第三話 夢か現実か
「シリウス、お前の新しい婚約が決まった。」
アストラ王宮の玉座の間で、父王が静かに告げた言葉。
それは、あまりにも突然で、あまりにも現実味のない話だった。
「……どなたと?」
極力冷静に、感情を抑えたまま問い返す。
「メガロポリス国宰相の娘、エステル・フォン・リヴィエールだ。」
瞬間、思考が止まった。
彼女の名を聞いた瞬間、心が強く揺れ動くのを感じた。
エステル・フォン・リヴィエール。
かつて、魔法学園でともに学んだ少女。
出身国も異なり、互いに自国の責任を担う者。
婚約者がいるという理由で、言葉を交わすことすら最小限にしていた。
彼女の黒髪の艶やかさ。
静かで、それでいて強い意志を秘めたエメラルドの瞳。
無駄な言葉を発さず、ただ凛とした存在であり続ける姿。
学園での何気ない日々の中、幾度となく目で追ってしまった人。
決して手を伸ばすことのできなかった人。
その彼女が──婚約者に?
「……」
それでも、シリウスは努めて表情を変えなかった。
目を伏せ、静かに一礼する。
「かしこまりました。」
まるで、それが当然のことであるかのように。
それが王族としての義務だ。
自らの感情を表に出すことなく、国のために最適な道を選ぶ。
ただ、今は──。
この胸のざわつきを、どう処理すればいいのか分からなかった。
婚約の正式な発表が終わり、王の前から退席すると、シリウスはそのまま自室へと向かった。
扉を閉めた瞬間。
──力が抜けた。
ずるりと壁に背を預け、膝を折る。
「……ありえない。」
夢か? これは夢なのか?
現実にこんなことが起こり得るのか?
手のひらを開き、ゆっくりと握る。
(これは、現実なのか……?)
何年もかけて忘れたはずの感情が、胸の奥底からじわりと滲み出してくる。
──いや、忘れたのではない。
封じ込めただけだ。
彼女に惹かれたのは、確かに過去の話だ。
だが、それは決して消えてはいなかったのだと、今さらながら思い知らされる。
「……エステル……」
その名を、小さく呟いた。
自分のものになるはずのない名前。
ただ、遠くから見つめることしか許されなかった名前。
──それが、これからは自分の婚約者として、隣に立つのだ。
心臓の鼓動が強くなるのを感じながら、シリウスはゆっくりと目を閉じた。
扉の向こうで、ノックの音が響いた。
「……シリウス殿下?」
その声に、シリウスは一度深く息を吐いた。
「マークか。」
扉を開くと、護衛副隊長であり、幼馴染であるマーク・ヴェルトナーが立っていた。
「失礼します。」
マークは一歩中に入り、扉を静かに閉めた。
「先ほどの婚約発表を、控えで見ていましたよ。」
「……そうか。」
シリウスは椅子に腰掛け、表情を整える。
マーク・ヴェルトナー。
彼はアストラ王国の貴族家の出身であり、幼少の頃からシリウスの護衛を務めている。
だが、それだけではなく、唯一の「対等に話せる相手」でもあった。
「いやあ、まさかあのシリウス殿下が、あんな顔をするとは思いませんでした。」
「……どんな顔をしていた?」
「一見、冷静に見えましたがね……俺には分かります。正直、驚きすぎて思考が追いついていませんでしたね。」
「……」
言い返せない。
それほどまでに、あの瞬間は自分の内側が乱れていた。
「それで、どう思われます? 婚約のお相手。」
マークがソファに腰掛け、シリウスを見つめる。
シリウスは、一瞬言葉に詰まった。
どう、思うか。
「……戸惑っている。」
「でしょうね。」
「……まさか、こんな形で再び会う日が来るとは思わなかった。もう会うことはないと思っていた。」
「俺は、学園時代ずっと見ていましたよ。殿下が無意識に目で追っていたことも、話しかけるのを避けていたことも。」
「……」
シリウスは、何も言えなかった。
「言葉を交わさなくても、分かりました。殿下がエステル嬢に抱いていた感情は、決して無関心ではなかったと。」
「だが、それはもう過去の話だ。」
「過去ですか。」
マークは少し笑いながら、肩をすくめた。
「では、お伺いしますが。今、殿下の心臓は穏やかですか?」
シリウスは、ふと自分の胸に手を当てた。
──鼓動が、速い。
「……落ち着くには、時間がかかりそうだ。」
「でしょうね。」
マークは微笑みながら立ち上がる。
「まあ、殿下がどう思おうと、婚約は決まりましたからね。これからが楽しみです。」
「……余計なことは言うな。」
「言いませんよ。ただ、エステル嬢が3ヶ月後にこちらへ来たときの殿下の反応を、俺は楽しみにしております。」
「……お前というやつは。」
シリウスは眉をひそめながら、深いため息をついた。
「では、失礼します。」
マークは軽く礼をし、扉を開ける。
静かに扉が閉まったあと、シリウスは天井を仰いだ。
「……落ち着け、私。」
声に出して、自分に言い聞かせる。
けれど、心の高鳴りはまだ収まらなかった。
──3ヶ月後。
本当に、彼女がこの宮殿にやってくるのだ。
その現実を、まだ完全には受け入れられずにいた。
(エステル……)
その名を、心の中でそっと呟いた。