十五層 : 異層へ.07
神殿のような鍵屋を後にし、三人は再び街の喧騒へ戻っていく。
しかし、一歩踏み出した瞬間、凌がふと立ち止まった。
右の手のひらを空へ差し出す。
その手に、どこからともなく小さな蜘蛛が降りてくる。
……確か、家でも蜘蛛を指に乗せてた。
亜月はまた…というような目でそれを見たけれど、凌は特に説明もせず、目配せだけで済ませた。
「……さ、帰ろう」
「ええー、もう帰っちゃうの?せめてご飯食べてこうよ!」
翔の声に、亜月もなんとなく頷いた。
せっかく異世界…異層?に来たのだから、食事にも興味が尽きない。
日は傾いて、街を囲う高い壁が大きな影を落としている。
昼間にも嗅いだスパイスの香りが、まだ風に残っていた。
「…鍵作ったら帰るって言っただろ」
「お腹すいた!いつもお惣菜ばっかで飽きた!今日はここじゃなきゃ食べない!」
「……」
愚図る翔の声がよく通る。
通り抜ける数名が、彼の子供らしい反抗にくすくす笑う。
凌はあえて、分かりやすく長めのため息をついた。
「……食ったら帰る」
「やった!」
夕焼けに染まる街は、祭りの熱気を残したまま、少しずつ夜の装いへと移り変わっていた。
通りを彩るランタンは、空の明るさと混ざってまだ中途半端な色をしている。
角通りの喧騒を抜け、凌が進んだのは、表通りから細く枝分かれした路地の奥だった。
石畳の隙間に根を張った草。剥がれかけたポスター。
風に揺れる洗濯物──
大通りとは違って、観光客もほとんど通らないような場所だった。
「……ほんとにこっち?」
亜月が不安げに首をかしげる。
けれど、前を歩く凌は答えなかった。
なんとなく、心細くなって翔と手を繋ぐ。
人影が減っていく。
ランタンの火も遠ざかり、鍵屋の前とはまた別種の静寂がそこにはあった。
凌は一度も迷うことなく、角を曲がり、さらに奥の建物の前で足を止めた。
店の前には看板がひとつ。擦れた金属板に、文字が彫られている。
《フラン・ルー》
手書きの文字の下には「多層対応/誓約食あり」と控えめに添えられていた。
けれど、文字が読めないふたりは、揃って凌を見る。
「……ここ?知ってるお店?」
「…知り合いの話じゃ、料理は悪くない」
そう言って、凌は扉を開ける。
カラン、と鈴が鳴った。
中に広がるのは、十数席しかない小さなレストランだった。
照明はランタン風の明かりで、壁には古い絵画や装飾鍵が飾られている。
テーブルは木製で、中央には透明なガラスの器に小さな“光る種”が入れられ、控えめに灯っていた。
客はまばら。
壁際にひとり、淡い色の外套を着た青年が静かにスープを啜っている。
翔が嬉しそうに席へ走る。
亜月も後を追って腰を下ろすと、テーブルの上に置かれていたメニュー表を手に取った。
けれど、やっぱりそこに書かれている象形文字を読むことは出来なかった。
メニューをくるくると回しながら、翔が口を尖らせる。
「読めないよ…」
凌が一つため息をついた。
「そりゃそうだ。翻訳機は音だけ。文字は読めなくて当然だろ」
「…どこの文字?」
「出自文字。各層の古語だよ。読みたいなら勉強しろ」
「え〜……じゃあどうやって注文すれば…」
凌は仕方なさそうに、自分のメニューを指差した。
「…何でもいいだろ。お前ら、禁忌食ないんだから」
「禁忌食…?」
「種族によって食えないもんがある。だからメニューの端っこに“対応種”が書いてある」
そう言って、凌は適当に店員を呼んだ。
「こっちのテリーヌと、白根魚のハーブ煮。あと火層牛グリル」
翔がぱっと顔を明るくする。
「お肉?!」
「……好きな方食えばいい」
「亜月ちゃん、僕お肉がいい!」
「あ、うん。私お魚でいいよ」
注文を受けた店員が下がったあと。
翔が、手元のメニューをじっと見つめて、ぼそっと言った。
「…この“対応種”のマーク……これ、羽と輪っか。あとこっちは角っぽいのと翼。…ねえ、これ天使と悪魔じゃない?」
「……こっちは?妖精みたいなマークもあるよ」
亜月も覗き込んで、ふたりで眉をひそめた。
目の前に座る凌へこぞって目線を向けると、凌はめんどくさそうによそを向く。
「でも、それっぽい人、街中で見なかったけど…?」
「妖精はいたよね。ほら、背中に羽根あった」
「飛べなさそうなくらい、ちっちゃかったけど」と、トーンを落として翔が囁く。
ちらりと、亜月は窓際の客を見た。
その背に、噂の羽根が見えていた。
「言っただろ。長い年月が過ぎれば、見た目も揃うって」
街を歩く人々は、ほとんど人間と容姿が変わらなかったように思う。
一部の、薄い羽や、その髪色と瞳の鮮やかさを除けば。
だからこそ、亜月たちも堂々と歩けているのだけれど。
凌はメニューのマークを見下ろす。
「今の天使や悪魔には、翼も光輪も角もない。ずいぶん昔は──あったらしいけど」
「そうなの…?」
「見た目だけじゃない。固有能力……その種にしか使えない“力”があった」
凌の横顔には、特に感情の色は無かった。
ただ事実だけを並べているようで、でも、その言葉の奥にある“空虚”だけは、なぜかやけに重く感じた。
「今じゃただの記号だよ。皮肉なもんだ」
凌の声は淡々としていた。
……まるで、それ以上語ることすら意味がないというように。
翔も亜月も、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
ただ、目の前の男がどこか遠くを見ていることだけは、確かにわかった。
「……鍵を作ったら、私がなにかもわかるって言ってたよね?」
亜月が声のトーンを落とし、控えめに問いかけた。
凌は手元のグラスをじっと見つめたまま。
少しの間をあけて、徐に口を開く。
「…黒鉄製は、悪魔の印だ」
「……悪魔…」
それきり、凌はまぶたを閉じて沈黙してしまった。
亜月は無意識に、ポケットの中、手に入れたばかりの鍵に触れる。
ひんやりとした金属の冷たさが、そこにあった。
「ねえ、神獣の話を聞いた時に思ったんだけど……」
メニューに記されるマークを見つめながら、翔がふとこぼした。
「神様は?いないの?」
「…いない」
「天使とか悪魔はいるのに?」
「死神はいる。けど、“神はいない”」
その違いがわからず眉根を寄せる翔と亜月に、凌は軽く首を傾けた。
何かを思い出すように。
「いるって信じてる奴らはいる。まだ見つかってない層に、いるんじゃないかって」
「見つかってない層?あるの?」
「さあ。星が分かれてからずいぶん経つ。大扉がないから、それが証拠だと思うけど」
昼間見た四枚の大扉が脳裏に浮かんだ。
「今ある層は四つ。イデラ、ゼノラ、ウルネス、ノクタリス」
「…え?扉、四枚あったよ?」
「ウルネスは二箇所に繋がってる。天使領と、悪魔領に」
「昔は別の層だったから」と付け足し、凌は水を一口含んだ。
「神々が棲む層があるなら、そこは“シャングリラ”だって言い張る連中がいるらしい」
ぼそりと呟く凌の声が、空気に溶けるように消えていく。
けれどやけに耳に残ったその単語──
「シャングリラ…?」
思わず繰り返す亜月を、凌の紅い目が見た。
「理想郷って意味」
首を傾げる翔に、端的な説明だけを添える。
名前だけなのに、存在しなさそうな響きを持っていた。
御伽話のような。
それきり、凌は口を閉じた。
読めないメニューと睨めっこする翔と、店内を静かに見渡す亜月。
瞼を閉じたまま動かない凌。
三様に時間を過ごすテーブルに、再び店員が現れるのはそう時間がかからなかった。
翔の前に運ばれてきたのは、分厚くて真っ黒に焼かれた牛肉の塊。
香ばしい匂いと一緒に、スモークされたキノコや野菜。
それと硬めのパンが添えられている。
「わっ……か、かたい……?」
ナイフを入れようとした翔が、思わず顔をしかめた。
肉は中までしっかりと火が通っていて、ピンクどころか真っ茶色。
ウェルダンさえ通り越している。
「これ、焼きすぎじゃないの……?」
そうぼやいた翔に、凌が一瞥をくれる。
料理と共にテーブルに置かれた用紙。
それにサインを書き込みながら。
「……悪魔のプレートだからだろ。あいつらは赤が禁忌だから」
「え、赤い食べ物がだめなの?」
「食べ物どころか、色からダメだ。肉だけじゃなくて、林檎も、トマトも、赤ワインもダメ」
「えー、そんな……」
僕トマト好きなのに、と翔がぼやいた。
「…悪魔は秩序を守って長寿を望む種族だから、“血の色”を連想させるものは一切許されない」
「ふーん…でも、味はおいし……い、かも……?」
翔が必死に噛み切る横で、亜月は凌の手元を見て目を細めた。
手のひらサイズの羊皮紙のような紙質。
伝票ではなさそうだ。
掠れた銀のインクで書かれた、凌の右肩上がりの文字を指さす。
「それはなに?」
「契約書」
「…契約書?」
「悪魔のプレートには必ずつく。間違って赤いもん入ってても訴えないって誓う紙」
「……こわすぎ」
顔をしかめて、体ごと引く亜月。
彼女の前の銀のプレートには、ふっくらと蒸された白根魚が乗っている。
月桂樹が添えられ、柔らかな香草の香りに包まれていた。
メニューの印を見る限り、そちらはどうやら“天使用”らしい。
翔が火層牛に悪戦苦闘している最中、亜月がふと聞いた。
「ねえ、他の種族にもそういう“禁忌”ってあるの?」
「…ある」
凌はほとんど減っていない水を口に含みながら、ぽつりと返す。
目線は、揺れるグラスの水に向けられたまま。
「たとえば?」
「……天使は鳥を食わない」
「鳥?」
今まで味わったことのない味と柔らかさに驚きながら、亜月が首を傾げる。
凌はなんだかんだと手が止まらないふたりを、頬杖をつきながら呆れた眼差しで見た。
「かつて翼を持ってたから。翼を持つものを殺さない。“空を尊ぶ”信仰が根付いてる」
「へえ……」
翔が肉を噛みちぎりながら、興味深く頷いた。
亜月はまた、ふと気づいたように言う。
「……獏は?」
「──は?」
「凌、獏なんでしょ?獏は、食べれないものとかあるの?」
凌は、ほんの少しだけ視線を逸らし──
ゆっくり体を起こして、椅子の背にもたれた。
少しの沈黙の後、静かにつぶやく。
「……獏は、夢以外食わない」
空気が、少しだけ静かになった。
「……そうなんだ……」
亜月が気まずそうにフォークを動かし、翔は黙って肉を噛む。
その沈黙を破ったのは、翔だった。
「食べれないの?それとも、食べないだけなの?」
翔がフォークを止めて尋ねた。
凌は、ほんのわずかに目を伏せて答える。
「食べても味がしない」
「え?味がしない?」
「……紙食ってるようなもん」
翔が目を丸くする。
「それ、めっちゃ嫌じゃん……」
そして、亜月がぽつりと尋ねる。
「……獏って、みんなそうなの?」
凌はまぶたを閉じて、短く答えた。
「……知らない」
それだけだった。
それ以上の言葉も、感情も、彼の中からは出てこなかった。
ただ、彼の手元には水が少しだけ減ったグラスだけが置かれていることに、ふたりは気づいていながら、何も言わなかった。




