指摘する巨体の男……エノワールは、思わず溜息をついた。
エノワールは何気なく夜空に視線を向けた。
星すら見えない黒い空に、羽音ひとつしないはずの静けさが、逆に耳に残る。
──今、誰かに“見られて”いないとは言い切れない。
だからこそ、言葉には刃と同じ覚悟が要る。
とくに、裁判所の目は、このゼノラの層にも複数あった。
第六裁判官であるガットは、いわゆる裁判所の闇の仕事を担っている。
というのも、ガットは悪魔領において異端の存在だったためだ。
彼は──天使だった。
彼は種族が異なるばかりに、悪魔社会において、全ての権限がゼロに等しかった。
天使の彼に裁判をさせるわけにはいかない。
裁判官としての権利を持たないガットに回される仕事は、決まって裁判所が闇に葬りたい“汚れ仕事”ばかり。
その中でも特に、面倒な仕事ばかり回ってくるのは、ソルヴァンの嫌味も多く含まれていた。
ガットは、最初こそ罪人として捕えられ、裁判所へ移送された。
けれど、彼に判決を下すにはあらゆる問題が立ちはだかった。
種族や、彼の在り方や、天使領での立ち位置。
法に則って処罰するには、その障壁はあまりに高く分厚い。
仕方なしに、自ら培ってきた暗殺の腕を買われ、空席にするよりは良いというダーツの一言で、空いていた第六裁判官として雇われた男だった。
その下に就くリリーそしてエノワールもまた、暗殺業に長けている。
──もちろんただの部下ではなく、監視係でもあったが。
「というか、そろそろ正式に第六裁判官を名乗れるようにならないんですか?」
音もなく歩き続ける広い背中を見てリリーが言う。
しかし彼女の問いに返答したのは、後ろに続くエノワールだった。
「それはないわよ。だってしっかりそのための勉強をしてこないと、裁判官にはなれない法律があるもの」
「…でもガットさん、裁判官の席には座ってるじゃん。もう何十年も仕事やってきたよ?いい加減さ、認められてもいいじゃん」
「それは──」
「よくない?別にガットさんが裁判官になって裁判しても!こんな裏の仕事ばっかじゃなくてさ!」
言い澱むエノワールは、盲目的にガットを推すリリーに苦笑をこぼした。
そこに私的な理由が入っていることは火を見るより明らかだ。
しかしそんなリリーの心情など一切気にする様子もなく、唸るような声でガットが言い捨てた。
「…そんなつもりはねえ」
彼の足が止まり、静かな眼差しが路地の先に灯されているランタンの光を見た。
まるで遠い日の思い出をなぞるように。
休む暇などなく、常に振られる厄介な仕事。
裁判所に楯突く奴らの、無音の処理。
彼にかかれば、もともと存在していなかったように、多くの者が屠られる。
それこそ、夜の闇にひっそり浮かぶ暗雲が、星を覆い隠すように。
それらがソルヴァンから自分への当てつけだということは、毎度のことながらわかりきっている。
──胸糞悪い奴だ。
好きでこんなところで燻っているわけじゃねえ。
こっちだって悪魔や死神と同じ場所で働くなんて、不本意だというのに。
不機嫌を露わにするガット。
急降下する上司の機嫌を察知して、リリーが慌てた様子でそのたくましい腕をゆすった。
「でも、もしかしたらそろそろ功績を称えてくれるかも」
機嫌を直してほしくてわざと明るい声で言うが、まるで逆効果だった。
ガットは彼女の手を振り払い、更に低い声で振り返りざまに言い放つ。
「何度も言ってんだろ。一緒にするな」
少しずつ晴れてきた雲。
自分より頭一つ分大きいガットの輪郭を明るく照らす月明かりに、タイミングが悪いと悪態をつきたくなった。
暗闇ならばこんなに怒る彼を見なくて済んだのに。
しかし後悔しても遅い。
彼のコバルトブルーの瞳が、リリーとエノワールを鋭く睨んだ。
「テメーらはいい加減帰れ。いつまでも着いてくんな、邪魔だ」
「……でも、ガットさん──」
「“沈黙”はどうした。テメーらが大好きな秩序に則れよ」
「……」
それはどこまでも、“拒絶”だった。
差し伸べた手を全て無視し、優しさの一片も受け取る気がないと言わんばかりに、彼の声は冷たい。
「…そうね。私たちは戻りましょうリリー」
「……」
何かを言いかけたリリーの唇は、何も言葉にすることができなかった。
あっという間に背を向けて、闇へ消えていったガット。
その背中を探すように、ただ立ち尽くす。
「……エノワール…。私さ、いつかはガットさんも馴染んでくれるんじゃないかなって思ってたんだ」
声が少し震えていた。
身長差が大きなエノワールからは、その表情は伺えない。
けれど、そっと、その小さな背中に手を重ねる。
「でも、ほんと…ずっと別の誰かを見てるよね」
彼が裁判所に来てから、恐らく一番付き合いが長いふたりはよく知っていた。
ガットは罪を償うためにやってきた。
どんな罪を背負ったかは知らない。
けれど、その罪を今は”刑期”という形で背負い、仕事をひたすらこなすことで返し続けている。
そしてそれは、彼にとってこの上なく腹立たしいことだと、日々の言動から滲み出ていた。
裁判官になったことも不本意。
むしろ、死んだ方がマシだったとさえ思っている。
けれど、生き続けなければならない。
ここで課せられた刑期を過ごす。贖罪に生きる。
それ以外に方法がないことを、彼は、よく分かっている。
──だから彼は天使領に帰ることばかりを、いつも考えている。
すっかり雑談もするような雰囲気ではなくなった、重苦しい空気。
口は禍の元。
ガットが口癖のようによくつぶやく諺が脳裏をかすめ、リリーは肩を落とした。
彼の暗殺の腕は相当だ。
今まで何度も共に任務をこなしていく中で、それは知っている。
その意思さえあれば、ダーツの寝首をかくこともできるんじゃ──?
でも、それをしないのは何か理由が、きっとある。
長い付き合いになるリリーも、エノワールも知らない何か理由が。
彼は悪魔や死神に心を開かない。
振り払われるたびに痛感する。
──彼は自分たちと違うのだと。
単純な種族の問題ではなかった。
そこに横たわるのは、思想や哲学、種の在り方よりも重い何か。
ガットが自ら降ろすことを拒み続けている、
裁かれるべき後悔だった。




