番外編10 卒業後
エステルの前婚約が解消された時の話
——エステル視点
学園を卒業し、私は自国へと戻った。
つまり、それは婚約者との結婚が現実味を帯びるということ。
幼い頃から決められていた婚約。政略結婚が当たり前のこの世界では、拒むことなど許されない。
私もそれを理解していたし、受け入れるしかないとずっと思っていた。
でも。
学園で過ごした日々が、私に“知るべきではなかった感情”を教えてしまった。胸の奥が痛む、このどうしようもない感情を。
どれだけ冷静に振る舞おうとしても、卒業式の日、彼——シリウス・アストラの背中を見送ったあの瞬間から、ずっと心がざわついていた。
彼も、遠からず婚約者と結婚するのだろう。
それが当然で、順当な未来。
だからこそ、この気持ちはどうすることもできない。
それなのに、私は狡い手を使ってまで彼のロケットペンダントを手に入れた。
叶わぬ想いを断ち切ることは……今のところできていない。
この紫水晶のロケットをどうするつもりなのか、自分でも分からないまま、ドレスの下に忍ばせたまま過ごしていた。
そんなある日——宰相である父が、珍しく怒りを滲ませた表情で帰宅した。
普段は冷静沈着な父が、こうして怒りを露わにすることは滅多にない。
「エステル」
呼ばれ、私は静かに父のもとへ向かう。
そこで告げられたのは、思いがけない言葉だった。
「おまえの婚約は解消された」
最初、聞き間違いかと思った。
だが、父の顔は真剣だった。
理由は政治的なもの。
「どうやら国王陛下の末娘が、おまえの婚約者に懸想したらしい」
「……王女殿下が?」
「そうだ。国王陛下は末娘に甘い。まだ12歳の子供だというのに、どうしてもおまえの婚約者を自分のものにしたいと言い出した。陛下はそれを認め、あちらの家に圧力をかけたそうだ」
婚約者と王女殿下は10歳以上も年が離れている。
突然の婚約解消に、彼は今どんな気持ちだろうか——。
少しだけ、不憫に思う。
「長年の婚約だったのに、すまないな」
父はそう言った。
「だが、おまえにはもっと素晴らしい相手を探してやる」
——もっと素晴らしい相手。
確かに、私の元婚約者以上に優秀な人はいるだろう。
でも。
“彼”を超える人など、この世にいるのだろうか。
答えは出ないまま、私は父を見つめた。
「……可能ならば、しばらく……新しい婚約の話は進めないでほしいのですが」
「なぜだ?」
「婚約のことを考えるより、今は何かに没頭したいんです。……父上、私に仕事をさせていただけませんか?」
父は少し考え、ゆっくりと頷いた。
「良いだろう。おまえには優れた才がある。仕事を任せるのも悪くはない。しかし、然るべき時がきたら婚約は避けられんぞ。」
「もちろんです。ありがとうございます」
——このまま結婚の話が先延ばしになればいい。
彼を忘れる、その日が来るまで。
私は静かに、胸元のロケットを握りしめた。




