番外編17 静かなる策謀
——エステル父視点
娘の婚約が破棄された、という報せを受け取ったのは、王宮に向かう馬車の中だった。
「国王陛下の末娘が、私の娘の婚約者に懸想した——それを理由に、婚約は一方的に解消された」
この国で政に携わる者として、理不尽な決定に慣れていないわけではない。
だが、父親としての感情を切り離すには、少しばかり時間が必要だった。
——まったく、あの子が振り回される理由などどこにもない。
あの婚約者は、地位も家柄も文句のない相手だった。だが、私の目から見れば、器の小さな男だった。
それでも幼き頃から続く縁に、娘は静かに従っていた。だが……その頬に影が差すのを見るたび、私は思っていたのだ。
(あれが本当に、エステルの人生を託すに足る相手なのか、と)
婚約が解かれたという報せを受けた時、腹立たしさの裏に、かすかな安堵を覚えてしまったのも事実だった。
だが、この解消劇には、奇妙な“気配”があった。
あまりにも出来過ぎている。
王女の好みに合致しすぎている。
噂の流れ方も、まるで手で導かれたようだった。
そして、もう一つ。
この婚約破棄の裏に、ひとつの影があった。
——アストラ王国第一王子、ジークハルト・アストラ。
———
私は、彼の手口を知っている。
冷静で、知略に長け、表には出さずに物事を操る男。
その彼が、過去の外交交渉でこう語ったことがある。
「敵を動かしたい時は、剣ではなく、“欲望”を使え」と。
12歳の王女。年若くしてわがままに育ち、気に入ったものには執着する——そういった“王女の性質”を、彼が把握していなかったはずがない。
おそらく、噂を流し、視線を誘導し、王女の好みに合うよう仕立て上げた。
あとは、火種に風を吹きかければ、勝手に炎が広がる。
王女が騒ぎ、王が譲歩し、婚約は一瞬で崩れた。
まるで偶然のように。
けれど、これは——完全に“仕組まれた偶然”だ。
ジークハルトがそのような画策をした理由は、ひとつしかない。
——弟、シリウス・アストラのためだ。
———
(あの男が、そこまでして、なぜ……?)
そう考えながら、ある夜。私は、書斎で報告書を整理していた。
ふと、扉が静かに開く。
「父上、遅くまでお疲れさまです」
エステルだった。
何気なく顔を上げ、そして——気づいた。
胸元からのぞく、銀のロケットペンダント。
それは、以前どこかで見たことがある。
記憶を辿る。
そして、ある報告に思い至る。
「……それは、卒業課題で制作された魔法具か?」
エステルは驚いたように少し口元を引き締め、それでも隠すことなく、そっとそれを手に取った。
「学園長のご厚意で、いただきました。卒業記念に──私の願いで」
私は静かに視線を落とす。
それが何を意味するか、すぐに分かった。
この魔法具は、シリウス・アストラが作ったものだ。
卒業生の制作物をまとめた報告書の中に、確かに記載があった。
紫水晶をあしらった、銀のロケットペンダント。
魔力の共鳴。形状。装飾。
そして——娘の視線。
あの冷静なエステルが、それを手に取る時の、わずかな震え。
(……なるほど。そういうことか)
彼女の心は、すでに定まっていたのだ。
あとは、誰がそれを後押しするかだけだった。
———
その数ヶ月後、私は“ある推挙”を受けた。
「アストラ王国第二王子、シリウス・アストラ殿下」
婚約の候補として、彼の名が挙がってきた。
出処は明言されなかった。
だが、分かっている。間違いなく、ジークハルト殿下の差し金だ。
だが、私はそれを受け入れることにした。
この縁談が整えば、メガロポリス国とアストラ王国の結びつきは強まり、我が家の立場も揺るぎないものとなる。
それだけではない。
——何よりも、父として。
娘の選んだ想いを、見逃すわけにはいかない。
たとえ言葉にせずとも、娘の指先がロケットに触れるたびに、私は確信した。
(この子は、もう答えを出している)
ならば、父のするべきことは、ただ一つ。
その選択を支えることだ。
———
「……良き縁となるよう、祈っているぞ」
一人、静かに呟いた。
娘にそれを告げるつもりはない。
だが、必ず、いずれは分かるだろう。
私がこの婚姻を選んだ理由を。
——一人の父親として、娘の幸せを願ったということを。
そして、誰にも知られぬまま舞台を整えた“あの兄”の策謀に、私は一つ、深く頭を垂れた。
(良き仕事をしたな、ジークハルト殿下)
全てが明かされぬまま、未来が少しずつ動き出していく。
——それでいい。
あとは、若者たちに任せればいいのだから。




