番外編5 学生時代の夏休み
——シリウス視点
学園が夏休みに入り、私はアストラ王国へ帰還した。
故郷の空気は静かで澄んでいる。
山々に囲まれたこの国は、騒がしさとは無縁で、夜になれば満天の星が空を埋め尽くす。
懐かしさとともに、安堵を覚えるはずだった。
だが——
(……違和感がある)
日常に戻ったはずなのに、何かが足りないような気がした。
静かな宮殿の廊下を歩きながら、ふと考える。
何が違うのか。
何が足りないのか。
——そうだ。
学園には、彼女がいた。
エステル・リヴィエール。
講義のたびに目に入る、漆黒の髪とエメラルドグリーンの瞳。
中庭で静かに本を読む、穏やかで凛とした姿。
図書館の静寂の中、書物に目を落としながら、誰にも干渉されずにいる彼女。
学園にいた頃、気づけば彼女を目で追っていた。
彼女は常に静かで、感情を過剰に表すことがなかった。
その佇まいはどこか自分と似ているようで、けれど、決して同じではない。
(……考えても仕方がない)
彼女とは何の関係もない。
話を交わす機会すらほとんどなかったのだから。
それなのに、彼女の姿が視界にないことに、こんなにも違和感を覚えている。
まるで、学園での日々が、ほんの少しだけ 心を満たしていた かのように。
「シリウス、しばらく国を離れていたが、戻ってきた気分はどうだ?」
兄であるジークハルトが、軽い口調で尋ねてきた。
「特に変わりません」
「そりゃまた味気ないな。何か面白い話はなかったのか?」
「……」
「例えば、学園で気になる女性でもできたとか?」
「……兄上、何の話ですか?」
ジークハルトは冗談めかして笑うが、私は表情を変えずに答えた。
「そういうものに興味はありませんし、私には婚約者がいます」
「ふーん……?」
兄は何か考えるように私を見たが、それ以上は何も言わなかった。
夜。
宮殿の庭に出ると、アストラ王国の星空が広がっていた。
学園のあるオウレオールの夜空よりも、はるかに明るい星々。
この景色は幼い頃から見慣れていたものだった。
だが——
(エステル様にも、この星空を見せたら)
……そう思ってしまった瞬間、自分の考えに驚いた。
(なぜ、彼女のことを考える?)
学園での日々が蘇る。
試験の成績表で彼女の名前を見つけたとき、何度も目が止まったこと。
実技試験の後、静かにこちらを見ていた彼女の視線を意識してしまったこと。
中庭で、本に目を落としながら、どこか別の世界にいるようだった彼女の姿。
彼女は何も言わない。
ただそこにいるだけなのに、視界に入ると、胸の奥がかすかにざわつく。
(……気のせいだ)
私は静かに目を閉じる。
彼女とは何の関係もない。
学園に戻れば、また何気なく目にすることはあるかもしれないが、それだけのこと。
夏休みが終われば、私は再び学園での日常に戻る。
彼女も、そうだろう。
きっと今頃は、メガロポリス国の宮殿で、公務や社交の場に出席しているはずだ。
彼女が私のことを思い出すことなど、ないだろう。
それなら、私が彼女を思い出す理由もないはずなのに——
(……どうして、考えてしまうのか)
星空の下、ひとり静かに息を吐く。
これが、何を意味するのか。
答えを出すのは、まだ少し先になりそうだった。




