二十二層 : 第六の影.01
クラウディは、イデラと他層の関係を隠匿・統括するための機関“イデラ層管理局”の副局長である。
名前はコードネームにより伏せられており、“雲”を冠するそれは、神獣カノクィムから付けられたものだった。
曇天、雨、雲など──
空を“覆い隠す”存在は、カノクィムの“隠匿”や“欺瞞”の象徴とされ、
イデラに住む人類への機密を扱う「イデラ層管理局員」の通り名として、多く用いられている。
ウルネスの”安寧の森”、第二区都市ナジェム。
その中でも特に裕福な居住区の一角に、クラウディの私邸はあった。
隅から隅まで整備された垣根や、手入れの行き届いた広い庭。
いわゆる豪邸と言われるだろう外観は、その身分にぴったりだった。
悪魔の中でも老齢の分類に入るクラウディは、その小柄な姿にはそぐわないほど知識も豊富で計算高い。
他種族の中で最も人口の多い悪魔は、一定の年齢を超えれば隠居するものが多かった。
そんな中で、彼のような老魔が、副局長として職に留まるのは珍しかった。
部屋はアンティークな品々で、彼の好みにしっかりとカスタマイズされている。
埃一つ落ちていない装飾物。大きな暖炉。分厚い絨毯。
重厚な作りの邸は、やはり黒が基調に整えられている。
ただ、各部屋の扉に添えられる青紫の花だけが、異様に浮いた存在感を放っていた。
クラウディは中でも一番お気に入りの書斎で、ホットミルクを片手に寝る前の読書を楽しんでいた。
──”悼み月”の期間はいい。
騒がしさなど無縁の空間。光を極限まで落とす沈黙の時間。
早めに仕事からあがれるという点も、彼にとっては嬉しいことだった。
……はてさてこの物語の行く末はどうなるか。
今日の分を読み終えてゆっくりと表紙を閉じたところで、閉めたはずの窓際から風を感じた。
もう夜の帳も降りた時刻。
夜を象徴するキング・ハーウェンの時間だ。
戸締りは確認したはずだが……
自分も老いたと思いつつ、窓へ顔を向けたときだった。
今まで誰もいなかった目の前のソファに──
足を組んで座る誰かがいた。
思わず飛び上がりそうになると、背後から別の誰かの手が伸びてきて、
老体を椅子に押し付けるように拘束した。
「なんだ…!」
「──大声出すなよじいさん。今は“沈黙の時間”だろ」
低く、妙に静かな男の声だった。
小さなランプで手元を照らすように読書にいそしんでいたため、男の顔をはっきり見るほどの光源がない。
しかし、僅かな光に照らされるブーツや服装が黒に統一されていることから、裁判所関係の者だと推測できた。
裁判所に携わるものは、漆黒以外を身に纏うことが許されない。
「あなたは──」
「質問するのは俺だ」
どうやら正体を明かすつもりはないようだった。
変に詮索をすれば、いま自分を椅子に縫い付けている腕の持ち主に、何をされるか分からない。
クラウディは小さく息を吸い、次の言葉を待つ。
その様子に、目の前の男が喉で笑った。
「…殊勝だな。さすが年の功ってやつか」
「いえ…滅相もない」
「……女を探してる」
ゆっくりと言葉を紡ぐ男は、同じくゆっくりと、音もなく足を組みなおす。
「不正鍵の持ち主。鍵帳簿を辿ったところ、イデラに出層したことが分かってる」
「……」
「鍵の鋳造時、そこに“獏”らしき存在がいたことも」
男は澱みない声だったが、聞けば聞くほどに空気が“時間”を忘れていくかのようだった。
まるでこの部屋だけが、外と隔絶されたように、張り詰めている。
「唯一の獏の生き残り。今の所在はイデラだろ?」
ようやく声を出していいと、言われた気がした。
喉を鳴らして、一つ、唾を飲む。
「ええ…その通りでございます」
「その獏の情報は、なぜない」
どこからともなく取り出した分厚いファイルを、テーブルに投げ出した男。
その拍子にランプが動いて、男の顔がぼんやりと見えた。
僅かな光で見えた、フードの下に隠された金髪のオールバック。漆黒のシャツ。
その下に見える鍛え抜かれた体にも目を引いたが──
なにより男の顔を、大きく十字に縦横断する古傷に目を逸らせなくなった。
クラウディは彼を知っていた。
正しく言うと、話に聞いていた。
ここ数十年、裁判所関係の者の間で話題になっている人物である。
「ガット…ビター、第六裁判官…」
思わず言葉に出すと、喉元に冷たい何かが触れたのがわかった。
自分を押さえつける腕とは、また更に別の腕に、ナイフを突きつけられている。
目の前に座るガットは、鋭い吊り眼を細め、これまたゆっくりと人差し指を自分の口の前に翳した。
「…言葉は慎重に選べ。まだ声を失いたくねえだろ」
「…っ」
「なぜ、獏の情報だけがない」
ぺラリとめくられたファイルの表紙。
分厚いファイルのはずなのに、そこに挟まれている書類はたったの数枚だ。
そして、そのファイルが鍵を幾重もかけて管理している“第一級の書類”だと気づいた。
クラウディの額に、脂汗がにじみ出る。
第六裁判所は、何らかの理由で裁判ができない状態だと聞いていた。
その代わりに、ガット・ビターは持ち前の暗殺技術を駆使し、裁判所に貢献しているのだとか。
しかし、裁判所に関わる者の中でも、そこそこの地位にいるクラウディですら、その話が嘘か真か判断ができなかった。
それは、その姿を見た者が極端に少ないせいだ。
暗殺者たるもの、自分の情報を断つ術をこころえているのか──
それとも単純に、他者に心を開く気がないのかは定かではないが。
その異端の存在を初めて目にすることができた今でさえも、さして情報が増えたわけではなかった。
けれど「この男が入り込めない場所などないのかもしれない」ということだけは確かだった。
その証明のように突きつけられた特秘データを、生唾を飲み込んで見つめる。
「ア、アンブレラ局長が…獏に関してすべて担当しておりましたもので……」
「……」
「わ、私は何も、存じ上げません」
──本当のことだ。
しわに沿って垂れる汗を感じながら、逸らすことなくガットを見つめ返す。
嘘だと思われたら、喉を裂かれて声を失うのだろうか。
いや、声だけならまだいい。
もしも命を絶たれてしまったら──
こんなに刻むことなど生涯あるだろうか。
そう思わせるほどに上がる心拍数と、震える指先。
どんなジャッジが降りるか、もう一度生唾を飲み込んだとき、ガットが片手を上げた。
苦しいほどの圧迫を感じていた腕が、すべて離れていく。
それでも、全てを見透かすような眼差し。
そのコバルトブルーから、視線を逸らせない。
「──正直は長生きのコツだ」
革張りのソファから、音を立てずに彼が立ち上がる。
「…"口は禍の元"。今夜のことは心の中にしまっておけ」
誰ぞに言いでもすれば、声どころか命を失うぞと警告された気がした。
音もなく闇の中へ姿を消した男。
ようやくその場に時間の概念が戻ってきたように、クラウディは詰まっていた息を吐き出した。
背後を勢いよく振り返ったが、もちろんそこには誰もいなかった。
噂で聞くよりも恐ろしい男だ…
頬の輪郭をなぞった汗がぽたりと絨毯に落ちた。




