第五話 ポーカーフェイスの裏側は
(シリウスの護衛騎士マーク視点)
マーク・ヴェルトナーは、昔からシリウス・アストラという男の「仮面」のような冷静さをよく知っていた。
彼は誰に対しても穏やかで、誠実で、いつでも理知的。
ポーカーフェイスを崩すことなく、どんな状況でも淡々と対処する。
──それが、「アストラの第二王子」シリウス・アストラという人物だ。
宮廷では多くの者が彼を尊敬し、畏敬の念を抱いていた。
並外れた知性と魔力、礼節をわきまえた振る舞い、そして誰にも分け隔てなく接する品格。
だが、マークだけは知っている。
(本当のシリウスは、誰よりも感情を押し殺して生きてきた人間だ。)
幼い頃から、シリウスは「完璧な王族」であらねばならなかった。
彼は長兄ではなく王位継承者ではないが、国王を支える補佐として、決して感情に流されることなく己を律し続けてきた。
感情の起伏を表に出すことはない。
驚きも動揺も、不快感すらも、表面には決して現れない。
──しかし、今回の「婚約」の話が持ち上がったとき。
マークは確信した。
(殿下は、動揺している。)
それはほんの一瞬の揺らぎ。
だが、昔から彼を見てきたマークには、分かったのだ。
「エステル・フォン・リヴィエール」
この名が告げられたとき、シリウスの紫の瞳がわずかに揺れたのを。
⸻
シリウスが動揺を見せるなど、通常では考えられないことだった。
だが、マークには思い当たることがあった。
それは、オウレオール王国の魔法学園時代。
シリウスがまだ学生だった頃のことだ。
──「エステル」という少女に、彼がひそかに目を奪われていたことを。
「マーク、次の授業の時間は?」
「次は戦術論ですよ、殿下。」
「……そうですか。」
ふと、シリウスの視線が遠くへ向く。
その先にいたのは、一人の少女──エステル・フォン・リヴィエール。
知性と気品に溢れた美貌。
どこか冷たさすら感じさせるほど端正な顔立ち。
学年で常に成績一位を獲得するほどの才女。
筆記試験はもちろん、魔法の理論や実技にも優れ、何より彼女の論理的な思考と冷静な判断力は教師陣からも一目置かれていた。
マークがエステルを”特別な存在”だと感じたのは、そうした成績や才能のせいではない。
彼女は、どこか──
一人で立っている人だった。
それは、孤独という意味ではない。
周囲から孤立しているわけではない。
けれど、彼女自身が「他者に頼る」ことをほとんどしない。
何か困難があっても、他人に甘えたり、助けを求めたりする姿をほとんど見せない。
だからこそ、時折ふとした瞬間に見せる”柔らかい表情”に、周囲は驚き、そして惹かれたのかもしれない。
──そして、そんな彼女を誰よりも目で追っていたのが、シリウスだった。
シリウスとエステルは、学園生活の中で何度か言葉を交わす機会があったが、それはいつも形式的なものに過ぎなかった。
「おはようございます、エステル様。」
「おはようございます、シリウス殿下。」
それだけ。
お互いに、相手の存在を強く意識していたはずなのに、距離は決して縮まらなかった。
マークは、当時のシリウスの「視線」に気づいていた。
(殿下は、彼女を目で追っていた。)
しかし、それ以上の行動を起こすことはなかった。
彼は「感情を押し殺す」ことに慣れすぎていた。
──たとえ、どれだけ心を惹かれていたとしても。
⸻
そして今。
シリウスは、静かに婚約に向けた準備を進めていた。
だが、その進め方がやたらと細かい。
(……まったく、どこの新婚夫か。)
マークは思わずため息をついた。
「エステル様が滞在する部屋は、なるべく落ち着ける内装にしましょう。派手すぎる装飾は避けてください。」
「かしこまりました。」
「家具も、極力実用的なものを。座り心地や使い勝手を優先してください。」
「はい。」
「エステル様の衣装も、華美なものより動きやすく、それでいて品のあるものを。」
「もちろんです。」
「それから──」
次々と指示を出すシリウスに、マークは呆れながらも微笑ましさを感じていた。
(こんなに細かく気を配るなんて、普通の婚約者にはしないだろうに。)
そして、何よりも力を入れていたのがエステルの教育係の選定だった。
「エステル様が学びやすい環境を整えたいのです。」
「殿下、それは分かりますが……」
「何か?」
「いや……何でもない。」
(そこまで気にするってことは、少しでもエステル様に心地よく過ごしてほしいってことなんだろうけどなぁ。)
これまでずっと冷静で、感情を表に出さなかったシリウスが、ここまで気を配る。
マークは、やれやれと思いながらも、それを見守ることにした。
(まあ、悪くはない光景だな。)
どうあれ、この婚約はシリウスにとっても、エステルにとってもただの政略結婚ではないのだろう。
マークはそんな殿下の背中を眺めながら、小さく笑った。