一層 : 始まりの金木犀
これは「神話」でも「英雄譚」でもない。
この物語は──
“変わろうとするすべての存在への讃歌”だ。
これは”すぐ分かる”話じゃない。
でも、嚙み砕かれて、消化されて──
それでも進んでくれた「あなた」に、ともる灯がある。
……読む人を選ぶ物語です。
でも、選んでくれたあなたの胸には、
きっと、小さな光が残りますように。
「死者を忘れるな。しかし、死に囚われるな」
──神獣 キング・ハーウェン
まっすぐ伸びる国道から外れて、住宅街へ。
そう遠くない場所に、真新しい黄色い壁の建物がある。
柵もパステルカラーで塗装されているはずだったが、秋の夕陽が、すべてを柿色に染めていた。
可愛らしい色合いの柵で四方を囲まれたその建物は──いわゆる、児童養護施設だった。
別名、“こどもの家”。
私立小学校のすぐそば、小さな敷地に寄り添うように建っている。
こどもの家の創立者であり、責任者であるシスターは、生まれ故郷をアメリカに持つテレサ・クリストン、六十二歳。
両親が、マザー・テレサのような慈悲深い人になってほしいと願って名付けた、と。
彼女はいつも、しわくちゃな顔を綻ばせて、子供たちにその話をしていた。
そして、まるでそれが天命であるかのように、日々子供たちへ、惜しみない愛情を注いでいる。
せわしなく働くシスターを、静かに見つめる一つの視線があった。
優しい色合いの柵の外。
金木犀の影に紛れるように──
何の色も浮かばない、
感情を読み取りにくい眼差しの男がひとり、立っている。
そろそろ夕食の時間なのか、子供たちは、屋内へと入っていく。
簡素な遊具だけが、夕陽の中に取り残されたまま。
ひとり、またひとりと、決して広くない庭から、姿を消していく。
取り残されたブランコが、まるで過去の思い出のように、静かに揺れていた。
男は、金木犀の甘い香りを、深く吸い込んだ。
慎重に。
──緊張を悟られないように。
それでも、指先が微かに震えているのを、彼自身は知っていた。
門扉の向こうで、シスターが彼に気づく。
見知らぬ男を前に、訝しげな視線を向ける。
男は、その視線に耐えきれず、つい、目を逸らした。
「……あの、用があるのなら、中へ入って暖かいお飲物でもいかがかしら」
──違う。
そんなことを言わせたくて、ここに来たわけじゃない。
「……あんたを探してた」
男の声は、風に溶けるように響いた。
シスターは首を傾げる。
“児童養護施設“を探していたのではなく、“彼女“を探していた。
それが、どういうことなのか分からない、という顔だった。
「どこかでお会いした事があったかしら?」
「いや……」
一瞬、喉が詰まる。
言葉を探すように、視線を彷徨わせた。
男は赤ん坊を抱き直した。
一瞬だけ、手の中の温もりを確かめるように。
その小さな指が、自分の服を掴んでいるのを見て、男の喉が鳴った。
「…適任だと思って、一方的にあんたを探してた。……こいつを預かってほしい」
彼の腕の中から、赤ん坊が手渡される。
シスターは、思わず身を乗り出すようにして受け取った。
赤ん坊の、淡い栗色の薄い髪が、夕陽を受けてふわりと光っていた。
「親はいない。これ以降様子見には来ないけど、資金は払う」
男はジーンズのポケットにつっこんでいた分厚い札束二つ。
それとカードと通帳──暗証番号の書かれたメモ用紙まで。
両手の塞がったテレサに、それらを無理やり押しつけた。
「増えるばかりの子供の養育費に悩んでたんだろ」
「まあ、知っていたの?」
シスターの穏やかな青い目が見開かれる。
「言っただろ、あんたを探してたって。……そいつを預ける先のことは、ちゃんと調べてる」
「……そこまでするのに。どうして、もう来ないなんて言うの?」
彼は答えない。
シスターの視線に耐えきれず、男は一瞬だけ口を開きかけた。
けれど、何も言葉にならないまま喉仏だけが上下する。
たとえ逆光に隠されていても、彼女にはそれが見えた。
「──あんたには関係ない」
夕陽が沈み、夜が忍び寄る。
シスターは、赤ん坊の頬に触れながら、目を細めた。
こんな形で子供を託されたことは、これまで一度もなかった。
この子には、何か特別な意味がある気がする。
テレサは風が肌寒くなってきていることに気が付いた。
不思議なほど熟睡している赤ん坊。
その顔にかかる毛布を優しくどけてやる。
ふと、赤ん坊のおくるみの上に重ねられた通帳の名義が目に入った。
辺りは夕方から夜へと表情を変え始めており、男の姿はもうなかった。
──この子は、何を背負って生まれてきたのだろう?