番外編4 黒猫エステル
時期は舞踏会の後くらい
すべての始まりは、何気なく手に取った一冊の本だった。
エステルは、宮廷図書館の奥に眠る美しい装丁の古書を開いた。
淡い金の装飾が施された漆黒の表紙には、見慣れない魔法文字が刻まれている。
「……これは?」
王宮の魔導士たちが管理する特別書架にあったため、何かしらの特殊な魔法がかかっているのだろう。
興味を引かれ、ページをめくると——
次の瞬間、突然眩い光があふれ出し、魔法陣が足元に広がった。
「——っ!!?」
エステルの視界がぐるりと回転し、意識が薄れる。
──そして、目が覚めたときには黒猫になっていた。
⸻
「……にゃ?」
違和感に気づいたエステルは、思わず声を出した——いや、鳴いた。
何かがおかしい。目線が低い。手がない。いや、代わりにふわふわの肉球がついている……!!
「エステル様!?」
サラの悲鳴とともに、彼女が駆け寄ってくる。
驚いたマークは眉をひそめ、困惑した表情でエステル(猫)を見つめた。
「……おい、まさか呪いか?」
「まさかも何も、どう見ても呪いでしょう!?」
「いや、でも……」
マークは腕を組みながら、エステルの姿をじっくりと見た。
美しい黒い毛並み、エメラルド色の瞳、しなやかな尻尾……。
「……上質な黒猫だな」
「そこじゃないです!!!」
エステル(猫)は、必死に「そんなことはどうでもいい!」と叫びたかったが、出てくるのは「にゃあああ!」という鳴き声だけ。
とりあえず、どうにかしないと。
絶対にシリウス様には見られたくない!
しかし、次の瞬間——
「エステル様と聞いて、駆けつけましたが……」
優雅な足取りで、シリウスが部屋に入ってきた。
「えっ」
「……」
「にゃ!!?」
シリウスは、数秒間沈黙し、それから静かに膝を折った。
「……信じがたいですが、エステル様なのですね?」
(うわあああ!!見られた!!)
そのまま、シリウスはエステル(猫)を優しく抱き上げた。
「……随分と、可愛らしい姿になられましたね」
(やめてええええ!!!)
⸻
「……ふむ」
シリウスは、エステル(猫)を腕に抱きながら、その毛並みに指をすべらせる。
ゆっくりと、優しく。
「とても柔らかく、手触りが良い……」
「にゃ!?」
エステルはピクンと体を震わせた。
(な、何をして……!?)
しかし、困ったことに、猫の体は撫でられると気持ちよくなってしまう。
抗えない本能が、甘い痺れを伴ってエステルを支配する。
「……」
「……にゃぁ」
「……っ」
「……にゃん」
その瞬間、シリウスの顔が真っ赤になった。
(えっ、待って?何この雰囲気!?)
まさか、今のは甘えるように聞こえてしまったのか!?
「エステル様……そんな声を出されると、私は……」
「ちょっと待って、待って!!!」
そう叫びたかったが、猫の身ではどうにもならず、エステル(猫)は必死にジタバタした。
しかし、この日以来、シリウスの溺愛モードは加速するのであった。
⸻
数日が経ったある日。
調査によって、この呪いは「愛を試す」ためのものだと判明した。
つまり、解呪するには「真実の愛のキス」が必要。
「……では、試しましょうか?」
シリウスは、当たり前のように言った。
「にゃ!?!?」
待て待て待て!そんなに冷静に提案しないで!!
エステル(猫)は暴れるが、シリウスは逃がさない。
「では、失礼します」
彼はそう言って、エステル(猫)の額にそっと唇を落とした。
すると——
パァァァァァ……!
強い光に包まれ、エステルの体が変化していく。
そして、気がつけば——
「……きゃっ!!」
エステルは人間の姿に戻っていた。
ただし、そのままの体勢でシリウスに抱きかかえられたまま。
「……やはり、エステル様の本来の姿も美しいですね」
彼は、ふっと微笑む。
(う、嘘でしょ!?)
顔の距離が近すぎる。
息が、当たる。
さっきまで猫だったせいか、やたらとシリウスの香りが強く感じられる。
「も、もう戻ったので……!」
そう言って逃げようとするエステルの腕を、シリウスはそっと引き寄せた。
「ですが、まだ確かめたいことがあります」
「えっ?」
「猫ではなく、人間のエステル様にも……していいですか?」
その意味を理解した瞬間、エステルの思考は停止した。
「っ……」
逃げる間もなく、シリウスの唇が静かに重なる。
たっぷりと慈しむように、しかし優しく触れるだけのキス。
それなのに、心臓は痛いほどに跳ね上がる。
「……戻られた今でも、こうしたい気持ちは変わりません」
囁くように告げる彼の瞳は、甘く蕩けていた。
(……呪いなんて、もうどうでもいい……)
エステルはそう思いながら、そっと彼の背に腕を回した。
こうして、黒猫エステルの大冒険(?)は幕を閉じたのだった——。




