二層 : 夢を食う男.01
和親亜月は、今日何度目かの溜息をついた。
目の前には、先月よりもずっと少ないアルバイト代。
こどもの家を出て、一人暮らしを始めて、もう半年が経つ。
今、彼女は施設から二駅離れた高校に通う二年生だった。
周囲にシスターや子供たちがいた頃とは、遠い日々を送っている。
最初は何もかも勝手がわからず、不安も多かった。
それでも、こうして、なんとか生きている。
……けれど。
テスト前だからと減らしたアルバイト代は、あまりに侘しい金額だった。
生活費を引けば、手元には、ほとんど何も残らない。
また、ひとつ、重たい溜息が口から零れる。
だが、予想はしていた。
アルバイトを減らした時点で、こうなることは。
無意識のうちに、それを心の隅に押しやって──
見ないふりをして、ああ残念、と肩を落とす。
そんな風に、小さな不幸を味わうのが、彼女はなんとなく好きだった。
小さな不幸に触れるたび、思い出すものがある。
家の戸棚の奥、しまい込まれたポーチの中。
そこにある、真っ黒な通帳。
こどもの家を出るとき、シスター・テレサが持たせてくれたものだ。
『あなたを連れてきた人がくれたのよ。大事に使いなさい』
そう言って、暖かい手で包み込むように渡してくれた。
もう半年も前のことなのに、あの瞬間は、驚くほど鮮明に覚えている。
……でも。
その「誰か」が、誰なのかを、亜月は知らない。
初めて口座を開いた時は、腰を抜かしそうになった。
大学費用どころか、社会に出てからも使えるかもしれないほどの金額。
それでも──
彼女は一度も、そのお金に手をつけていない。
親族なのか。
それとも、金を払ってでも自分を捨てたかったのか。
通帳の数字を見るたび、苛立ちと、損失感が、胸の底をじくじくと痛める。
亜月は、そんな思いを振り切るように、歩調を速めた。
夜道は、風が冷たくて心地よかった。
施設は暖かい場所だった。
シスターも、血の繋がらない兄弟たちも、大切だった。
それでも、大人数で過ごす生活には、歳を重ねるごとに、どこか窮屈さを覚えた。
──私、ひねくれてるのかな。
考えれば考えるほど、胸の奥が沈んでいく気がして、亜月は無理に鼻歌を口ずさんだ。
通帳のことも、ほんとうは深く考えずに使ってしまえばよかった。
きっと、預けた本人に会えるわけでもないのだから。
彼女は、人気のない帰路を、ただ静かに歩く。
ふと、奇妙な既視感に襲われた。
……デジャヴ?
誰かに聞いたことがある。
それは「前世の記憶」かもしれないし、あるいは、「ただの錯覚」かもしれないと。
どちらにせよ、記憶は曖昧で、儚いものだと、亜月は思った。
いつも通っているはずの道。
なのに、今夜は、どこか不気味だった。
前向きに思い込もうとする。
無理に、足を進める。
──それでも、体は正直だった。
歩くペースが、知らず知らず速くなる。
息を意識しないと吸えないほどに、急いていた。
街灯の下を通るたび、影が前へ、長く伸びる。
けれど今夜の影は、いつもより……
ほんの少し、長い気がした。
パンプスの靴音が、コツ、コツ、と響く。
風が止まっていた。
音もなく、夜が沈んでいる。
──それなのに。
誰もいないはずの背後から、
かすかに、もうひとつ、足音が聞こえたような気がした。
悪寒が走る。
すぐ後ろに、誰かがいる気がする。
冷たい汗が背中を伝った。
亜月は、ゆっくりと振り返る。
転々と並ぶ、街灯。
光の下には、誰の影もなかった。
気のせいだと、無理に思い込んで。
亜月は、早足でアパートへと帰っていった。
夜の空気は、いつもより、ずっと冷たかった。
*
翌朝。
亜月は、携帯のアラームに押し上げられるように目を覚ました。
ぼんやりとした頭を抱え、洗面所へ向かう。
顔を洗い、朝食と、学校に持っていく弁当の支度を始める。
テキパキと動いているように見えても──
頭の中はずっと、昨晩の夢を、反芻していた。
帰り道で覚えたあの違和感は、どうやら夢だったらしい。
そう確信したのは、夜中二時頃、夢見が悪くて目を覚ました時だった。
覚醒しきらない頭に、ぼんやりと残る感触。
最初は、怖がりすぎて見た夢だと思った。
でも、どこか違った。
むしろ──
夢で見たから、現実に似た光景に怯えたのだと。
バターを塗ったトーストをフライパンでひっくり返す。
きつね色の焦げ目を確認して、皿に載せた。
なんか、あの夢──
見飽きるほど、何度も見た気がする。
でも、目が覚めても、何かが繋がったままみたいで。
……気味が悪い。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、卵を割る。
慣れた手つきで動きながら、きっとそうだと、自分に言い聞かせた。
身支度を整え、アパートを出る。
朝の空気は冷たく、吐く息も白く滲み始めていた。
制服の上から着込んだセーターの裾を直し、亜月は、学校へ向かって歩き出した。
*
学校が終わって、アルバイトを終えて。
今日も、暗い帰り道。
スマホ片手に、賄いの天津飯を思い出しながら歩いていた。
それが彼女の大好物だったのもあり、心なしか、普段より足取りは軽い。
流れてくる“誰かの日常”を、スマホの画面越しに眺めながら。
いつもと、同じ。
何も変わらない、はずだった。
唐突だった。
アパートまで、あと数本の街灯というところで――
何かが、肩に“沈んだ”。
重さだけ。
冷たくも、温かくもない、ただの重さ。
反射的に肩が跳ね、スマホが、手から滑り落ちた。
カシャン。
乾いた音が夜気に弾ける。
慌てて屈み、スマホを拾う。
その合間にも、背後を振り返った。
誰もいない。
──なに?
疑問が口に出る前に、体が動き出していた。
スクールバッグを握りしめ、転がるように走る。
鉄の階段を駆け上がり、並ぶドアのひとつに飛びつく。
鍵がなかなか回らない。
焦る。
手が震える。
やっとのことで扉を開け、なだれ込むように玄関をくぐった。
ばたん。
後ろ手で、鍵を閉める。
「……なに……いまの」
声が漏れたのは、下駄箱の横に座り込んでからだった。
誰もいないはずなのに。
確かに、そこに誰かがいた。
頭では否定しても、心臓だけが、真実を知っているみたいだった。
夜の冷たい空気が、肌にまだ、へばりついていた。
──その夜、亜月は夢を見た。