十六層 : 異層へ.08
食事を終えて、三人は席を立つ。
会計の際に翔が覗き込もうとするのを押し出した凌は、すでに疲労の限界だった。
…はやく帰ろう。
最短距離でイデラ層への大扉に向かおうと、店の扉を開けた。
その瞬間、ほんの少し肌寒い夜風が頬を撫でた。
ヴァルカニア祭の喧騒はまだ遠くの通りで続いているのに、店の前は妙に静かだった。
その静けさの中、小さな光る植物の下に、ひとりの使用人風の男が待っていた。
黒の外套に身を包み、胸元には金のブローチが光る。
その背筋の伸びた佇まいは、一般人とは明らかに違って見えた。
「お探ししておりました、獏の山本凌様──。我が主が、ぜひあなたに夢を見てほしいと…」
「……」
「お時間を頂くことは出来ませんか……?」
恭しく腰を折る、どこかの富裕層の使用人。
凌は億劫に目を細め、小さく息を吐いた。
「……場所は?」
「乗り物をご用意しております。どうか、こちらへ」
視線を移すと、通りの端に控えた黒い馬車が見えた。
とはいえ、それを引くのは馬とは名ばかりの、金属製の幻想獣の像だった。
鷲のような顔と鹿の角を持つその像は、まるで今にも吠え出しそうな威圧感を放っている。
車輪は存在せず、車体の下に編まれた重力のウフが複雑に、けれど揺らぎなく、馬車全体をわずかに浮かせている。
この街の上層部の移動に使われる「セレヴィス・リグ」と呼ばれる特製の移動手段だった。
騒音も揺れもない、静寂と威厳を兼ね備えた富裕層専用の足だ。
それが堂々と待ち構えているだけでも、うんざりとした気持ちになる。
無言で頷いた凌は、ちらりと後ろを振り返った。
「……置いていくと面倒だから、お前らも着いてこい」
「でも……」
「ただ黙って後ろにいれば、それで大丈夫だ」
亜月と翔は顔を見合わせたが、すぐに後を追って歩き出す。
足音が石畳を鳴らし、三人は静かに馬車へと向かっていった。
リグ車のなかで、使用人は大きなカバンを開いてみせた。
そこには数え切れないほどの札束が並んでいる。
紙面には、蔦の絡まる大きな角を持つ牡鹿──クロイツェルが描かれていた。
見たことがない紙幣でも、その量の多さに亜月と翔が目を白黒させた。
けれど、凌は窓の外を見つめたまま、一瞥もせず。
「…視てから決める」
そう言って、無言を貫いていた。
案内された先には、中央都市屈指の豪邸が待ち構えていた。
白い石畳、装飾の施された門。
中庭には、手入れの行き届いた植物。
ゼノラ層の中でも上位に属する、旧家の富豪。
重厚な観音開きの玄関扉。
そこを抜けると、靴音が絨毯に吸い込まれた。
香のような香りが漂い、甘く重い空気が肺に絡む。
屋敷の中に入って、何より目を引いたのは、そこかしこに飾られる宝石のような造花の数々だった。
玄関から廊下、ちょっとしたテラスに至るまで。
飾れる場所という場所に、煌めく花が置かれている。
それを見た時、亜月は昼間に見た広場の噴水前を思い出していた。
あの時見た花は、透明だった。
けれどここの花々はみな、銀の茎と葉、そして色付きの花弁だ。
造形の細さや光の照り返しが、明らかに高級品だと物語っている。
光が乱反射する異様な眩しさが、そこにはあった。
「…あの花、あれはなに?」
前を歩く凌の羽織を、そっと掴む。
声を落として問いかけると、凌は亜月の視線の先を興味薄く見た。
「クロイツェルの足跡に咲くって言われる、宝石の花。レカン・フローラを模した造花」
「…あれ全部宝石なの?」
「さあ」
どうでもいいと言わんばかりに、彼は先を行く使用人の後を淡々と追う。
「噴水のところにも、透明なのあったけど…」
亜月の囁きに、凌はわずかに目を細めた。
目に映る牡丹や金木犀、月桂樹、百合といった、様々な花から目を逸らすように。
「…ゼノラ層の家にはほとんど飾ってある。価格は様々だけど。家運の繁栄、栄光──クロイツェルの加護にあやかる奴らは、特に、色付きを好む」
ウンザリしたような声だった。
さっきの札束の件といい、昔、お金持ちとなにか確執でも起こしたのかな。
そんなふうに思いつつ、亜月は彼の羽織を離した。
静かな書斎に通された三人は、そこで、ベッドに横たわる老いた当主と対面した。
病人なのか、老い先短いだけなのか。
枯れ枝のように腕も喉もやせ細った老人だったが、身につける家着は袖の先まで繊細な刺繍が施されている。
この部屋にもまた、睡蓮の花を模した造花が煌めいている。
眩さが睡眠の邪魔をしてもおかしくない程に、色鮮やかに枕元で存在を主張していた。
「やっと、お会いすることが出来ました……」
震える老齢の声。
凌は静かにその傍らに立ち、紅い目を伏せがちに当主を見つめた。
「…噂は本当だったのですね。あなたはあまり、イデラ層から出ていらっしゃらないので、この日を待ちわびて──」
「夢を食ってほしいんだろ」
老人の感動も、期待も、なにもかも価値がないと言わんばかりに、凌の声は平坦で、冷たかった。
当主の眉がピクリと動いた。
けれどそれを見せつけるほど、彼は愚かではなかった。
気を取り直すように、ひとつ咳払いする。
「……はい…私はもう、長くない。この魂の重みを、少しでも、削ぎたいのです」
「……」
「お願いします、どうか」
嘆願する老人の言葉を受けて、凌はかすかに息を吐く。
そしてゆっくりと、常に閉じられていた右のまぶたを開いてみせた。
左の紅い瞳に対して、右は──とても澄んだ金色をしている。
まるで、なにか別のものを”視て”いるように、彼の金の瞳が、老人の背後を捉えていた。
ざらりと、部屋の中にいた全員が、自分の背後に何かが立っているような感覚を覚えた。
冷たく暗い。
重くて鈍い。
確かな不快感。
けれど、見えない。
凌の影が揺れている気がする。
そこからなにかが覗いているようにも思える。
自分の影からも、見られている気がする。
亜月はそれが、彼の影の中に落ちたときと同じような感覚だと思い出していた。
きちんと地面に足が着いているだけ、まだマシかもしれない。
凌の金の目は、老人にまとわりつく”悪夢”を視ていた。
本来は眠っている時に見るものだ。
けれど、悪夢は魂の汚れに等しい。
魂に過去や恐怖という形でこびりつき、重さを与える。
──嫌な夢だ。
金の瞳が捉えた老人の汚れは、過去に見捨てた者たちの“目”だった。
奪い、欺き、切り捨ててきた者たちが、ただ静かに、年老いた背中をじっと見つめている。
その視線に当主は怯えていた。
“自分はこんなことをしてきたのか”
“なぜ今になって苦しむのか”
その問いを、全部自分で“気づいたふり”をして、今更になって懺悔しようとしている。
凌は、静かに吐き捨てる。
「……都合のいい後悔だな」
やがて不気味な感覚は、暗闇に電気が着いた時のように、ぱっと消え去った。
凌が右のまぶたを閉じている。
それが原因だと、亜月にはなんとなく察しがついた。
「悪いけど、あんたの夢は食いたくない」
さっさと踵を返した凌は、引き止められるより早く部屋を出ようとする。
しかし、扉を数人の使用人が押さえ、咳き込みながら老当主が体を起こした。
「な、なぜだ!私の魂を救ってくれ……!金なら、いくらでも出す!」
必死に縋る姿は、あまり見つめたいものではなかった。
亜月は遠慮がちに、凌を見る。
彼の肩にかかる緋色と翡翠色の羽織が、わずかに揺れた。
「……魂なんて、生きてりゃ重くなるのが普通だ。俺がその一部を食ったところで、あんたの魂は変わらない」
「しかし、裁判所の”魂の裁定”には響く…!」
「それこそ俺には関係ない。それに──俺は、食いたくない」
使用人を無視し、狼狽える亜月と翔の背を部屋の外へ押す。
唖然とする当主だったが、すぐさま怒りに拳をわななかせて叫んだ。
「後悔するぞ!貴様!他の獏もろとも、二度とこの地を踏めなくさせてやる!!」
唾を飛ばす怒声に対して、凌は冷ややかに答えた。
「探せるものなら探せばいい。どうせ誰も見つからない」
──バタン。
音を立てて扉を閉めると、凌は淡々と歩き出した。
豪奢な屋敷を歩いて出る。
来た時とは何もかもが変わってしまっていて、亜月と翔は腹の中に鉛の塊を落とされたような気持ちになった。
「……ねえ凌。良かったの?」
控えめな声で、翔が問いかける。
その目線はちらちらと後ろに向いていて、煌びやかな庭園や館を映していた。
「すごいお金だったじゃん?馬車で見せられたやつ」
「…それに、あの人必死だったよ…?」
無言で歩く凌に、思わず亜月も言葉を漏らす。
ヴァルカニア祭のランタンが遠くの通りに煌々と燃えていて、自分たちが歩く暗い道を進む足取りが、余計に重く感じた。
凌は前を向いたまま、少しの沈黙の後、おもむろに話し始めた。
「……金でなんでも買えるわけじゃないだろ」
「……それは、そうだけど…」
「俺だって、食えればなんでもいいわけじゃない」
壁から生える植物灯の光が、静かに揺れる。
少し広い通りに出たはずなのに、そこはすっかり灯りが落ちていて、足元を照らすわずかな月明かりしかなかった。
「ねえ、魂の裁定って…?」
前を歩く羽織に刺繍された家紋。
それを見つめながら翔が聞く。
すると、凌は観念したように、ぽつぽつ話し始めた。
「……悪夢は、魂につく汚れみたいなものだ。それを俺は食って、少しだけ魂を軽くしてやれる」
魂に重さがあることが、まるで当たり前と言わんばかりに、凌は言葉を続けた。
「悪魔の裁判所は、死ぬ時に魂の”重さ”を量る。”重さ”は”罪”と同じらしい。……だから、軽ければ軽いほど、死後は明るいってこと」
「……へえ…」
「でも──きっと本質は違う」
凌は歩みをとめた。
ジーンズのポケットに包帯だらけの両手を入れて、彼は頭上の月を見上げる。
「そんなことで救われるなら、もっと世の中の仕組みは簡単なはずだろ」
手首の黒い布が風で揺れる。
月光の下と暗闇。
そこに立つ凌の姿は儚げで、今にも消えてしまいそうに思えた。
「さっきのは──食いたくなかった。他人を踏み台にして私腹を肥やしたことを、死ぬ間際になってどうにかしようなんて、都合が良すぎる」
「……」
「死の先に何が待ってるかなんて知らない。でも、楽に死ねるために利用されるのは、まっぴらごめんだ」
ふと、亜月は歩きながら、胸の奥でひとつだけ思う。
──じゃあ、なんで、私の夢は食べてくれたんだろう……?
言葉にはしない。
けれどその問いが、亜月の中で、静かに灯っていた。
「……ここからは黙って歩け」
ゆっくりと、また進み始めた凌。
「……ディアナ・ホロの”沈黙”が始まる」
そう呟いた声に、亜月は目を瞬いた。
「なに、それ…?」
「”悼み月”は、今日から一ヶ月間の、主に夜の時間を指す。死者の魂が空を渡る、キング・ハーウェンの時間。日が沈んでるその間は、灯りを落として、言葉を飲み込み、沈黙を守るんだよ」
それに反するように、一本隣の通りに面した店先は、今まさにヴァルカニア祭の光が強くなる時間だった。
派手な灯り、音楽、声──
“沈黙”とは真逆の祝祭。
食事や、文化、種族による様々な歴史と違い。
たった一日でも、この街にはあらゆるものが詰まっていた。
けれど──
…共存って、難しい。
亜月は密かに言葉を飲み込んで、凌の背中を追いかけた。




