百一層 : 紅茶の温度.05
ユヴェが、小さく肩を震わせた。
彼女の視界には、凌の影。
形は変わらないのに、そこから異形の手が、脈打つように伸びかけているのが見えた。
──幻覚じゃない。
存在しないはずの悪夢が、現実の膜を破ろうとしている。
リーテもまた、紅茶のカップを置いたまま、わずかに指先を止めた。
リリーが彼女の前に出て、自らの鍵を構える。
しかし、凌本人は、微動だにしない。
怒声を上げることも、拳を叩きつけることもなく──
ただ、静かに、静かに、言葉を重ねる。
「……今さら“裁判所の膿”を出す?この世界がどれだけの血と屍を積み上げてきたと思ってんだ」
その声に、影がまた脈動する。
どこからともなく、見えない呻きが漏れ出ていた。
それが耳裏に、生暖かい息と共に、直接的吹きかけられている感覚。
ぞわりとした。
「獏だってそうだろ。……お前らの都合が悪けりゃ粛清して──残ったのは、俺ひとりだけだ」
静かな呪詛だった。
それに呼応するように、部屋中に“怨嗟の気配”が満ちていく。
ティーカップの中の紅茶さえ、わずかに震えた。
リリーの鍵がナイフに変わる。防御体制に入る。
でも眼鏡の奥では、かすかに怯えを宿す目をしていた。
部屋が一段暗くなる。
天井の惑星は点灯したままなのに。
どこか、薄暗い。
「生き残らせたわけじゃない──そんなこと、わかってる」
凌の拳を握る音が、皮膚の内側で小さく響く。
爪が包帯の手のひらに食い込んだ。
「あのとき、まだお前は裁判官じゃなかった。だから”秩序”なんて、無責任に語れるのか?今さら、“正しい社会を守る”ために?……でも、虫が良すぎるだろ」
「……」
「ユヴェの目を利用するのも同じだ。フォールドラークと裁判所の、利権争いの延長に、巻き込むな」
ユヴェが、飲み込むように呼吸をしていた。
耳元で、幻聴のように、誰かの断末魔が木霊する。
同じ声が、その場にいた全員に届いていた。
気温が一気に下がったような冷たい空気。
真冬の、山の上にいるような、凍える思いをする。
それでも、リーテは表情を崩さなかった。
静かに、あくまで冷徹に──
彼女は、低く返す。
「……それでも、あなたたちは、生きている」
どこにも慰めはなかった。
ただ、冷たく、現実だけが突きつけられる。
「そして、生きている限り──この世界に関わっている」
リーテの声が落ちた瞬間、影の表面が沸騰するように波立った。
室内の空気が抜けていくような、酸素が薄れる感覚。
視界が歪む。
ユヴェは思わず頭を押さえた。
凌は、微動だにしない。
まなざしも、声も、ただひたすらに──真っ直ぐだった。
けれど、心は揺れていた。
この悔しさを、怒りを、どこにぶつけるべきなのか。
「……この秩序にか?」
低い声だった。
その底には、抑えきれない怒りの熱が潜んでいた。
「魂の重さを量って、金に換算する世界?…… 重ければ罪人扱いして、遺族に支払いを命じる社会に?」
ギシギシと、天井を歩く音が鳴る。
ドンドンドンと、窓を誰かが叩く。
家鳴りがひどく、鼓膜に染み入ってくる。
「生きてる奴らに、”軽くあれ”って強制して……死んだ奴には、”重すぎた罰”を背負わせる……そんな腐った秩序社会に関わって生きて──何の意味がある」
「……」
「魂の重さが、通貨になる世界。……じゃあ、俺たちは、どれだけ軽くなりゃ救われるんだ?」
生臭い匂い。魚が死んだあとのような。
かと思えば、ひどく甘ったるい香水の香り。
目眩がするほど濃く、噎せ返るような空気。
ユヴェが、息を呑んだ。
もう──耐えられない。
「その秩序のために──ひとつの種を、根絶やしにしたのは……どこの、どいつだよ」
リーテは何も言わなかった。
ただ、静かに、すべてを受け止める者の顔をしていた。
長い沈黙の中、
ユヴェの手が、そっと凌の袖を引いた。
──もう、いい。
その小さな温もりを、凌は見なかった。
「……もうやめて」
消え入りそうな声だった。
ただ──はっとした。
その指先の震えに。声に。
そして、ゆっくりと、息を吐く。
ふくれあがりかけた悪夢たちも、それと呼応するように、じわりと引き下がった。
部屋に満ちかけた恐怖の幻影が、沈黙の海に溶けていく。
それでも、怒りの火種は、胸の底でくすぶり続けている。
影が揺れ、黒く、じっとりと床を染め続ける。
リーテは、やがて柔らかく微笑んだ。
まるで慈悲を施すかのように、しかしその実、鋭い刃を隠すように。
「……だから、私は、他でもない、あなたに交渉を持ちかけているのよ」
その声は、甘く、静かだった。
けれど、言葉の裏に潜むものは、ひどく冷たかった。
「闇牢の地下にあるものを暴けば──裁判所は、大きく揺れるでしょう。秩序の象徴を担うこの国の、喉元に、あなたは刃を添えることができる」
リーテは微笑みながら、静かに言い切った。
「私は、それをあなたなら、できると思っている」
その目には、一片の迷いもなかった。
誰でもない。
天使でも、悪魔でも、裁判官でもない。
ただ、その秩序の犠牲になった一個の存在──凌だからこそ。
……優しさじゃない。
計算だ。
救済じゃない。
利用だ。
凌は、そう悟っていた。
けれど──
重すぎるもんばっか、押し付けやがって。
ユヴェには、“槍が待ってる”と言われた。
そして今度、目の前の悪魔には、“裁判所を壊せる”と囁かれている。
そんな大層なもん、欲しかったわけじゃない。
ただ──誰かを失いたくなかっただけだ。
誰かを見捨てたくなかっただけだ。
自分を、肯定したかっただけだ。
それだけだったのに。
……どうせ俺は、もう犯罪者だ。
裁判所に背を向けた瞬間から、生き延びた獏の血を引く者として。
この世界で居場所なんか、最初からなかった。
なら、せめて。
腐った秩序を、ひとつでも多く、道連れにしてやることはできる。
その覚悟が、紅い瞳の奥に、静かに灯った。
──でも、誰にも言わなかった。
それを言葉にしたら、きっとまた誰かを傷つける気がしたから。
ただ、ほんのわずかに視線を落として、凌は深く、低く、静かに呟いた。
「……わかった」
その一言だけ。
闇の底で蠢いていた悪夢たちが、まるで主の意志に従うように、静かに沈黙した。
室内に、かすかに紅茶の香りが戻る。
だが、そこにいた誰もが知っていた。
──もう、誰ひとり、最初にこの部屋に入ったときのままじゃないことを。
リーテは、紅茶に静かに口をつけた。
あたかも、最初から予定されていた結果のように。
ユヴェも、リリーもしばらくの間、身じろぎひとつできなかった。
それぞれの心に、決して言葉にできない重石が落ちていた。
だが、確かに──
誰よりも、飲み込みたくなかった痛みを飲み込んだのは、この場にいる全員だった。




