番外編36 美しいものは人生に必要か?
———エステル視点
「エステル様!見てください、このケーキの断面図!芸術ですよ!!」
「……サラ、それ三つ目ですけど」
「美は正義です!!味覚の悦びは人生のエッセンスなんです!!」
「……なるほど?」
私は今、王都で話題のカフェにいる。
お忍びとはいえ、護衛のマークと、いつも通り元気な侍女サラ、そして冷静に周囲を見張るミシェルが一緒だ。
店内は女性客でにぎわっていた。笑い声と甘い香りが満ちていて、なんだか見ているだけで頬が緩む。
私はというと、目の前の――果物たっぷりの美しいミルクレープを前に、やや躊躇していた。
(……どうやってこんなに綺麗に重ねるのかしら)
ひと口食べるのが惜しくなるほど、緻密な層と色彩のバランス。
でもその後、ふわっと香るフルーツとクリームの誘惑には勝てず……結局、おいしくいただいたのだけれど。
サラはというと、「おかわり!!」と勢いよく手を挙げていた。……まったく、元気なのは良いことだけれど。
———
その後、私たちはジュエリー店に立ち寄ることにした。
「エステル様、今日はたっぷりご自分にご褒美を!人生には散財が必要です!」
「そんな力説しないで。私は別に……」
そう、私は装飾品に執着がないほうだと思う。
もちろん、綺麗なものを見て“素敵だな”とは思うけれど。身につけるものは、実用性が第一だった。
それに、私には――彼が作ってくれた、紫水晶のロケットペンダントがある。
それだけで、胸元はいつも満たされていた。
でも。
その日、私の視界にふいに飛び込んできたのは――
ゴールドビーズで縁取られた、花のモチーフのピアス。
中央に埋め込まれていたのは、ほの暗く、けれど吸い込まれるような光を放つ石。
ブラックムーンストーン。
魔宝石の中でも稀少で、その夜の月を思わせる輝きに、思わず息を呑んだ。
「ご試着いかがですか?一点物で、今朝入荷したばかりなんです」
店員の言葉に、つい遠慮がちに試してしまった。
ピアスをつけた瞬間、ひやりとした感触のあと、ふわりと耳元が軽くなる。
思っていたよりもずっと……心が弾んだ。
(……わあ……)
鏡に映った自分を、ついまじまじと見つめてしまう。
ただそれは、「見た目が綺麗」だからではない。
――自分の中の、何かが煌めいたような気がしたのだ。
「わー!ミシェル見て!これ、すごい値段!」
「……!?」
ミシェルの声に、現実へ戻る。
値札を見て、息を呑んだ。
確かに――高い。王子妃としての収入があっても、簡単に買ってよい金額ではない。
「えー、でも殿下におねだりしたら良いじゃないですか~?」
「……っ、そういうことを簡単に言わないの!」
「ええー?だって絶対買ってくれますよ?」
(……そうじゃなくて)
買ってもらいたいのではなく、自分で選びたい。
でもそれは、果たして私に“許される”のだろうか?
美しい宝石に手を伸ばすこと。
「私にはふさわしくない」と、どこかで線を引いてしまうのは、癖のようになっていた。
その日は、そのまま店を後にした。
けれど――
帰城しても、ブラックムーンストーンの輝きが、脳裏を離れなかった。
———
夜、部屋のソファに座って考えていた。
(……そもそも、人はなぜ、美しいものを身につけたがるのかしら)
それは見せびらかすため?
誰かに「素敵ですね」と言ってもらうため?
違う。
少なくとも私は――あのピアスをつけたとき、自分が少しだけ「誇らしくなった」気がした。
自分を肯定できた。ほんの少しだけ、自信が持てた。
(美しいものって、心を照らしてくれるのかもしれない)
(……それは、人生に必要なものかも……)
それでも、まだ私は葛藤していた。
「でも私には、シリウス様がいるもの」
「その人にとって、私が美しくあればそれでいい」
そんなふうに、ひとりで納得しようとしていた。
……でもそのとき、扉がノックされた。
「エステル様、お手紙です」
サラが持ってきた小箱と一枚のカード。
開けてみると――
中には、あのブラックムーンストーンのピアス。
そして、カードにはたった一言。
『君が、君のために美しいと思ったなら、それは君にふさわしいものだと思う。――S』
……ああ、もう。
なんて、ずるい人なのかしら。
私はピアスを握りしめながら、思わず笑ってしまった。
──やっぱり、美しいものは、人生に必要だ。
なにより、美しい心を映すために。




