十層 : 異層へ.02
そこそこの長さの階段の先。
さっきくぐった星層扉とは比べものにならない──巨大な扉が現れた。
それは、一見するとただの石造りの“壁”だった。
けれど、見上げる首が痛くなるほど高く、
何もない“夜”の空間に、不自然なほど静かにそびえている。
扉の表面には、何かの装飾が刻まれていた。
しかし、あまりに近くて、全体像は分からない。
それでも、ひと目で分かる。
この扉がただの“出入り口”ではないこと。
──重厚で、荘厳だった。
階段を降りきる前に、凌がポケットから小さなケースを取り出した。
翔と亜月にひとつずつ、耳飾りのようなものを渡す。
小ぶりだが、その中心には宝石のような石の輝きがある。
「翻訳機。精度はそこそこだけど、ないと会話にならないだろ」
翔が嬉しそうに耳につける一方で、亜月は首をかしげた。
「イヤリング…? え、てか翻訳機…?」
「このゼノラ層じゃ、言葉の違いが常識だ。お前らが話す言葉も、変えてくれる」
「これ付けるの久々!」
翔の翻訳機は、耳に引っ掛けるイヤホンのような形をしていた。
色んな種類があるみたい。
けれど、真ん中に埋め込まれてる石の輝きは同じだ。
アメジストのような、薄紫の小石。
「音のウフが埋め込まれてる」
不思議そうに石をつつく亜月を見て、凌がさらりと言葉を足す。
……また知らない言葉が出てきた。
そう思いつつも、はやく扉の先をみたい気持ちが勝って、質問が喉の奥へ引っ込む。
翻訳機を耳に装着すると、耳の奥が一瞬だけ温かくなり、音がじわっと染み込む感覚がした。
それは「異邦人」としての印でもあり、同時に新しい世界への扉だった。
「世界の境界線」であることを示すかのように、徐々に近づくにつれ、
扉の向こうから、かすかに喧騒が聞こえるようになる。
よく見ると、空気が水面のように揺らいでいる。
扉の先は陽光に包まれていて、白々しく、眩い。
その水面に触れた一瞬だけ、「現実」と「異世界」が交錯する感覚に陥る。
まるで、ひとつの世界がもうひとつの世界に溶け込むような。
目を細めながらも進み続けると、ふいに、外の風を肌に受けた。
扉の厚み分を抜けたのだ。
──途端に、がやがやと話し声や生活音が耳に飛び込んでくる。
まぶしさに目を瞬かせながらも、一生懸命辺りを見渡した。
色彩が一気に変わった。
湿度や温度、音の響き方までもが、先程とは全く違う。
まるで別の重力の中に入ったような、不思議な軽やかさを覚えた。
亜月はこの瞬間、初めて「自分は異世界に来た」と実感した。
今朝まで存在を疑っていた空間が、今、確かに目の前に広がっている。
潜ったばかりの大扉の前には、人だかりができて行商人が大声を上げている。
建物は石造りやレンガ造りが多く、どこか歴史を感じるデザインだった。
古びた石のアーチに、剥げかけた金色の牡鹿が飾られている。
煙突がどこの建物にもあるようで、青空と真っ黒の煙のコントラストがよく映えた。
石畳が建物の間を縫うように敷かれ、綺麗な曲線を描く橋が、川の存在を知らせた。
建物の壁には根を張った百合の花のようなものがあり、花びらが発光することで灯りを提供している。
一見するとクラシックな街頭もあったが、芯がなく炎が浮いているだけ。
エネルギーは電気ではないのか、電線は街のどこにも見当たらない。
道路はそれなりに舗装されているが、時折、地面にラインが光る。
どうやら浮遊車が走るためのエネルギーが埋め込まれているようだった。
他にも、街の中心に立つ大きな時計塔が見えた。
何かの大聖堂か、あるいは庁舎のような趣きがある。
塔のてっぺん──時計塔の上には、大きな鐘がひとつと、その下に小さな鐘が複数個、サイズ違いで綺麗に並んでいる。
けれどその文字盤には、針がない。
代わりに、空気の振動で時間を知らせる仕組みになっているようだった。
丁度十時の鐘が鳴り、それに共鳴して、壁の文字盤が浮かび上がっていくのを間近で見た。
まるで、街そのものがこの塔の時を基準に生きているかのようだった。
「これ、音で時間が分かるの?」
「おもしろ!僕の部屋にも一個欲しい!」
「…はぐれるなよ」
街角や建物の壁から、直接音楽が聞こえてくる。
軽快なリズムはなにかの祭を思わせ、石材自体が音を振動させているようだ。
頭上には空中を滑るように動く、トラムのような乗り物がある。
風を制御しながらゆっくり移動しているせいか、風の流れが切り替わるたびに停車する。
──そこは、想像していた通りの異世界だった。
街を行く人々も、そのほとんどは色鮮やかな髪や瞳の色をしている。
今しがた通り過ぎた商人たちも、自然界にない色の髪色をしていた。
それなのに、それが当たり前のように、面立ちと溶け合っている。
いっそ、自分の平凡な茶髪の方が、浮いているような気さえした。
目の前を横切る人の背に、羽があった。
けれど、それは飛ぶには小さすぎる。
剥がれかけた硝子細工のようで、儚く光を反射している。
服の背中が大胆に開いていて、あえてそれを“見せている”と気づいたとき、亜月はなぜか少し息を呑んだ。
一方で、そのすぐ横を歩く別の男は、肌の色も衣装も、太陽そのもののようだった。
肩を広げて歩き、まっすぐ空を見ている。
透明なマスクのようなものが口元を覆い、そこから微かに風が漏れていた。
何のためにしているのかは分からない。
でもそれが“彼らにとって必要なもの”だと、直感的に分かるような、不思議な存在感があった。
道の端を静かにすれ違う女は、全身黒衣を纏い、視線を地面へ落としている。
服の裾には小さな輪っかの模様。
銀糸の刺繍が、一瞬星の軌道に見えた。
その顔色は驚くほど白く、祈るように胸に手を当てて、重たい足取りで歩いていく。
共通しているのは、その多くが手首に金属の環のような、ブレスレットを付けている事だった。
ただ、付けていない人もいる。
その法則性は、全く分からない。
……どれも、色や形は微妙に異なっていて、
重そうな金の輪を誇らしげに見せている人もいれば、
黒ずんだ金属を布の下に隠すように歩いている人もいた。
色、音、肌触り、空気の重さ──
すべてが、知ってる世界と違う。
けれど、それらが奇跡的に調和して、目の前に“都市”を形作っている。
「……夢、じゃないよね…」
思わず頬をつねりながら呟いた亜月の声は、誰にも届かない。
けれど、それで良かった。
届かないことで、少しだけ安心した。
そして、これらの街並みを一周ぐるっと囲むように、とても高い壁が見えた。
かつて、この街が要塞として機能していた名残のように。
その壁の円周上に造られているのは、かなり遠くにあるはずなのに、しっかり装飾まで見える巨大な扉。
──全部で、四枚。
少し歩を進め、視線をぐるりと回した時、
今しがた自分が出てきたのが、そのうちの一枚だと気づいた。
星と狼。波模様。光輪。──そして、今通ってきた植物と牡鹿。
あまりに大きな扉なので、その扉に扉が造られており、まるでマトリョーシカのようだと思った。
「すごい……」
亜月は思わず、ため息とともに感嘆の声を上げた。
観光地に来た時のような感覚と、夢の中にいるような違和感が同時に襲ってくる。
──とはいえ、すべてが華やかというわけでもないようだった。
陽気な音楽の流れる広場のすぐ脇で、ひと群れの集団がプラカードを掲げている。
「ウフの独占をやめろ!」
「星層扉の使用料を下げろ!」
そんな言葉が聞こえる。
銀行の前だろうか。
整った身なりの警備員が、静かに柵を張って制止していた。
……こういうところは、ある意味で、ここもまた現実なのだと突きつけてくる。
「…こんな世界が本当に存在するなんて、今朝の自分に教えてあげたい」
「ねえ凌!あれなに?!あの浮いてるやつ!」
「……行くぞ」
きょろきょろと辺りを見回す亜月と、興奮状態の翔。
そんなふたりを無視して、凌は歩き続けた。
「凌、あれなんて書いてあるの?」
「角通り」
看板に書かれた文字を翔が指さす。
見たことがあるようでない、象形文字に近しいものが刻まれた、緑の看板。
この街の大通りらしい。
そこを歩いていくと、街の中心だろう開けた場所に、これまた大きな木が植えられているのが見えた。
「あれ、林檎の木?なんで?」
「…知らない」
本当に林檎なのかも定かじゃない。
でも、大樹の枝には赤々とした実がなっている。
何百何千年とそこに佇んでいたような荘厳さが伝わるほど、その木は大きく枝を広げていた。
木の根元には、大きな噴水が寄り添うようにあって、その台座には、牡鹿が蔦を絡ませながら跳ねる姿が彫られている。
石像の角の先に水が滴り、水の粒が陽光を受けて揺れていた。
広場は、光るランタンや炎を模した装飾で彩られていた。
そういえば、街灯や光る植物がある割に、あちこちにランタンが飾られている。
ほかにも、林檎の木を取り巻くように、宙に浮く火の蝶や、
燃えながらも消えない光の帯が町の上を舞っている。
炎を操る大道芸人たち。
そのまわりで、人々は踊り、笑い、熱気に包まれていた。
露店も数々並んでおり、そこには、炎の形をした菓子や、牡鹿の角を模したパン。
スパイスの効いた飲み物が並んでいる。
店主とやり取りする客を見ていると、当然といえば当然だが、貨幣も異なるらしい。
市場でやりとりされる硬貨の裏にも、大きな扉と同じ、陽光や狼の姿が浮かんでいた。
嗅いだことがない、すこし刺激と甘みのある匂いにつられて、亜月は足を止めた。
「…ずいぶん賑やかだけど、お祭りかなにかなの?」
「そういや前来た時よりランタンが多いかも? 出店、前はこんなになかったよね?」
灯り祭りのようなものなのかな…?
祭りを楽しむ市民たちも、ランタンを片手にする者が多い。
それを見た凌は、思い出したようにポケットからなにかを取り出した。
「……これ、手首に巻いとけ」
「え? なんで?」
渡されたのは、ハンカチサイズの黒い布。
不思議に思いながらも、差し出されたそれを素直に受け取る。
「ちょうど今日から、ヴァルカニア祭が始まった。祭りの間はランタンが増えるし、出店も出る。……でも俺らは“モーン・ムーン”だから、あんまり騒ぐなよ」
「モーン・ムーン?」
ゼノラに入ってからずっとはしゃいでいた翔が、その単語をきっかけに、少し落ち着きを取り戻したのが気になった。
凌はひとりで器用に自分の手首に巻いて、どこか冷めた目で祭りの喧騒を見やる。
「凌、前に教えてくれたよね。たしか…死者を弔う期間、だったっけ?」
「そう」
「…死者を弔う期間なのに、こんなにお祭り騒ぎしてるの?」
それに、周りの人々の手首には黒い布は見当たらない。
むしろ橙や赤など、炎を連想させる色合いのものを身につけているように思える。
お互いに手首へ黒い布を結びつけながら、翔は亜月にそっと耳打ちする。
「でも……お祭りも、楽しそうだよね」
翔の囁きが聞こえたのか、聞こえなかったのか。
凌は何も言わず、また静かに歩き出す。
お祭り騒ぎとは無縁と言わんばかりに、淡々とした足取りで。
「……ずっと昔、ふたつの種族間で、大きな戦争があったんだよ」
鮮やかな炎が踊るのを静かに見つめながら、凌がつぶやくように言う。
「その一ヶ月の戦争を、それぞれの種族が、戦争の英雄を讃えるために使ったり、死者を悼む期間だと捉えたりした。だから、悼み月もヴァルカニア祭も、時期が同じなんだよ」
包帯が巻かれた凌の指が、手首の黒い布を滑る。
亜月はそれを見ながら、控えめに声をかけた。
「……それで、この手首の黒い布は?」
「この布は、死者を偲ぶために巻く。黒は沈黙。沈黙の象徴は神獣ディアナ・ホロ。そのヴェールの代わりだ」
彼の紅い視線が、自分の手首に一瞬落ちた。
「…ゼノラは守銭奴の集まりだから。儲かるヴァルカニア祭を優先する」
炎を背にするその声は、少しだけ過去が滲むようだった。
「俺が生まれた場所じゃ、ヴァルカニア祭より、こっちのが大事だった」
そう告げたあと、凌はほんの一瞬だけ、目を細めた。
何かを思い出そうとするかのように。
それ以上、踏み込んではいけない気がした。
翔も亜月も、自然と口をつぐむ。
どうやら、ただ楽しいだけの異世界ではないらしい。
今しがたすれ違った誰かが、彼女の手首をちらりと見て──ほんの少しだけ眉をしかめた。
その視線に気づいた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
たったそれだけのことで、この世界の「常識」が自分のものではないことを思い知らされた気がした。
短い沈黙が落ちたあと、ふと、亜月が声を上げる。
「ねえ、あの角のある鹿みたいな像って──」
指さす像の下には、何かの透明な素材でできた造花が数本、並べられていた。
木漏れ日を受けて、ガラス細工のように煌めいている。
凌はそれに視線を軽く向ける。
「……神獣クロイツェル。名誉と富、過去の象徴。金や記録、勲章や遺物は全部、クロイツェルの加護を受ける」
「…神獣…?」
さっきも沈黙の神獣がどうたらって…
亜月がぼんやりと像を見上げる。
その角は空へ伸び、どこか誇らしげに跳ねていた。
「この層は、クロイツェルの信仰が根付いてる。街のあちこちに、あいつの角が紋章になってるよ」
翔が見上げた先、時計塔の一番大きな鐘の意匠も、どこか鹿の角のような曲線を描いていた。
「神獣って、神様みたいなものってこと?」
「まあ…人類で言えば似てるかもな」
凌は軽く肩をすくめた。
「ただ、神と違って、確かに存在してる。見えないのが多いけど」
「見えないのに、いるの?」
哲学的な答えに振り返る。
凌は空の先を見るようにして立っていた。
「──いるよ。はるか昔から、姿を変えずにそこにいる」
「……」
「お前らで言う神様ってより、“原理”に近いのかもな。名誉とか、死とか。いつの時代も、なくならないだろ」
「…ふーん」
亜月はそれ以上聞かなかった。
それ以上聞いたら、何かが変わってしまいそうな気がして、聞けなかった。




