十九層 : 悪魔の裁判所.03
翌朝、日曜日。
まだ街が動き出す前の、冷たく静かな空気。
亜月は、アパートを出たあとも何度も立ち止まっては、ためらっていた。
駅前を過ぎ、商店街を抜け、一昨日と同じ道をぶらぶら歩く。
そしてふと気がつけば、昨日と同じ道を歩いている。
けれど、あまりにも早すぎる気がした。
昨日の今日で行っていいのかな……
昨晩のことが、まだ胸に熱を残している。
けれどそれを言葉にするには、距離が近すぎる気もして。
少し遠回りしてから──
そう思って、彼女はゆっくり歩く道を選んだ。
近所の公園に差し掛かったとき、ふと視線が止まる。
「……」
──そこにいた。
公園のベンチのひとつ。
何かを待つように、あるいは何も待っていないように。
昨日と同じ姿で、凌が座っていた。
ただ一つだけ違うのは、今日は鮮やかな羽織ではなく、浅葱色のカーディガンだったことくらい。
包帯の巻かれた腕をひざに置き、少し俯いたまま。
けれどどこか“気配”だけは、こちらを向いているようだった。
……もしかして、最初から分かってた?
そう思ったとたん、足が動いた。
亜月は何も言えないまま、凌の横まで歩み寄る。
「……また来ちゃった」
かすれた声がようやく出た。
すると凌は、ほんの少しだけ視線を向ける。
「……早かったな」
その言葉には、呆れも驚きもなかった。
まるで、来ることが“当然”だったかのような声音だった。
ベンチの横に腰を下ろした亜月は、しばらく何も言わなかった。
少しだけ冷たい風が頬を撫でて、髪が揺れる。
遠くで鳩の鳴く声がして、朝の街はまだ完全に目を覚ましていない。
「……なんで…」
沈黙を破ったのは亜月だった。
「──なんで私の悪夢は、食べてくれたの?」
凌は、答えない。
けれど、亜月はその沈黙に怯えることなく、少しだけ前を向いたまま、言葉を続けた。
「もう、どんな夢だったのかは覚えてないんだけど……」
両手を膝の上で組んだまま、亜月は視線を落とした。
「食べてくれたんだよね?私の悪夢…」
「……」
「それに、不味かったって言ってたし」
最後に苦笑混じりで付け足された言葉に、凌はゆるく片眉を上げた。
…そういや、そんな事言った気がする。
でもそれは、そういう意味ではなかった。
「……味の不味さじゃない」
「え?」
「お前の夢が、人間の夢じゃない味がしたから……“まずい”と思った」
なんとなく謝られてると、亜月は感じた。
凌はすこし沈黙したあと、息を吐くようにゆっくり言葉を紡ぐ。
「……獏が夢を食うと、同じ夢は二度と見なくなる」
「…そうなの?」
「お前のことは、昔から──少しだけ知ってた」
必要な言葉だけを重ねる。
言葉足らずだけれど、その声は穏やかだ。
「お前の父親に恩がある。…だから食った。それだけだよ」
「……私のお父さんって…」
その先の言葉を、どう続ければ良いか分からなかった。
どこにいるの?
お母さんは?
何してる人?
色々思いついた疑問はひとつも音にならないまま、凌もまた無言に戻ってしまって、深く尋ねられなくなった。
彼の紅い目が、薄いまぶたに隠される。
亜月は一度公園を見渡したあと、また、眼差しを凌へ向けた。
「……“なにも知らないまま生きるのはつらい”って、昨日、言ってたよね」
「……」
「たとえば、なにに気をつければいいの?」
少しだけ、凌の指が動いた気がした。
けれど、目を閉じたまま、答えはしなかった。
「結局……自分が本当に悪魔?なのかも、よく分かんないままだし。昨日いろんなことを教えてもらって、でも頭の中が全然追いついてないし…」
そこまで言って、ふっと笑った。
「……あ、ごめん。なんか、暗い話ばっかり。朝なのにね」
凌は目を開けて、ふと横を見る。
亜月の鼻先が少しだけ赤くなっていた。
吐く息は白く、着込んでいても朝の風の冷たさを防ぎきれていない。
「……」
何も言わず、凌はベンチから立ち上がる。
「えっ……?」
驚いたように顔を上げた亜月に、凌は一言もかけない。
ただ、来たときと同じ足取りで、歩き出す。
数歩先で、振り返る。
「来るなら、早い方がいいって言っただろ」
言葉はぶっきらぼうなのに、背中には、優しさが滲んでいた。
しばらくぽかんとしていた亜月は、少しだけ頬をゆるめて、立ち上がる。
その足取りは、たしかに昨日より少しだけ軽かった。
昨日暗い中で見た一軒家は、明るい陽の光の下で見ても、やっぱり普通の日本家屋だった。
飛び石を渡って、木蓮の脇を通り、玄関へ。
すでに懐かしさを覚えてしまう。
靴を脱いで家に入ると、微かに焦げたような匂いが漂っていた。
「…なんか…焦げ臭い?」
「……」
凌がため息をひとつつくと、すぐ奥の部屋からバタバタと足音が聞こえた。
汚れた白衣を着込んだ翔が、ゴーグルを押し上げながら駆けてきて、凌の腰に抱きついた。
「ごめーん凌!!わざとじゃない!本当にわざとじゃないの!!って、ええっ!?亜月ちゃん?!」
焦げた匂いと一緒に、翔が顔を出した。
手には何か焼けた基盤のようなものを持っていて、髪の先に静電気で逆立った跡が残っている。
「なんか……すごいことになってない?」
「……いつものことだから」
呆れたように凌が言い、翔を引き剥がす。
悪びれなく笑う少年に、亜月が思わず笑った。
「何か作ってたの?」
小学校の科学工作にしては、手にする基盤はあまりに実用的すぎるように見える。
「層を跨いで使えるスマホ!」
胸を張って言う翔に、凌が眉をひそめた。
「…めんどうな物作るなよ」
「今どきスマホなんて誰でも持ってるよ!層またいだら全部使えなくなるとか、時代遅れすぎるって!」
「人間基準で言うな」
「でもさ、もし異層間でやりとりできる手段があれば、扉の出入りだってもっと安全になるし、何より──」
翔が一気に言葉をまくし立てながら、自分の部屋へと戻っていく。
その後ろを追いかければ、六畳一間の和室の一角、学習机の上に、使い古されたスマホや分解済みのタブレット、謎のコード類が所狭しと並んでいた。
「これ、全部ジャンク品だけど、回路はまだ使えるんだよね。あ、こっちの腕時計?みたいなのは昨日ゼノラで拾ったやつ!」
「……ゼノラの物イデラに持ち出したら犯罪だからな」
「え?!そうなの?!…でも大丈夫!今ちょうど壊れたとこ!」
翔は満面の笑みで、焦げた腕時計の文字盤を掲げた。
「…………」
凌は何も言わずに、机の上のコードを一本、静かに取り上げてゴミ箱へ投げた。
「地味に高かったやつ!!」
そんな騒がしさの中、亜月はふと、楽しそうなこの光景を目に焼きつけた。
ここが今、自分の“居場所”になるのかもしれない。
そんな予感が、どこかくすぐったくて、少しだけ嬉しかった。
翔がまだ机の上でコードと格闘している横で、凌は踵を返して出ていってしまう。
廊下を挟んだ向かいの部屋。
一昨日、影から放り出されたダイニングのソファに、彼はいつものように腰を落ち着かせた。
その様子をちらりと見ていた亜月が、なんとなく声をかける。
「……あの、私の引っ越しのことなんだけど…」
凌は、返事の代わりにソファの背にもたれたまま、薄く目を開ける。
「業者を呼ぶにしても、平日だとやりとり難しいかも。明日からまた学校だし……しばらくは、家とアパートを行き来しながらになるかな」
「…そう」
「……なんかごめん、いきなりこんな話で」
「いいよ別に」
ぽつりと返されただけだったけれど、声の調子はやわらかかった。
「とりあえず、自分は人間ですって顔して生きてりゃ問題ない」
「…それは、うん。人間だと今でも思ってる」
「もし、黒しか着ない奴らが来たら──」
そこで言葉を切った凌は、窓の外に目線を流した。
「気付かれる前に、俺のとこに来い」
「……」
「まずはそれだけ覚えとけばいいよ」
言葉少なだけれど、それが彼の不器用なりの気遣いだと思えるくらいには、どうやら心を開きかけていると自分で感じた。
「あ、あとこれ──昨日そのまま付けて帰っちゃって…」
申し訳なさそうにポケットから取り出した、イヤリング型の翻訳機。
凌は眠たそうにそれを一瞥したあと、ごろりとソファに寝転がった。
「持ってろ。いつでも使えるように」
「……ありがとう」
ぎゅ、と音のウフが埋め込まれたそれを、亜月は手で包み込む。
耳にはつけていないけど、ほんのり暖かくなったような。
手のひらの中だったのか、胸の奥だったのか……
どっちも、かも。
レースのカーテン越しに入り込む朝の光。
凌の足元までは差し込まないそれが、綺麗に明暗を分けていて、彼の生き方を表しているようだと思った。
その瞬間、遠くで何かの鐘が鳴ったような気がした。
ほんの一瞬、世界の音が変わったような──そんな気がして。
でもそれは幻聴だったのかもしれない。
亜月がふと耳を澄ませた頃には、もう何も聞こえなかった。




