番外編11 沈黙の色
——ジークハルト視点
「あいつが学園に行くのは、正解だったな」
そう呟いたのは、帰国してからしばらく経ったある夜のことだった。
晩餐の後、グラスに注がれた琥珀色の酒を傾けながら、ふと弟の顔を思い出していた。
シリウス。
あいつは昔から感情をあまり表に出さない子だった。
淡々と、静かに、だが確実に物事をこなす。
家柄に甘えることなく、誰よりも努力を怠らず、
自分の弱さを、決して誰にも見せない。
誇らしく思う反面、それが心配でもあった。
本当に欲しいものを、あいつはきっと、自分からは手に取れないだろうと、ずっと思っていたからだ。
そんな弟が、ほんの少しだけ違って見えたのは、あの時──
俺が、外交のついでに学園を訪れたときのことだった。
———
「この時間は、講義が終わって学生たちは図書館か中庭でしょう」
と、案内役の教授が言った。
その言葉に、俺は「では少し散策を」と告げて、一人で校舎を歩いた。
ただの好奇心だった。
弟がどんな場所で学び、どんな顔をしているのか、兄として一度は見ておきたかった。
そして、中庭へと足を踏み入れた時だった。
風が心地よく揺れ、芝の上で数人の生徒たちが思い思いに過ごしていた。
その中に、いたのだ。弟の姿が。
木陰に座り、何やら本を読んでいた。
相変わらず、凛としていて、余計な言葉も表情も見せない。
だが——その視線が、ふと別の方向に向けられた。
俺は、そちらを自然に目で追う。
そして気づいた。
そこにいたのは、一人の少女だった。
黒髪に、エメラルドグリーンの瞳。
静かに本を開き、風に揺れる髪を耳にかける所作が、妙に印象に残る。
彼女は、弟の視線に気づいていない。
弟もまた、数秒だけ見つめたあと、何事もなかったように視線を戻した。
まるで、初めから誰も見ていなかったかのように。
──だが。
俺は見たのだ。
あいつの瞳に、ほんの一瞬だけ灯った微かな光を。
それは、ただの興味ではない。
憧れでもない。
もっと、ずっと奥深くにあるもの——
(……あれが、弟の“特別”か)
その瞬間、俺はそう確信した。
———
その後、学園を離れて間もなく、俺のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は学園長。
あの気まぐれで賢しい老人が、わざわざ俺に書状をよこすなど、そうあることではない。
そこには、こう綴られていた。
「シリウス殿下は、最後の魔法模擬戦で見事に優勝されました」
「ご存じかと思いますが、今年の優勝者には、私の気まぐれで“可能な限りの願い”を叶える特典を設けておりましてね」
「殿下が望まれたのは──エステル・リヴィエール嬢の制作した、魔力のこもった万年筆でした」
その一文を読んだとき、俺は笑った。
あいつらしい、何も言わないやり方だと。
けれど、もう一つ、確証が欲しかった。
———
数日後、いつものように近衛の報告を受けていた俺は、ふとマークに尋ねた。
「……模擬戦の後、あいつに変わった様子はなかったか?」
マークは少し迷い、それでも答えた。
「……いいえ、殿下は普段通りに振る舞っておられました。ただ──」
「ただ?」
「帰還後、控室で……万年筆が納められた小箱を、指先で何度も撫でておられました。無意識のように、ゆっくりと」
マークの目は鋭い。
だが、温かさを忘れない。
「……殿下にとって、あれはただの筆記具ではなかったのでしょう」
俺は深くうなずいた。
誰にも知られぬまま、口に出されることのなかった想い。
けれど、それは確かに、そこにあったのだ。
———
それ以降も、注意して見ていれば分かることは多かった。
成績表に記されたエステル・リヴィエールの名に、視線が止まる。
口に出さずとも、確実に彼女を意識していた。
──ずっと、見ていたのだ。
弟は彼女を。誰よりも静かに、誰よりも深く。
だが、その気持ちは、誰にも知られてはならないものだったのだろう。
彼女には婚約者がいた。
弟にも、義務としての縁談が控えていた。
彼らは、ほとんど言葉を交わすこともなかった。
それでも、想いはそこにあった。
あれほどの魔法の才を持ちながら、自分の感情には最後まで手を伸ばさない。
そんな弟を、私は放っておけなかった。
「だから俺は、動いたのさ」
エステルの婚約解消も。
シリウスとの縁談が急に進んだのも。
全部、“偶然”を装った結果だ。
誰にも知られぬように。
誰にも気づかれぬように。
せめて、この婚姻だけは、あいつ自身が求めた相手であってほしいと願って。
———
窓の外、夜風が王城の灯を揺らしている。
「……やれやれ、本当に不器用だよな、お前は」
グラスの底に残った酒を飲み干して、俺はそっと目を閉じた。
弟の沈黙が語った恋。
誰にも見せなかった感情が、やっと手に届いたのなら──
それでいい。
兄として、これ以上の喜びはない。




