序章 封じた恋心と再会の知らせ
「……嘘でしょう?」
エステル・フォン・リヴィエールは、手にした書状を見つめたまま、呆然と立ち尽くした。
メガロポリス国、リヴィエール家の居間。
深い木目の家具が並ぶ格式高い部屋の中。
窓から差し込む午後の光が絨毯の上に淡い影を落としている。
優雅に紅茶を飲んでいた姉のアリアが、そんな妹の様子に興味深げに目を向けた。
「そんなに驚くこと? いい話じゃない」
エステルは、震える指で書状に記された名前をなぞった。
──シリウス・アストラ
その名を、どれほど心の奥深くに封じ込めてきただろう。
学院時代、遠くから密かに想いながらも、決して言葉を交わすことのなかった彼。
シリウス・アストラ。
金色の髪に、深紫の瞳。
誰にでも公平で、穏やかで、そして少し影を落とした眼差しを持つ青年。
彼もまた、すでに婚約者がいると知っていたから。
だから、想うことさえ許されないと、自分に言い聞かせてきた。
──そんな彼と、婚約?
「どういうことなの……?」
思わず呟く。
アリアは淡々と答える。
「あなたの前の婚約者、別の人と婚約することになったのよ。政治的な理由でね」
「……そう」
エステルは淡々と受け止めた。
前の婚約者──メガロポリス国の有力貴族の子息。
幼い頃から決められていた相手だったが、彼に対して特別な好意を抱くことはなかった。
彼もまた、エステルに恋愛感情を持っているようには見えなかった。
それはただの義務でしかなかった婚約。
解消されたと聞いても、何も思うことはない。
むしろ、ようやく自由になれたのだとさえ感じる。
「で、新しい婚約者が決まったってわけ」
アリアがカップを置き、指先で書状を示す。
「3ヶ月後にはアストラ王国へ行くことになるわね」
3ヶ月後。
それはあまりにも急だった。
何年も封じ込めた感情を、たった3ヶ月で整理しろというのか。
「……私、本当に彼と再会するの?」
言葉にして初めて、その事実の重みが胸に落ちる。
──彼と向き合ったとき、私はどんな顔をすればいい?
戸惑いと、期待と、ほんの少しの不安。
それらが入り混じったまま、エステルは深く息をついた。
⸻
その頃、アストラ王国では──。
「シリウス、お前の婚約が解消された」
王宮の玉座の間。
金色の装飾が施された厳かな空間に、アストラ王の低く響く声が落ちる。
シリウス・アストラは、その言葉を静かに受け止めた。
「かしこまりました」
それだけを言い、深く頭を下げる。
シリウスにとって、婚約とは国のための義務であり、感情を伴うものではなかった。
国のために定められた関係であり、相手に特別な想いを抱いたこともない。
だから、それが解消されたとしても、何も感じなかった。
(当然のことだ)
淡々と受け入れる。
彼が望むものではなく、必要とされる立場としての判断なのだから。
だが、王の次の言葉が、彼の思考を一瞬で止めた。
「そして、新たな婚約が決まった」
「……どなたと?」
「メガロポリス国宰相の娘、エステル・フォン・リヴィエールだ」
その名を聞いた瞬間、シリウスの心臓が跳ね上がった。
──エステル・フォン・リヴィエール。
学院時代、遠くから見つめることしかできなかった少女。
漆黒の髪に、宝石のようなエメラルドの瞳を持つ、聡明で冷静な令嬢。
気品があり、賢く、美しく、完璧な存在。
だが、彼女には婚約者がいた。
だから、決して手を伸ばしてはならないと、何度も言い聞かせた。
(……そんな彼女が、私の婚約者になる?)
目を伏せる。
卒業して数年。
ようやく彼女の存在を「思い出」として受け入れることができるようになったのに。
それなのに、なぜ今になって。
彼女のことを考える時間も、今ではほとんどなかったはずだ。
なのに、名前を聞いただけで、胸の奥に封じ込めたはずの記憶が鮮明に蘇る。
──教室の窓辺で、静かに本を読んでいた姿。
──模擬戦の勝者として名前を呼ばれたとき、誰よりも落ち着いた声で返事をしていた横顔。
──式典の日、凛とした姿で会場を歩く彼女を、遠巻きに眺めることしかできなかった自分。
(……思い出として、整理できていたはずなのに)
急に突きつけられた婚約の事実。
今は、喜びよりも、戸惑いのほうが大きかった。