百層 : 紅茶の温度.04
「悼む槍はダーツの執務室にあるわ」
淡々と告げたリーテの言葉に、ユヴェの表情がわずかに動いた。
聞き返す声は小さく、しかし確かだった。
「……最高裁判官の執務室?」
「ええ。槍に纏わり付く悪夢の力に耐えられる場所が、そこしかなかったの。今の槍は、触れることさえ難しい。だから、ただ壁に飾られているだけよ」
その説明の最中、リーテの目がほんのわずかだけ沈む。
苦味にも似た感情が、彼女の理知的な言葉の端に滲んでいた。
「でも──それだけ“近づけない”ってことでもある。最高裁判官の執務室は、裁定の塔の中でも最上層。裁判官ですら、自由に出入りできる場所じゃないわ」
リーテの視線が、真っ直ぐに凌へと向いた。
「だから、そちらにはヨミを同伴させる」
凌は眉をひそめた。
裁定の塔の地下にある闇牢と、反対に最上階にあるダーツの執務室。
悠長な時間はもちろんない。それはつまり──
「…二手に分かれろって言うのか?」
「ええ。そうよ」
リーテは相変わらず柔らかい口調だったが、その声の奥にある確信は崩れない。
「それはできない」
凌の言葉は、即断だった。
間の逡巡もない、明確な拒絶。
隣に座るユヴェを一瞬横目で見る。
彼女はだたの鍵職人だ。
戦闘に適していないことは明白だった。
この、何をどこまで読んでいるか分からない女──リーテの部下に、彼女を預けるわけにはいかない。
リーテは困ったように、ほんの少しだけ肩をすくめて見せた。
「……そう言うと思ったわ」
そして、手をひとつ、軽く振る。
それに呼応するように、部屋の奥の扉が静かに開いた。
姿を現したのは、先ほど退室していたはずのリリーだった。
冷たい影を宿したまま、ただ静かにその場に立つ彼女の眼差しには、怒りとも迷いともつかない色が揺れていた。
「リリーは元々、ここ第三で働いていたの。でも、長らく第六に出向して、ガットの補佐をしてもらっていた」
「……」
「今は第六解体に伴って、私のもとに戻ってきているけれど──心までは、まだ戻ってきていないみたいね?」
そう言って微笑むリーテの声には、どこか皮肉にも似た響きがあった。
リリーは何も言わない。
でもその目は、リーテの言葉を否定していなかった。
「……鍵職人さん。あなたには彼女を同行させるわ。戦闘能力も申し分ない。それに──私よりも、彼女のほうが“信用できる”んじゃないかしら?」
言葉の選び方が、あまりにも露骨だった。
まるで「ほら、選んでいいのよ」と言わんばかりに。
ユヴェはリリーの方を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
そして、凌はわずかに顔を顰める。
──これも最初から、“その判断”を出せるための布石だったな。
ガットの補佐官を、あえて目に触れる位置に残し、信頼を揺らがせ、
交渉の選択肢として“許容”させるために。
リーテは、表情ひとつ崩さないまま、紅茶の香りを纏って微笑んでいた。
ヴィタの空は、“沈黙の時間”の到来を予感させるように、少しずつその彩度を失いつつあった。
やがて、凌の腕時計が微かに震え、15時を告げる。
リーテは空になったカップの縁に指をなぞらせながら、変わらぬ穏やかさで座っていた。
けれど凌の目には、部屋に訪れた時とは全く別の姿に映っていた。
この短い時間で、リーテに対する評価が、眼差しが、まるで変わっている。
部屋の空気が、静かに沈んでいた。
ティーカップの温度も、すでに冷めきっている。
けれど誰も、その事実を口にしなかった。
リーテが口を開く。
「ダーツは執務室からほとんど出てこないわ。“悼み月”の沈黙の時間でさえ、ね。……でも、部屋の前を守っている官僚たちは違う。ハーウェンの時間が来れば、皆、塔を後にする」
ひとつ、ゆっくりとした間を置いて、彼女は淡々と続けた。
「塔の中はすべて、“影移動禁止区域”。歩いていくしかない」
凌の眉がわずかにひくついた。
その足取りを思い浮かべただけで、足の裏に重さが宿る気がする。
あの塔の中を、ただの“祈り人”のふりをして歩けっていうのか──
「……」
リーテの視線が、そんな彼の反応すら見透かしたように動いた。
「ヨミの部下のふりをして行くのよ。彼の存在を疑う者はまずいない。それに、葬送に携わる者は皆、沈黙の神獣のヴェールで顔を隠している。……黙って歩けば、誰もあなたの正体には気づかないはず」
「……」
凌は答えなかった。
静かに、まぶたを閉じている。
「あなたの特異な髪や瞳を見たら、さすがにばれてしまうかもね。……だから、追悼師のように、祈るように歩くのよ」
祈るように──
その言葉に、彼は皮肉気に目を細めた。
「……祈りなんて、したことはない」
「それでも、“そういう時間”は、誰にでも来るものよ」
リーテの声が、ほんの一瞬だけ、優しさの形をとった。
まるで、誰かの喪失を知る者にだけ向けられるような、静かな音色だった。
でも、それが余計に凌の神経を逆撫でした。
空っぽの優しさを、喉元に差し込まれるようで──むかついた。
沈黙の余韻が、また部屋を支配しかけたとき、リーテが再び口を開いた。
「闇牢の入り口の管理室には、沈黙の時間であっても、誰かひとりは詰めているはずよ。今は、ガットが地下にいるからもう少し多いかもね。でも、その程度なら……リリーが制圧できるわ」
「……持ってくるのは、研究資料だけでいいんだよね?」
ユヴェの問いかけは、どこか“自分の立場”を確認するような声音だった。
だが、リーテはぴたりと目線を合わせて、答える。
「ええ。証拠さえあれば、それで充分よ」
そして、ほんのわずか間を空けて──
「でも、あなたは必要なの」
その言葉が落ちた瞬間、ユヴェの背筋がわずかに揺れた。
「……どうして?私が行く必要はないんじゃない……?」
自分よりも、戦えるリリーのほうが適任ではないか。
当然の疑問が、思わず口をついて出る。
ぴくりとリリーが眉を動かした。
しかし、リーテの声色は変わらない。
「たしかに、リリーにお願いすれば、無傷かどうかはさておき、闇牢に潜って資料を取ってくることはできるでしょう。でも──私の目的は、それだけでは達成されない」
言い切るような口調だった。
そこで、沈黙していた凌が、視線を伏せたまま口を開く。
「……第三者にやらせたいんだろ」
凌の声は、少し苛立ちが滲んでいた。
「話が早くて助かるわ」
リーテはふっと笑みを浮かべる。
「ユヴェが中に入って、たとえ何も“しなくても” ──そこに“いた”という事実が重要になる」
「……」
「見たもの、感じたこと……世間が信じるのは裁判所の内部告発じゃない。“誰でもない第三の声”だ」
凌の声は淡々と、揺らぎがなかった。
あくまで静かに、しかし冷たく、核心を突いていた。
ユヴェは戸惑ったように、眉を寄せる。
「……ただ、それだけのために?」
「“目撃者”というのはね、真実を照らすための最後の希望なの。私たち当事者が何を叫んでも、ただの内部抗争にしか見えない。けれど──あなたは違う」
ユヴェは返す言葉を持たなかった。
「特にあなたはフォールドラーク。裁判所との関係を鑑みても、その重みは、誰の声よりも響くはずよ」
リーテの声が、すっと部屋を満たした。
それは理知でも情でもなく、“確信”という名の仮面だった。
ユヴェは目を伏せたまま、小さく息を吐いた。
そして、再び顔を上げる。
その瞳の奥に、わずかだが、覚悟のような光が灯っていた。
凌は視線を伏せ、唇を噛んだ。
ふっと深く息を吐き、静かに口を開く。
「……資料だけでいいんだろ。だったら──」
顔を上げる。
まなざしが、今度は真正面からリーテを射抜く。
「俺だけでいい。ユヴェには、関わらせない」
静かな、しかし確かな意志を孕んだ声だった。
リーテは、ゆっくりと首を傾げた。
紅茶のカップを指先で転がすように撫でながら、静かに告げる。
「そうね、たしかにあなたは裁判所関係者ではないわ」
カップがカチリと皿に当たる。
凌の眉がわずかに動く。
だがリーテは、さらに言葉を重ねる。
「けれど──」
ふわりと微笑む。
「あなたたちは、悼む槍も欲しいのでしょう?」
静かに、確信を突く声だった。
凌は、何も言わなかった。
その沈黙を、肯定と見做して、リーテは続ける。
「どちらも、ひとりでできるのなら、やればいい」
その声色は、酷く優しく、そして酷く冷たかった。
「でも、あなたは一度、失敗している」
その一言に、ユヴェが小さく息を呑んだ。
「──和親亜月を助けたとき、あなたは、“槍”を取り戻せなかった」
静寂が、部屋を満たす。
「あなたが無力だったからじゃないわ。……ただ、世界は、正しさだけで動かない。力と、証明と、そして時には“運”が必要なの」
リーテは、そっと紅茶に口をつけた。
まるで、ただ穏やかに天気の話でもしているかのように。
「私が欲しいのは、“確かな証明”よ。第三者の、穢れなき目で見たという、その事実」
「…それがユヴェなら、余計な火種になるだろ」
ユヴェが裁定の塔の闇を暴いたとなれば──
確実に、裁判所とフォールドラークのギリギリの均衡を崩すきっかけになる。
「でも、栄光を手に彼女は種族へ顔向けできるわ」
ユヴェは黙っていた。
リーテの言葉が突き刺さるほど、図星だったからだ。
そして、凌もまた、唇をかすかに歪めた。
拳を握り──しかし何も言えなかった。
“分かっている”。
どんなに交渉を重ねても、ここは折れない。
リーテは最初から、絶対に譲らない地点に、彼らを追い込んでいた。
一瞬の静寂が落ちた、
次の瞬間だった。
「──ふざけんなよ」
低く、凍った声。
空気が、きしんだ。
その場に座ったままの凌の影──
その輪郭が、じわじわと滲み、空間へ広がり始める。
黒い液体のように床を這い、誰の足元にも届かんばかりに、無差別に。
その影の波に、ユヴェは声を失い、リーテは紅茶に手を伸ばすのをやめた。
リリーは咄嗟に腰を落とし、自分の鍵へと手を伸ばす。
この部屋にいる誰もが、それ以上、言葉を発せなかった。




