百二層 : 紅茶の温度.06
ヴィタの空は、遠い“沈黙の時間”の気配を受けて、徐々に色を失いはじめていた。
静かな街、柔らかい影、淡い天球ランプの光の中で。
戦いの準備だけが、静かに始まろうとしていた。
リーテは立ち上がると、部屋の外に控えていた使用人に指示を飛ばした。
「支度をお願い」
それだけで、数人の使用人が音もなく動き出す。
黒と銀の礼服が、無言のままふたりに手渡された。
それは、ただの裁判所職員の制服ではなかった。
「……おくりびと用の服よ」
リーテが、淡く微笑みながら言った。
布地は黒。光を鈍く吸い込む深い、影の色。
そこに、ごく細い銀糸で、星や輪、夜を象徴する意匠が刺繍されている。
形は神官服に近かった。
肩から胸元へ、静かに重みを宿すライン。
そして、顔を覆うために添えられていたのは──
仮面ではなく、ただ一枚の黒いヴェール。
神獣ディアナ・ホロの“沈黙のヴェール”を模したものだった。
内側からはわずかに外が見えた。
だが、外からは、着用者の顔も、瞳も、輪郭すらも、まるで夜そのものに溶けたように隠される。
ユヴェは、礼服を手に取り、ふと眉を寄せた。
「……これ、体全部、隠すの?」
控えめな問いかけに、リーテは軽く頷いた。
「ええ。“おくりびと”は生者であって、生者ではないもの。姿を晒してはいけないの」
戸惑うユヴェは、上から被った礼服の袖をめくり、手首を見た。
自分の分厚い耐熱手袋が、影のような布の下から覗いている。
「……手袋とか……ない?」
小さく漏らすと、後ろに控えていたリリーが、一歩進み出る。
何も言わずに、黒い薄手の手袋を、そっと差し出した。
ユヴェは戸惑いながらそれを受け取り、布の下で隠すように指を通した。
リーテは流し目でそれをみていた。
けれど、慎重なまでに隠された彼女の指先を、見ることはできなかった。
ユヴェはわずかに眉を寄せた。
布が肌に沿うたび──まるで自分が静かに世界から切り離されていくような、不思議な感覚が胸を満たしたから。
一方、凌は無言のまま、礼服を肩に通す。
瞳の色を隠していた眼鏡をはずし、黒いヴェールを頭からかぶった。
その動きには、迷いも逡巡もなかった。
まるで、最初から「影」だったかのように、彼の姿は夜に溶け込む。
ユヴェが、黒いヴェールを持ち上げる手を躊躇させたのに気づいた凌が、低く声をかける。
「……ただの布だ」
その言葉に促され、ユヴェもそっとヴェールを被った。
纏った夜の隙間から、静かにゴーグルをはずし、ポケットへ仕舞い込む。
視界は微かに黒ずみ、周囲の世界が一枚の薄い膜越しに滲む。
その中で、確かに、ユヴェは自分の存在が希薄になっていくのを感じた。
生きているのに、“生きていないもの”として歩く準備。
「……」
沈黙は、もう彼らの一部になっていた。
誰も、もう軽口を叩かなかった。
そこにあるのはただ、死を見送り、死を運ぶ者たちの、無言の祈りに似た空気だけだった。
リーテは、椅子から静かに立ち上がり、ふたりを見渡した。
「──おくりびとには、いくつかの“歩き方”の作法があるわ」
その声は柔らかかったが、どこか裁定を下す者らしい重みがあった。
「まず、“音を立てない”。歩幅を整え、衣擦れの音さえも響かせないように」
ユヴェは思わず自分の靴を見下ろす。
分厚い絨毯の上で、無意識にすら小さな音を立てないように、と意識が尖った。
リーテは続ける。
「次に、“声を出さない”。一切の言葉も、咳払いも、許されない。ディアナ・ホロの使者である“おくりびと”は、全てにおいて“沈黙”を貫き通すことで、追悼の意を表す」
静かに、けれど抗いようのない規律。
「そして、“他の悪魔より頭を下げない”」
一瞬、ユヴェの顔に疑問が浮かぶ。
リーテはその空気を受け取り、ふわりと説明を重ねた。
「たとえ道を譲られ、軽い会釈をされても、あなたたちは応えない。礼を返すことは“生の交流”を意味してしまうから」
淡々とした声の奥に、どこか、深い死者への敬意が滲んでいた。
「……向こうが避け、目線を落とし、軽く頭を下げる。それに対して“おくりびと”はただ、静かに、まっすぐに歩くの」
リーテはユヴェのヴェールの先を指先で少しだけ持ち上げ、示すように言った。
「あなたたちは、“死を弔う者”なの。悪魔たちにとっては、あくまで縁起物。たとえば、イデラでは霊柩車を見かけたとき、親指を隠すらしいわね?」
リーテが凌を見て問いかける。
凌はかすかに頷きながら答えた。
「子供のおまじないみたいなもんだけどな」
「それと同じ。“こうしていたほうが、安心する” ──そんな曖昧な信仰に支えられた文化よ。だから、あなたたちは決して礼を返さず、ただ歩くことだけに集中して」
リーテは微笑みすら見せず、静かに締めくくった。
「ヨミの“おくりびと”たちは、これを徹底している」
「……」
「もし、違反すれば──あなたたちは、ただの侵入者に戻るわ」
室内に、重く冷たい静寂が落ちた。
ユヴェは無意識に、自分の被った黒いヴェールをそっと押さえた。
内側にいる自分だけが、微かに震える心臓の音を聞いていた。
凌もまた、ヴェールの奥で一瞬だけ目を閉じる。
深く、長く、呼吸を整えた。
そして、ふたりは視線を交わさぬまま、静かに歩き出す準備を整えた。
それは、もう“生者”の歩き方ではなかった。
ふと、ユヴェが凌に声をかけた。
「ねえ……」
凌はヴェールの奥から、静かに応える。
「……なに」
ユヴェは迷ったように視線を彷徨わせ、それから小さく、でもはっきりと問うた。
「……怖くない?」
その問いは、
“これから侵入すること”でも、
“戦うこと”でもなかった。
──自分が変わっていくこと。
──なにか、うちに宿る大切なものを、壊しているような。
その恐れに、触れるような声音だった。
凌は答えなかった。
ただ、ヴェールの下で、ゆっくりと瞳を閉じた。
怖くないわけがなかった。
でも、怖がる暇も、誰かにすがる余裕も──とうの昔に置いてきた。
だから。
「……大丈夫だ」
それだけ、低く、静かに言った。
けれど、音は優しさを孕んでいた。
わずかに微笑んだような、そんな気配がユヴェには伝わった。
「お前はなにより、生き残ることを優先しろよ」
「…うん」
「まずいと思ったら、なんでもいい。扉を繋げてどこかへ逃げろ」
声は静かだったが、控えてはいなかった。
蝙蝠に拾われることは承知の上で。
でも、釘を刺しておかないと──彼女はきっと無理をする。
ユヴェは少しだけ口元を引き結び、静かに頷く。
逃げていいって言われるのが、ほんの少し、苦しかった。
そして、ふたりは互いに、最後の視線を交わした。
やがて、リーテが軽く手を鳴らす。
「──出発の時間よ」
その声に促され、リリーとヨミがそれぞれ一歩前に出た。
リリーはユヴェの側に並び、ヨミは静かに凌の隣に立つ。
「剣を持つことが戦いの全てではないわ。上手くいくことを祈ってる」
扉が開く。
外の空気は、さっきよりもずっと冷たくなっていた。
“沈黙の時間”が近い。
樹冠に覆われた暗がりの世界は、他よりわずかに早く、静かに夜へ沈もうとしている。
それぞれのヴェールに、傾きかけたソルの柔らかな光がわずかに滲んだ。
二組は言葉を交わさず、ただ静かに──
裁定の塔へ向かうための、一歩を踏み出した。




