十四層 : 異層へ.06
前室の空気はまだ、儀式の余韻を手放していなかった。
天井から吊るされたランタンが、じわりと橙色の光を投げている。
誰も言葉を発さないまま、時間だけが静かに過ぎていく。
開け放たれたままの工房から、鉄を打つような、槌を叩く音が響く。
「……ねえ、凌の鍵──」
唐突に、亜月がぽつりと呟いた。
「ちょっと、見せてもらえる?」
凌は眉をわずかに動かした。
鍵は身分証──それより強く、個人を表わす。
無闇に他人に見せるようなものではなかった。
けれど凌は、そんな常識を告げるよりも、今は亜月が異層に馴染む方が先だと思い直した。
ポケットから鍵を取り出し、無言で手渡す。
使い込まれた金色が、ランタンの火に照らされて光る。
つまみの部分には、星々を背負う狼の意匠が浮かんでいた。
亜月がそっと触れると、金属とは思えないほど滑らかで、でもどこか冷たさは感じなかった。
「……これ、金なの?すごく綺麗だけど」
「そうだよ」
代わりに答えたのは翔だった。
「鍵の素材は、“種族”によって違うんだって。銀とか、黒鉄とか、金とか」
「へえ……凌はなんの種族なの?」
「…獏だよ」
「え?」
聞きなれない響きに、亜月が問い返す。
壁のレリーフを追っていた紅色の瞳が、ゆっくり亜月を見下ろした。
「──獏だよ」
静かに、けれどはっきりと、凌が答えた。
そしてまたふいと、凌は柱の方へ目線を向ける。
それ以上は聞くなと言われた気がして、亜月は手にもつ凌の鍵を見つめた。
ところどころ細かい傷や欠けがあるけれど、長い年月、大切に使われてきたのだろうと思わせる。
「……翔くんのは、黒だったっけ」
聞かれた翔は、待ってましたとばかりに自分の鍵を取り出した。
彼の鍵は黒いなにかの鉱石で作られていて、つまみには螺旋を描く二対の稲妻の意匠がある。
「デザインは全然違うんだね」
「“ラヴカ”っていう神獣らしいよ。創造と発想が象徴なんだって。かっこいいでしょ?」
「へえ…うん。翔くんっぽいかも」
昨日までは、翔が白衣を身につけていたのを思い出す。
ゴーグルも手放さないし、理科とか科学が好きなのかな…?
ふと、亜月が凌に目を向けた。
金の鍵、狼と星の文様。その意味を尋ねたかったけれど──
窓から差し込む光を浴びる凌の姿が儚く映って、結局、何も言わなかった。
けれど、それで十分だった。
この鍵を見たときに感じたもの──
それが、彼が誰に選ばれたか、なにを選んできたかを静かに物語っていた。
「……ねえ、ウフって、結局なんなの?」
今度は、亜月の声がもう少しだけ低く、慎重になる。
すぐさま翔が言葉を返した。
「エネルギー資源のことなんだってさ」
「資源なの?」
「でもただの燃料じゃないんだよ。それぞれ性質が違ってて、音のウフとか、重力のウフとか、炎とか、時間とか…人間でいう“個性”みたいなもの?かな?」
ふと、儀式の間で選んだ紫が脳裏に浮かぶ。
「……じゃあ、私の“個性”が音だってこと?」
首を傾げる亜月を、凌がちらりと見た。
そういえば、余韻に浸ってて、何を選んだか話してなかったかも。
けれど、凌は尋ねることはしてこなかった。
「…数ある中で、お前は“音”に近い感覚を持ってるってことだろ」
「……感覚…」
「そういうもんだよ」
凌は、深く考えないことが当たり前のように口にする。
「僕のは雷のウフだったよ!すごくない?ほら、ちょっと手がビリビリする感じがしてさ!」
「…そういうもんでもないけどな」
「え!何が違うの?」
「……」
不服そうな翔を、凌はめんどくさそうにあしらって、また壁へと視軸を投げる。
このふたりは、噛み合うようで噛み合わないなと、亜月が苦笑をこぼした。
「でもなんか、ただの石って感じじゃなかったよ。生きてる、みたいな…」
自分でも何を言っているのか分からない。
見た目はただの宝石のような石を、生きていると言われても困るだけだろう。
でも、凌も翔も、そんな彼女を否定しなかった。
翔が口を開こうとして──
しかし、思いのほか言葉が見つからない様子で、首をひねった。
しばらく黙っていた凌が、壁に寄りかかったまま代わりに答える。
「……偉い学者の話では、”竜の血の化石”だとか言ってた。ドラゴンが流した血が、地中で結晶になった──とか」
「へえ…化石ってことは、ドラゴンはもう居ないの?」
「…見たことはない。でも、地中深くに、そういうものが居るんじゃないかって、思う時はある」
淡々とした口ぶり。
でもその目はどこか遠くを見ていた。
──竜の血の化石。
そう言われると、確かに腑に落ちた気がした。
「でも今はただの“エネルギー”として使われてる。お前らで言う、科学の代替品」
「……」
「街の中で見ただろ」
そう言いながら、差し出してくる凌の手を見る。
丁寧に包帯が巻かれた彼の手のひらに、亜月はそっと鍵を返した。
──その時、奥の工房からかすかに響いていた音が、止まった。
静寂が、また深く降りてきた。
扉の向こうから、ゆっくりと職人のひとりが現れる。
分厚い革の手袋をしたその手のひらには、淡く揺らめく水泡が、まるで重力を無視するかのように浮かんでいる。
透明な球体の中には、まだ微かに蒸気を纏った一本の黒色の鍵。
水の中でゆるやかに回転しながら、冷却されているようだった。
職人は静かに片手を差し入れ、水面に触れる。
水泡がぷくりと割れることもなく、ただそっと──掌の中にその鍵を掬い上げるように取り出した。
「もう触っていい」
短くそう言って、亜月の前に差し出す。
光にかざすと、複雑に光る漆黒の鍵。
二種類の鉱石が混ざったような、不思議な煌めきを持っていた。
角度によって色が変わるそれは、まるで二つの魂が一本に繋がっているようだった。
つまみには、儀式の間で選んだ小石とおなじ、二重の輪が刻まれている。
凌は一方後ろから、それを静かにみつめていた。
──黒鉄製。
それが意味する種族を思い浮かべつつも、別の輝きが混じる意味に、わずかに紅い目を細めながら。
亜月は、指先でつまみに掘られた意匠をなぞった。
まだほんのり温もりを宿した鍵の中で、音が鳴っているような気がする。
小さな鉄片を爪の先で弾いたような、ピンとした、それでいて暖かみのある音。
それはたぶん、亜月にしか聴こえない、世界の最初の呼吸の音だった。




