第八話 万年筆(学生時代)
卒業が目前に迫り、学園の空気はどこか浮ついていた。
新しい未来を迎える期待と、ここを去る寂しさが入り混じった独特の雰囲気。
シリウス・アストラは、その中で静かに歩いていた。
手元の書類には、卒業課題として制作された魔法具の一覧が記されている。
──その中に、彼女の名前を見つけた。
エステル・フォン・リヴィエール
彼女が作ったのは、エメラルドの宝石が嵌め込まれた万年筆。
(……彼女らしい)
実用的で、洗練されていて、何より知性を感じさせる。
それに──その宝石の色は、彼女の瞳と同じだった。
彼女は誰にそれを渡すつもりだったのか。
いや、考えるまでもない。
彼女には婚約者がいるのだから、その相手に贈るつもりだったのだろう。
だが、次の瞬間、書類の横に添えられた注釈が目に入った。
──”学年成績上位五名の作品は、学園に保管される”
……つまり、彼女の魔法具も学園に残るのか。
意図したものなのか、そうでないのかは分からない。
だが、それでも。
(……誰の手にも渡らないのなら、それでいい)
そう思うしかなかった。
⸻
卒業課題を与えられたとき、シリウスは迷わずロケットペンダントを作ることを決めた。
銀細工を施し、中に紫水晶を嵌め込んだ、控えめな作りのペンダント。
そこに込めたのは──**「願い」**だった。
(……この学園で過ごした時間が、どうか永遠に続けばよかったのに)
そんな叶うはずのない、無意味な願いを。
学園生活が続く限り、彼はエステルを遠くからでも見つめることができた。
たとえ言葉を交わさなくとも、すぐそばに彼女がいるという事実だけで満たされていた。
だが、卒業すれば、それも終わる。
彼女はメガロポリス国へ、自分はアストラ王国へ。
二度と交わることのない道を歩んでいく。
だから、せめて。
──学園での記憶を閉じ込めたかった。
永遠に開かれない箱のように、この想いを胸の奥深く封じ込めるために。
このロケットペンダントは、自分自身にとっての”鍵”だった。
決して開くことのない、想いの檻。
そして、心のどこかで願っていた。
この魔法具が、誰の手にも渡らないことを。
⸻
「シリウス殿下が出るってよ!」
「え、本当に? 今まで一度も出なかったのに!」
「優勝は決まりじゃないか……!」
学園最後の魔法模擬戦。
毎年最大の盛り上がりを見せる戦いだが、シリウスは今まで一度も出場したことがない。
なのに──今年は違った。
今年の優勝者には、学園長が”可能な限りの願い”を叶えてくれるという。
彼は、学期末試験の結果を知っていた。
学年一位は、おそらくエステルだろう。
ならば、自分は”魔法”で一番になればいい。
今まで求められても断り続けてきたこの戦いに、彼は初めて本気で臨んだ。
──その理由を、誰にも語ることなく。
⸻
結果は、圧勝だった。
シリウス・アストラ。
その名が呼ばれた瞬間、会場には大きなどよめきが起こった。
魔法戦において、彼は圧倒的だった。
それなのに、なぜ今まで模擬戦に出場しなかったのか──
生徒たちの間では、そんな疑問が交わされる。
だが、彼にとって、そんなことはどうでもよかった。
学園長に呼ばれたシリウスは、静かに一礼する。
「おめでとう、シリウス。見事な戦いだった。」
「ありがとうございます。」
「では、約束通り──君の望みを言ってごらん。」
迷いはなかった。
「エステル・フォン・リヴィエールの作った魔法具を、私にいただけませんか?」
学園長は、一瞬だけ彼をじっと見つめた。
驚くでもなく、咎めるでもなく。
ただ、深く何かを悟ったように、ゆっくりと微笑んだ。
「……なるほど」
そして、小さな箱を手渡す。
「これが、彼女の作った万年筆だよ。」
シリウスは、それを静かに受け取った。
蓋を開ける。
そこにあったのは、エメラルドの輝きを宿す、精巧な万年筆。
指先で触れると、ほんのりとした温もりを感じた。
それが、彼女の魔力なのだと気づいたとき、胸が詰まった。
「……ありがとうございます。」
彼は、深く頭を下げた。
⸻
図書館の窓際。
シリウスは、万年筆を手に持ったまま、外を見つめていた。
視線の先に、彼女がいた。
エステル・フォン・リヴィエール。
美しく、聡明で、誰よりも冷静で。
けれど、彼が知っている彼女は、時折ふと見せる微かな表情の揺らぎが、ひどく愛おしかった。
(……もっと話しかけていたら、何か変わっていただろうか?)
そんなことを考えても、もう遅い。
卒業すれば、彼女は自国へ帰る。
自分も、アストラ王国へ戻る。
交わることのない道を、それぞれ歩いていく。
手の中の万年筆を握る。
たとえ本人が知ることがなくても、
彼女の作ったものが、これからもずっと自分の手元にあるという事実だけが、唯一の救いだった。
「……さようなら、エステル。」
声に出したつもりはなかったのに、言葉が漏れる。
まるで、その名を口にすることが最後だと知っているかのように。
静かに歩いていく彼女の姿を見つめる。
何も知らないまま、遠ざかる彼女を。
──もう、目で追うこともない。
彼は、そっと万年筆を握りしめた。
もう二度と開かないはずの箱のように、想いを封じ込めるために。
届かない、届けることができない想いに蓋をして。
彼は静かに、彼女に別れを告げた。
ようやく次回から再会