番外編7 意識せずにはいられない 後編
——シリウス視点
「……」
私は、彼女の背中を見送りながら、微かに笑った。
まるで逃げるように駆けていくエステル様。
耳まで赤く染まっていた彼女の顔が、今も瞼の裏に残っている。
(……そんなに驚かせるつもりはなかったのですが)
頬に触れたとき、彼女が一瞬 息を止めたのが分かった。
それなのに、すぐに 視線を逸らしてしまうのが惜しく感じた。
エステル様は、いつも冷静で気品に満ちている。
どんな場面でも動じず、学園時代から 感情を表に出すことが少なかった。
けれど 今の彼女は違った。
「……」
濡れた髪を拭きながら、私は静かに息を吐く。
(……やはり、意識してくれているのですね)
以前なら、こんな場面に出くわしても、彼女は すぐに態勢を立て直していた だろう。
だが、今日の彼女は——
私の肌を見つめ、頬を染め、言葉を詰まらせていた。
そして、一瞬。
ほんの一瞬だけ 指先が、私の肌に触れようと伸びかけていた。
そのことに 彼女は気づいていただろうか。
(触れられていたら……どうしていたでしょうね)
不意に、その可能性を想像する。
指が触れ、彼女がそのまま 私に近づいてきたとしたら——?
静かな夜の回廊。
誰もいないこの場所で、彼女の小さな手が 私の肌を確かめるように滑ったとしたら——。
(……エステル様)
私は、どこまで理性を保てただろうか。
彼女を意識するようになったのは、いつからだろう。
初めて会ったときから、彼女は 他の誰とも違う存在 だった。
聡明で、冷静で、品格を備えた女性。
だが、それだけではない。
——彼女は、私と似ていた。
婚約という義務を受け入れ、
感情を押し殺し、
誰に対しても公平であろうとする。
そんな彼女が、私の前で揺れ始めている。
それは——嬉しくないはずがなかった。
(……私も、同じなのですから)
「……」
濡れた髪を掻き上げながら、私は微笑んだ。
「……そろそろ、時間ですね」
明日は、結婚式の最終準備がある。
式まで あと1ヶ月。
この1ヶ月で、彼女は どこまで私を意識するようになるのか。
そして——
どこまで、私を求めてくれるようになるのか。
「……楽しみですね」
低く小さく呟きながら、私は夜の静寂の中へと歩き出した。




