十七層 : 悪魔の裁判所.01
星層のひとつ──ウルネス。
かつて天使と悪魔が争い続けたこの層は、いまや明確に二分されている。
天空に浮かぶ島々に築かれた天使の領地と、
地上に広がる鬱蒼とした森と地下に根を張る悪魔の領地。
かつて終わりのない戦を続けていた彼らは、今は領土を分け、干渉を避けて暮らしている。
悪魔の社会は、法と秩序によって支配されていた。
個の自由は極端に制限され、守るべきは「規律」。
それを守る者には最低限の生活が保証されるが、外れれば容赦はない。
そして、この厳格な秩序を司るのが裁判所だった。
裁判所はこの地のあらゆる法を定め、執行する。
悪魔だけではなく、必要とあらば天使、妖精、妖怪、その他種族といった他層の異種族でさえも、この法の前では「一市民」として裁かれる。
その権威の頂点に立つのが、最高裁判官──ダーツである。
ダーツは今日も退屈そうだった。
埃ひとつない部屋の中は、見渡す限りすべてが黒で統一されている。
椅子も、チェストも、仕事用デスクも、カーテンまでも。
あらゆるものが漆黒に染められていた。
長く居座れば誰だって陰鬱になりそうな空間の中心。
堂々と据えられた執務椅子に、ダーツは座っている。
彼自身も、つま先から頭のてっぺんまで黒ずくめだった。
この部屋で唯一、黒でないのは彼のダークグリーンの瞳と、山のように積まれた書類だけだ。
今にも雪崩を起こしそうなその山は、今日も変わらない。
足をデスクに投げ出した姿勢で、彼は紙面の文字を惰性で追っている。
手にしていたのは不法入層者のリストと、それに関する対応報告書。
そこには、“また見つかった不正星層扉による抜け道”や、
“星層間管理局への追加要請が必要だ”などと書かれていた。
他にも、定期開催する食事会のメニューの内容確認まで──どうでもいい報告が、今日も山ほど届いている。
どこから手をつけるべきか、考えるのさえ億劫だ。
ふと、手元の書類を見つめながら、短くため息をついた。
「……毎日毎日、めんどうだなあ」
内容のほとんどが、“この王国からの脱走者”に関するものだった。
出ていきたいなら、勝手に出ていけばいい。
どうせ他の層に逃げても、いずれ後悔する。
今や複数の層にまで手を伸ばした裁判所の力を抜きにして、まともに生きていける時代じゃない。
だが、なぜ逃げたのか──
そこだけは、少し気になった。
かつて戦争の混乱期が長く続いた時、秩序を求めたのは悪魔たちの方だった。
それはダーツの思惑とはまた違うものだったが、目的は噛み合っていた。
だから余計に不思議だった。
こんなにも隙のない司法を整えてやったというのに、何が不満だというのか。
規則を守ってさえいれば、罰することなどない。
なのに、違反者のリストは、何百年経っても減る気配すらない。
彼はまた、視線を紙の上へ戻し──
うんざりしたように、それを机の端に滑らせた。
処理しても処理しても、無法者は減らない。
何年も前に、情けをかけるのをやめた。
すべて、根絶やしにすればいい。
繰り返される無為の応酬に、魂の底から嫌気が滲んだまま──もう何百年も、時が流れた。
片っ端から死罪や闇牢行きを言い渡すようになってから、一部では“死神裁判”などと揶揄されるようになったらしい。
──まったく、その通りだ。
なんの間違いもない。
何故なら、彼は“死神”なのだから。
とはいえ、彼自身が判決を下すことは滅多にない。
日々の裁判は、第二から第七までの下級裁判官たちが行うものだ。
彼の元に回ってくるのは、その判決に不服を申し立てた者たち。
──つまり、上告審だけ。
それ以外の時間、ダーツは山積みになった書類の山と格闘している。
機密文書の処理に始まり、各裁判官への仕事の振り分け、権力者への返答文。
その全てが、彼の“仕事”だった。
だが、書類仕事は昔から大の苦手だ。
集中できない。頭に入ってこない。
そして気づけば、目の前の紙束を適当に放って、大きく息を吐く。
息を吸い込むたび、紙の古びた香りが鼻を抜ける。
何百年も同じ匂いに囲まれてきた。
そして思う。「もう、このまま全部放り出してやろうか」と。
肘から先のない左腕の断面を、癖のようにぽりぽりと掻きながら。
そんなダーツの思考を、ノックの音が断ち切った。
姿勢を崩したまま、視線だけをゆっくりと扉へ向ける。
控えめな声が聞こえ、扉が静かに開いた。
中へ入ってきたのは、鮮やかな若葉色の髪に、神経質そうな眼鏡をかけた青年だった。
丁寧に仕立てられた漆黒のスーツを着こなす彼の姿は、まるで執事のよう。
初めて見る者なら、十中八九そう思うだろう。
だが──彼は執事などではない。
若くして裁判所の実務をほぼ一手に担う、第二裁判官。
ソルヴァンその人である。
「……どうしたソルヴァン」
無駄のない動きで入ってきたソルヴァンは、真っ直ぐに歩み寄り、ダーツの机の上を一瞥した。
午前中と同じ紙の山、同じ位置、同じ乱雑さ。
つまり、まったく仕事が進んでいないということだ。
その事実に触れる代わりに、ソルヴァンはひとつのファイルを机に置いた。
ページをめくったダーツの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……またか」
「はい。不法投棄された星層扉と、不正鍵の増加。ここ数ヶ月で急激に件数が増えています」
「管理局は何をしてるんだ?あいつらの管轄だろう」
「報告書によれば、“捜査範囲が広すぎて手が回らない”とのことです」
ダーツは深いため息をついた。
机に山積みになった書類のひとつを、無造作に蹴り飛ばす。
「またその言い訳か。……で、お前はどうしたい」
ソルヴァンは眼鏡の位置を直しながら、淡々と口を開く。
「まずは投棄された星層扉の回収と、不正鍵の流通経路を洗います。必要があれば、鍵鋳造に関わるフォールドラークへの調査も視野に」
「……戦争でも始める気か?」
「いいえ。あくまで“形式的な確認”です。表向きは、ね」
ふっと笑ったソルヴァンの口元を、ダーツが横目でにらんだ。
「……好きにしろ。ただし、派手にやるなよ。めんどくさいのは御免だ」
「承知しています。報告はまた追って」
ふと、崩れた紙束の中に埋もれるように置かれている何冊かの本を目にしたソルヴァン。
「これは……検閲対象の資料ですか?」
彼の手袋がそのうち一冊を手に取る。
「検閲係から回ってきた。判断に困るとかなんとか言われてな」
「…内容を見ても?」
「構わん。中身は読んだ奴によって変わるらしい。だから判断出来ねえんだとか。どこぞの妖怪や妖精が作ったまやかし玩具だろうよ」
青い皮の丁寧な装丁がされた一冊を開く。
真新しい新品の見た目のくせに、どこか潮の香りがする。
そこに綴られる文字を数行読んだ後、ソルヴァンは眉根を寄せて閉じてしまった。
「…くだらない。こんなものに判断を迷う検閲官の知能を疑いますね」
「他の小説紛いの物も一緒に処分してくれ」
「かしこまりました」
軽く頭を下げたソルヴァンが、数冊の本を抱え、静かに部屋を後にする。
彼の背を見送りながら、ダーツはつぶやいた。
「……調査、ね。こういうときは、嫌な方向に転がるもんだ」
長年に渡り、裁判所とフォールドラークの職人たちは対立的な立場にいた。
規律と秩序を重んじる裁判所に対し、フォールドラークの鍵職人たちは信仰の自由を尊重する。
この世界で鍵は必要不可欠だ。
だからこそ強く踏み込むことが出来ていなかったが…
「仕事だけは増やしてくれるなよ」
ダーツの怠惰な呻きは、誰にも届くことなく漆黒の壁に消えていった。




