十八層 : 悪魔の裁判所.02
夜も更けた時間だと言うのに、イデラ層行きのゲート前には何本も列が出来ていた。
そのうちの一本。
比較的短いところへ並んだ凌の背後から、亜月はそわそわと落ち着かない様子で周囲を見渡す。
ゼノラ層へ入る時は凌の影の中に入れられてしまったから、彼女が自分で通るのは初めてだった。
壁と天井の有無さえ分からない、夜の空間。
相変わらず何かわからない、ふわふわした浮かぶ光源。
焦げたベリー系の匂い。
音が遠くから聞こえる無機質なそこで、自身の鍵を握りしめる。
出層ゲートの前には、濃紺の制服を着た管理局員がひとり、重そうな椅子に腰かけていた。
小さなブースに囲まれた局員は、半分居眠りでもしているかのように身じろぎもせず、並ぶ人々を機械的に捌いている。
「…まとめてやるから」
そう言った凌が、包帯の手のひらを出す。
すかさず翔が鍵を預けたので、亜月もすっかり温もりを持ったそれを手渡した。
凌が無言でポケットから自分の鍵も取り出し、無造作にブースの台に三本揃って置いた。
錠前のような金具のついた帳簿に、局員が視線を落とす。
「ゼノラからイデラ、三名分。──864ノワです」
「……」
凌は財布を取り出し、銀貨9枚を滑らせるように台の上に並べた。
「…釣りはチップで」
ふと、鍵に手を伸ばした局員が、そこに混じる金色の一本に目を見開いた。
わずかに姿勢を正した局員は、丁寧な手つきでゲートに金の鍵を掲げる。
横の古びた石柱がゆっくりと光を帯び、中央のゲートを局員が指し示す。
「おひとりずつどうぞ、鍵は通過後に返却します。…次の方」
鍵を一本ずつかざした局員が、手元で何かの操作をして手渡す。
亜月と翔は目を丸くしていたが、凌はそのまま足を進めた。
ゲートを抜けると、放射状に伸びる、静かで長い通路が見えてくる。
足元に敷かれた白い光のラインを辿るように、三人はゆっくりと歩き出す。
だんだんと横ならびが出来ない幅になり、灯りも絞られて、道の先に一枚の扉しか見えなくなっていった。
亜月は小さな声で呟いた。
「……行きはお金かからなかったのに、帰りは取るんだね」
「…ゼノラだから」
前を行く凌がぼそりと答えた。
「どういう意味?」
「言っただろ。守銭奴の街だって。入層は歓迎するが、出層は財布の中身を落としてけってこと」
「ひど…」
翔はまだどこか圧倒されているように、ぼんやり前を見ながら口を開いた。
「さっき、銀貨9枚払ってたよね? それって日本円でいくら?」
「864ノワって言ってたね」
亜月が思い出すように呟く。
凌は道の先の扉に自分の鍵を差し込んで、ゆっくり押し開いた。
急に冷たい空気が吹きすさぶ。
夜に加えて今は11月だったのだと、その寒さが唐突にふたりを現実に引き戻した。
見渡すとそこは今朝も通ったビルの勝手口。
少しだけ雨が降ったのか、地面が濡れて土の匂いがする。
「1ノワでだいたい100円」
それだけ答えた凌は、さっさと歩き出す。
「…てことは…」
ふたりが同時に頭の中の電卓を叩く。
その間も遠ざかる背中。
「え?!ひとり3万弱?!」
ようやくその額の大きさに気づいた亜月と翔は言葉を飲んだ。
慌てて亜月が財布を取り出す。
「払う!払うよ!」
「……要らない」
と、凌。
「いやいやいやいや!!」
翔の声が、夜の静けさに場違いなくらい明るく響いた。
「えぐすぎでしょ!?」
「てか一万もないよ私の財布!」
「……」
「家にあったかな?!」
慌てふためく亜月と、金額の大きさに引き気味の翔を背にしたまま、凌は大きくため息をついた。
「……あ、てかご飯のとこも払ってくれたよね?」
「あれもいくらか分かんないよ、僕」
「…あのな」
声量と時間がそぐわない。
手っ取り早く黙らせるために、凌は足を止めて振り返った。
「……俺は金より静かな時間のが大事なんだよ」
そんな言葉に、亜月も翔も、どこか納得したように黙り込んだ。
「層を超えても沈黙は守れ。…今は、ディアナ・ホロの”ヴェールが落ちてる時間”だ」
有無を言わさぬ圧を受け、ふたりは出かかった言葉を飲み込んだ。
扉を抜けた三人は、ビルの脇道を抜けて、人気のない夜の道を歩いていた。
異層の眩しい光と喧騒から離れて、イデラの空気はひどく静かだった。
街灯の明かりだけが等間隔に並び、車の通る音も遠い。
「あ、この道……」
凌の後をひたすら追いかけていたから、まともに周りも見ていなかった。
顔を上げると、見慣れた住宅街に差し掛かっていて、亜月は思わず声を上げる。
はっとして口を手で抑えたけれど、凌は沈黙を破った彼女を咎めることはなかった。
「……ここを左に行ったら、私のアパートがあるんだ」
亜月がぽつりと言う。
その声は、どこか名残惜しそうで、でも気を使っているようでもあった。
「あの…私は帰っても、いいのかな?」
なんとも言えない声色だった。
このまま帰ることに、少しの抵抗があるような。
凌は紅い目を細める。
「いや、なんかほら…色々教えてもらったけど、これから私どうすれば──」
「好きにすればいい」
戸惑う亜月にかける言葉としては、あまりに投げやりだったかもしれない。
けれど空気に溶けるような声は、言葉と裏腹にとても穏やかだった。
「翔は、一年くらい前からうちに居着いてる」
「…そうなの?」
「うん!イデラに僕らみたいなのがいるのって、やっぱ普通じゃないんだって。だから、凌のとこに保護?してもらってる的な」
「そう、なんだ…」
なんとなく、分かった気がする。
初めて凌に会った時、翔が言葉を選んで説明をしようとした様子、それから今日一日を通して。
目の前に佇む、静かで、言葉少なな存在は──
実はただ、とても不器用な優しさを持ってるだけなんじゃないか、と。
翔はつかれたように欠伸をしながら、もう何度目かのため息をつく。
「はあー…てか、今日めちゃくちゃ濃かった…またゼノラ行こうよ。もう今すぐでもいいくらい」
「……お前は帰って寝ろ」
投げやりに言った凌の声は、いつもと変わらなかった。
けれど、どこかほんの少しだけ、優しくなっている気がした。
「亜月」
初めて名前を呼ばれ、亜月は目を見開く。
「帰ってもいいし、来てもいい。ただ、来るなら早い方がいい」
「え…」
「何も知らないまま生きるのは、こっちの世界じゃつらすぎる」
亜月は言葉を飲み込み、ただ小さく頷いた。
それ以上何かを言えば、揺れそうな自分がいたから。
一度ふたりと別れて、歩き慣れた道をゆっくり歩く。
見慣れたはずのアパートの灯りが、今夜はほんの少し、遠く感じた。
アパートの扉を、鍵で開ける。
半年も使って慣れたはずの鍵のつまみが、とても薄っぺらく感じてしまった。
荷物を置いて、シャワーを浴びて、布団に潜り込む。
枕元には、今日もらったばかりの鍵。
──眠れない。
布団に入って何度も目を閉じてみたけれど、まぶたの裏に浮かぶのは……
ゼノラのあの眩しい光と──凌の金色の目だった。
『帰ってもいいし、来てもいい。ただ、来るなら早い方がいい』
あのときの声が、頭の奥に残っている。
天使や悪魔、異なる層の話。
夢を食べるという存在。
自分の“鍵”。
──そして、自分の正体。
もう戻ってこられないような気がした。
でも、それでも、まだ知りたいと思ってしまった。
布団から手を出して、枕元の鍵を手に取る。
冷たく、滑らかなそれが、確かに存在を主張している。
ぎゅっと胸の前で抱きしめた。
知らないままでいられたら、きっと楽だったのに。
けれど、凌が夢を食べてくれたとき。
あの時、私は、確かに“救われた”ような気がしてしまったのだ。
──だから。
静まり返った部屋の中。
亜月は、天井の暗がりを見つめながら、小さく息を吐いた。
手の中には、今日もらったばかりの鍵。
その温度が、胸の奥を揺らすようだった。
「……また、会いたいな」




