第二話 学生時代(シリウス編)
シリウス・アストラは、常に穏やかであろうと心がけていた。
王族として、後継者ではなくとも国を支える者として、感情を表に出しすぎることは不要なものだった。
魔法学園への入学も、その延長線上にあった。
知識を深め、技術を磨くことは国のためになる。
そこで出会う人々と交わるのもまた、外交の一環として必要なこと。
だが、彼は決して他者と深入りしない。
誰にでも公平であり、誰に対しても同じ距離を保つ。
──婚約者に対しても、それは変わらなかった。
シリウスは、婚約を「義務」として受け止めていた。
個人の感情を交える必要はなく、むしろ冷静な関係の方が望ましい。
情に流されず、ただ役割を果たせばいい。
──彼女の姿を見るまでは。
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それは、入学から半年ほど経った頃のことだった。
学園の中庭。
風が静かに木々を揺らし、昼下がりの陽射しが穏やかに広がる。
シリウスは、講義の合間にふとその場を訪れた。
普段ならば、人の少ない時間を見計らって来るのに。
その日は、そこに先客がいた。
漆黒の髪が、陽の光を受けてわずかに艶めく。
彼女は、一人で本を読んでいた。
エステル・フォン・リヴィエール。
講義では何度も姿を見ていた。
その聡明さも、優雅な立ち居振る舞いも知っていた。
だが、この時、彼女はただの貴族令嬢としてではなく──ひとりの「静寂を纏う人」として、そこにいた。
彼女は静かだった。
読書に耽り、周囲の世界とは一線を画しているような空気を纏っていた。
(……静寂を好む人なのだろうか)
シリウスは、人との距離を慎重に測る。
彼自身もまた、群れることを好まず、慎重に言葉を選ぶ人間だった。
だからこそ、彼女の姿が妙に印象に残った。
周囲に過剰に馴染もうとするわけでもなく、かといって他者を拒絶するわけでもない。
淡々とそこにいて、ただ静かに時間を過ごしている。
──奇妙なほど、居心地のいい静けさだった。
気づけば、その場を離れがたく感じていた。
(……いや、何を考えている)
彼は小さく息を吐き、歩みを戻した。
関わる必要のない相手だ。
彼女には婚約者がいるし、自分にも。
目を向けることに、意味などない。
だが、それからというもの。
中庭を通るたび、ふと、彼女の姿を探してしまうようになった。
⸻
それは、筆記試験の成績が発表された日のことだった。
学園では、定期的に成績順位が公表される。
生徒たちは、それを確認し、自らの努力の成果を測るのが通例だった。
シリウスにとって、学業成績は重要なものではあったが、執着するほどのものではなかった。
当然、上位にいるべき存在として、ただ結果を受け入れるだけ。
成績表を手に取り、視線を走らせる。
1位──エステル・フォン・リヴィエール
(……また彼女が一位だ)
シリウスの指が、その名前の上で止まる。
学園には各国の王族や貴族が集い、優秀な者も多い。
その中で、彼女は筆記試験において常に誰よりも優れた成績を修めた。
ふと、講義中の彼女の姿を思い出す。
一切の無駄なく、的確な言葉で回答を紡ぐ姿。
時に、教授すらも唸らせるような理論を展開する。
彼女が努力を重ねて得た結果であることは、容易に想像できた。
(……すごい)
純粋に、そう思った。
だが、それだけならば、ここで成績表を閉じればいい。
次に目を向けるべき課題へと、思考を切り替えればいい。
──それなのに。
何度も、何度も、同じ場所に目が行く。
エステル・フォン・リヴィエール
まるで、その名前が瞼に焼き付いてしまったかのように、繰り返し見てしまう。
(なぜ、こんなにも意識してしまうのか)
成績が優秀だから?
それとも、彼女の持つ気品や聡明さに惹かれたから?
いいや、そんな単純な理由ではない。
けれど、今の自分では、その答えを見つけることはできなかった。
静かに成績表を閉じる。
だが、心の奥に残る、彼女の名前。
──これが、何を意味するのかを知るのは、もう少し先のことだった。
⸻
学園での授業は、理論と実践の両面から構成されている。
シリウスは、魔法の才能に恵まれていた。
幼少期から厳しい教育を受け、制御力も発動速度も群を抜いていた。
それは彼にとって、当然のことだった。
魔法は、磨くもの。
魔法は、統制するもの。
魔法は、己を律するためにあるもの。
だからこそ、試験のたびに最優秀と呼ばれることにも、何の感慨も抱かなかった。
──けれど、ある時だけは、わずかに意識が揺れた。
それは、実技試験の結果が発表された日。
彼の名前が呼ばれ、称賛の声が上がる。
その時、ふと目に入った。
エステル・フォン・リヴィエールが、静かにこちらを見ていた。
彼女の表情は変わらない。
だが、その瞳には、わずかな賞賛の色が浮かんでいるように見えた。
──それだけのことだった。
それだけのことなのに。
その視線を受けた瞬間、胸の奥がかすかにざわつくのを感じた。
彼女は、何も言わない。
他の学生のように、大げさに称えることもなければ、近づいて話しかけてくることもない。
ただ、淡々とした態度で、その場にいた。
なのに。
(……見られていると意識してしまう)
彼女の視線を、心のどこかで気にしてしまっている自分に気づき、シリウスは静かに目を伏せた。
意味のないことだ。
この感情に、価値などない。
だから、すぐに忘れようとした。
──だが、それ以降。
彼女の存在が、自分の中で無視できないものになっていった。