【第一幕】二十一層 : 悪魔の裁判所.05
過去、類を見ない鉱石による鍵鋳造が発見された──その翌日。
中央都市ネスタには、ウルネス層の悪魔領“安寧の森”とゼノラ層をつなぐ、星層の大扉が佇んでいる。
それを一辺に、ここもまた都市全体がハニカム構造の城壁で囲まれており、中央に最高裁判所──“裁定の塔”が聳え立っていた。
静まり返るネスタは、都市というよりも裁きの場であり、全ての機能が裁判所のために存在していた。
ここに住まう市民はごく僅かで、彼らもまた、全て裁判所の運営に関わる者たちで構成されている。
その塔の中にある議事堂は、相変わらずの漆黒に染まっている。
長方形の大理石の机を囲むようにして、七席全ての裁判官の姿が揃っていた。
この空間に、全員が集まることは非常に稀だった。
それは裁判所が“大きく動く合図”でもあった。
部屋に窓はない。
代わりに、天井には惑星を思わせる光のウフを使った照明が、何にも吊られず浮いていた。
青白く照らされた壁面が、部屋の温度を一定に保っている。
音がほとんど反響しない素材で床も壁も覆われており、話し声すら吸い込まれていく、沈黙の間。
ただ、部屋全体に施された星や輪の意匠が、その空間をただの静寂ではなく、真空に思わせた。
息さえ詰まるような、宵闇の空間。
裁判官たちは、まるでこの空間の一部のように、無言で席についていた。
滅多に開かれない“全裁判官会議”。
議題は、不正鍵と不法扉の取り締まり──だったが。
「……報告する」
ソルヴァンの声が、光の揺らぐ壁に吸い込まれるように響いた。
その言葉の前に、指先で机を一度だけ叩いた。
無駄のない動作に、全員が自然と沈黙する。
「この会議は、直近の不正鍵発見、および神器“悼む槍”の所在確認に関するものだ」
無言のまま、裁判官たちの視線が彼に集まる。
「まず、先に共有する。不正鍵の調査中、“タングステン”を含む鍵の存在が確認された」
一瞬、空気が張り詰める。
初めて聞く鉱石による鍵の鋳造。
それが何を意味するのか、問われずとも全員が察していた。
けれど、誰も言葉を発さない。
「フォールドラークの記録には前例がない。未知の混合素材──これを新たな種の誕生と考えるか、あるいは“今まで鍵を持たなかった種”の台頭と考えるか。……登録は四日前。所持者の名は“アツキ”」
ソルヴァンの視線が、部屋の隅──ただひとり、机に背を向けて立つ男に向けられる。
金髪を無造作に後ろへ撫で付け、黒いフードで覆い隠すその男。
──ガットは、音も立てず、コバルトブルーの瞳を静かに床へ落としていた。
机に背を向けているのに、すでに他の裁判官たちの動きを見透かしているように。
肌寒い冬の空気の中、彼だけはまるで夏の装いだった。
体格のいい体を包む黒のシャツは胸元のボタンが外され、薄めのブルゾンだけを羽織っている。
分厚い絨毯を踏みしめる戦闘用ブーツ。
その編み上げの紐の丁寧さが、彼の性格を物語っていた。
けれど、存在を希薄に保つ在り方とは正反対に、彼の顔には十字の火傷痕があった。
鋭い眼差しも相まって、まるで猛獣が獲物を狙う時のような静寂を纏っている。
「ガット。貴様にこの女の調査を命じる」
「……」
「鍵の材質、登録の経路、立ち入り禁止区域との接触の有無。あらゆる情報を集めてこい。必要とあらば、処理して構わない」
重たい沈黙の中、ガットは何も反応を返さなかった。
けれど、それが当然のように、ソルヴァンは次の議題へと進める。
「次に、“悼む槍”の件だ」
ソルヴァンが机の上に一枚の報告書を滑らせた。
ウフ灯が照らすその表面には、一本の槍についての詳細な記録が記されている。
「長年、我々が探していた槍──キング・ハーウェンの“悼む槍”が、かつて獏の里があったとされる場所で発見に至った」
「…見つかったの?」
驚いたように声を上げた女──リーテが、深い紺の目をわずかに細める。
ゆるく波立つ黒髪が、繊細なレースの袖口と一緒にふわりと揺れた。
漆黒のフォーマルドレスは襟と裾に、輪と彗星の刺繍が施されている。
無駄のない惑星の円環は秩序の象徴、神獣アラ・カラの意匠。
裁判所が尊ぶ死のキング・ハーウェンに並ぶ、もう一柱の神獣だった。
ソルヴァンは眼鏡を少し抑えつつ、言葉を続ける。
その奥に光る金色の目は、相変わらず冷たい。
「すでに“悼む槍”は回収済みだ。しかし問題は、その槍には獏どもによって“悪夢の封印”が施されているという点」
「…なにそれ?」
「悪夢の結晶化されたものがこびりついている、としか言いようがない」
詳細不明と書かれた報告に目を通しながら、少女が首を傾げた。
歴代裁判官の中でも最年少──チェリル。
丁寧に編み込まれた深い緑色の三つ編みと、同じく円環模様が光の具合で浮かぶ漆黒のワンピース。
久しぶりに耳にした種族名について、思い出すように、書類の端を折り曲げて遊んでいる。
それが誰かの死刑執行記録であっても、彼女にとってはただの紙だった。
声を上げておきながら、彼女の銀色の瞳は興味なさそうに伏せられている。
「でも獏って、少し前にみんな殺しちゃったんじゃないの?」
「……唯一残っているわよ、ひとりだけ」
「じゃあその獏に解かせればいいじゃん?」
悪びれもない発言を繰り返すチェリルに、リーテは優しく微笑む。
「そうね。でも──その獏という種を追いやったのも、私たち裁判官よ」
一拍の沈黙が落ちる。
しかし、すぐにソルヴァンの温度のない声が、淡々と続いた。
「そうだ。獏はその“悪夢を食べる”という性質上、我々の秩序を揺るがす存在だ。粛清対象として淘汰は仕方のないこと……今の生き残りは、あくまでハーウェンの慈悲の上に成り立っている」
魂の重さを測ることで罪の重さを問う裁判所。
その根底を覆す存在である、獏という種。
規律を重んじる悪魔たちが、“魂を軽くしてしまう”獏を放っておくわけがなかった。
裁判所が歩んできた歴史の重みが空間に落とされたように、
ソルヴァンの言葉は沈むように床へ消えた。
音が、静かに吸収されていく。
「現在、神器は移送用箱の中に収められている。ただし、蓋を閉じても“悪夢による封印”が滲み出ており、長時間の携行が困難と判断された」
ソルヴァンは一拍置いて、静かに続けた。
「死、慈悲を象徴するキング・ハーウェン。その槍は、裁判所が正しい規律のもとに”魂の裁定”を行なっている象徴となる。これを“裁定の塔”へ無事に運ぶこと。それが何より重要だ」
「…運んだとして、封印はどうする?」
ふと、腕を組んで話の行き先を伺っていた男──コウヤが口を開いた。
明るい茶髪の下で、黒い瞳がソルヴァンを見る。
分厚い外套から覗く鍛え抜かれた体躯は、ガットに並ぶほど。
けれどしなやかさを残したまま、椅子に深く腰掛けている。
その手には弓を扱う者を示すように、フィンガーグローブが嵌められていた。
ソルヴァンは吐き捨てるように答える。
「解かずとも、それがここに在ることが意味を持つ」
書類の端を指で整えながら、冷徹なほど明確に言い切った。
まるで言わずとも察しろと言わんばかりのきつい眼差しに、コウヤは黙って肩をすくめる。
「“我々の裁定は、神獣キング・ハーウェンの意志に基づく”という証明のために」
姿勢を正したソルヴァンは、手に持っていた最初の書類を槍の報告書に重ねて置く。
「──よって、件の鍵の所有者“アツキ”を捕らえた場合、中央へ護送する任務にかこつけ、“槍”も共に裁判所へ運ぶことを提案する」
「護送の建前……ということ?」
リーテの声がかすかに響く。
「そうだ。護送対象には、コウヤを護衛として付ける」
コウヤが驚いたように眉を上げるも、口を閉じて頷いた。
裁判所で、彼以上に“防御”に適した配役はいなかった。
「箱の移送は容易ではない。──が、外に知られれば、フォールドラークのような神獣信仰に厚い者どもの横槍が入ることは目に見えている。静かにことを運ぶ」
「…そうね、神獣の神器を一権力が握ることを、彼らが承諾するとは到底思えないわ」
「ふん。それこそが奴らの傲慢なところだ。まるで自分たちこそが神獣の全てを知り得ると言わんばかりに…」
話の脱線に気がついたソルヴァンは、鼻を一つ鳴らして、目線を全ての裁判官へ戻した。
「以上が今回の要件だ。異議がなければ、即時実行に移す」
沈黙だけがその場に残された。
それを肯定と捉えたソルヴァンは、終始気だるげに聞いていたダーツへ、ようやく眼差しを向ける。
だらしなく椅子の手すりに足をかけて、左腕の切り落とされた断面を掻く仕草は、もはやこの死神の癖だった。
「…では、このように」
「好きにしろ。神獣の槍の活用なんて、どうでもいい」
責任ある立場とは到底思えない言葉を残し、ダーツはさっさと議事堂を後にした。
彼のダークグリーンの瞳は、なんの色も浮かんでいない。
くるりと回る椅子だけが残される。
「……ガット」
開けっぱなしの扉から、次に出て行こうとしていたガットを、リーテが呼び止めた。
無言のまま、彼のコバルトブルーが目線をよこす。
「ごめんなさいね。いつも厄介ごとばかり」
「……」
「特に、”悼み月”の期間中は、悪魔はみな日没以降の外出も制限されてるから……裁判所も日が落ちる前に閉めることになっているし…」
申し訳なさそうに眉尻を垂らす彼女に、ガットは何も答えない。
むしろ舌打ちを一つだけ残して音もなく消えた。
それを見送る彼女が苦笑をこぼし、コウヤと彼女の弟…ヨミが労るように見つめる。
「…あいつは、いつまで経っても馴染む気がないな」
「ふふ。いいのよ。仕方ないことだわ」
笑って流す彼女の優しさに、コウヤは静かに眼差しを和らげた。
秩序と規律が全てのこの地で、彼女だけは慈悲の心を失っていない。
それはコウヤが彼女へ好意を向けるには、充分な理由だった。
ソルヴァンは最後に一言だけ「馴染まれても困る」とだけ忌々しげに吐き捨て、さっさと部屋を出ていった。
きっちりと着こなされた黒スーツ。
その上に羽織ったコートの裾を片手で払う仕草すら計算されたようで、その背に残るのは静かな威圧だけだった。
「夜に動けないなんて、つまんないよね~。この時期、早く寝なきゃいけないの、ほんと退屈」
ダーツが去った後の椅子をくるくると回しながら、チェリルが唇を尖らせた。
ソルヴァンが出ていった後でよかった。
リーテはそんなことを思いつつ、彼女の幼い頭を撫でてやる。
コウヤは呆れながらも、チェリルへ静かに注意を促した。
「……仕方ないことだろ。過酷な戦争を忘れないための大切な期間だ。俺たちも静かに過ごすべきだ」
「でもずーーっと昔の戦争じゃん」
「始まりはそうでも、その後もたくさん、天使と悪魔の戦争は繰り返されたわ。多くの死者が出たんだから。忘れてはいけないのよ」
終始、一言も発しないヨミ。
纏う黒衣は神官を思わせるが、まるで影を織ったような軽さと不気味さがあった。
黒く長い前髪の奥に、伏し目がちの紺の瞳。
ダーツよりもよっぽど死神に見える出で立ちと、異様なまでの沈黙。
彼は変わらずの無言を保ったまま、リーテの言葉に頷きだけを返す。
彼女の優しい声は壁に染み込み、やがて消えていった。