第四話 揺れる心、進むべき道
婚約の知らせを受けてから、一週間が経った。
最初はただの驚きだった。
しかし、今はようやくこの現実を受け止め、前に進むべき時だと理解し始めている。
──シリウス・アストラ。
学生時代、遠くから見ていることしかできなかった人。
その彼が、私の婚約者になる。
(再会……か。)
けれど、それは学生時代のような関係ではない。
今度こそ、彼の隣に立つ立場として。
──しかし、シリウスはどう思っているのだろう。
彼の前の婚約が政治的な理由で解消になったと聞いた。
私と同じように、彼も突然この婚約を知らされたはず。
(……まだ、前の婚約者のことを想っているのかしら。)
シリウスはどんな想いでこの婚約を受け入れたのだろう。
彼はどこまでも完璧で、冷静で、常に理知的な振る舞いを崩さない。
きっと、私を穏やかに迎え入れてくれるのだろう。
でも、そこに愛は生まれるのだろうか?
この婚約は政略結婚、それ以上でも以下でもない。
それを理解しているつもりだったのに、
どうしてこんなにも、彼のことを考えてしまうのだろう。
(……私は、彼の紫の瞳を今度こそまっすぐ見られるのかしら。)
ゆっくりと、胸元に隠すように身につけていたロケットペンダントを取り出す。
慎重に指で開くと、中には紫水晶が嵌め込まれていた。
それは、私にとって特別なものだった。
どうしても手放せなかった。
(……これは、私が未練を持っているということなの?)
思い出と現実は違う。
この婚約は過去の感情と無関係に結ばれたもの。
(過去の気持ちに引きずられるわけにはいかない。)
深く息を吸い、ロケットペンダントを閉じる。
──これからの3ヶ月、自分にできることをしなくては。
⸻
「エステル様!!」
勢いよく扉が開き、明るい声が響いた。
「……サラ、もう少し落ち着いて扉を開けることはできないの?」
「すみません! でも、大事なお話です!!」
目の前にいるのは、私の専属侍女、サラ・ルーナ。
天真爛漫で、いつも元気で、時に少し暴走気味。
けれど、誰よりも私を慕い、支えてくれる大切な存在。
「何かしら?」
「私もエステル様と一緒にアストラ王国へ行きます!!」
「……え?」
一瞬、意味が飲み込めなかった。
「だって、エステル様が新しい環境に行かれるのに、私がいなくてどうするんですか!? ずっとお仕えしてきたんですよ!! これからもエステル様のそばでお世話させてください!」
彼女の目は真剣だった。
「サラ……」
「エステル様は、きっと色々考えてしまうと思うんです。でも、私がいれば少しは気が楽になるでしょう?」
「……そうね。」
その言葉に、思わず頬が緩む。
たしかに、私が必要以上に考え込んでしまう性格なのは、サラが誰よりもよく知っている。
彼女がそばにいてくれるなら、少しは気が楽になるかもしれない。
「ありがとう、サラ。」
「任せてください!! 私、アストラの文化も一緒に学びますから!」
「……でも、暴走はほどほどにね?」
「はいっ!」
(……本当に、大きな存在だわ。)
彼女がついてきてくれるのなら、少しは心の支えになる。
⸻
「ふふ、エステルったら。」
アリアは紅茶を口にしながら、楽しそうに微笑んだ。
「な、何?」
「いいえ、ただ……この婚約、最初は驚いていたのに、今は前より前向きに考えているように見えたから。」
「……そうかしら?」
「ええ。学生時代、あなたは結婚なんてただの義務だって割り切っていたでしょう? でも、今はちゃんと相手のことを考えているように見えるわ。」
(……たしかに。)
婚約が決まるまでは、政略結婚とはそういうものだと、淡々と受け入れるつもりだった。
けれど、相手がシリウスだったから、こんなにもいろいろな感情が渦巻いている。
アリアは優しく微笑みながら、紙とペンを手に取った。
「では、アストラ王国に行くまでの3ヶ月でやるべきことを整理しましょうか。」
「……ありがとう、アリア姉様」
「当然よ。あなたは私の大事な妹ですもの。」
優しい姉の言葉に、胸が温かくなる。
「まず、アストラの宮廷作法。あなたならすぐに覚えられるでしょうけど、違いには注意が必要ね。あとは公務の心得……」
「アストラの文化もできるだけ学びたいわ。」
「ええ。そして、何よりも体調を崩さないこと。」
「……ふふ、そうね。」
アリアとサラの存在が、心強かった。
気持ちはまだ追いつかない。
けれど、私は私にできることをする。
──その先に、どんな未来が待っているとしても。