最終話 女神たちの爪痕 後編
海原摩魚と鯉川鮒が一戦を交わした翌朝。
浜辺亜沙里は思いを涙とともに吐き出したせいか、いくぶんかはすっきりとしていたが、あれから摩魚に目を合わせるのがなんだか恥ずかしくなっていた。ただ、昨晩の発作のことは覚えていないようだった。
そして、昼間。
潮干リエと黄肌潮が、昼御飯の材料を持って訪問した。海原摩魚の誘拐を海淵海馬から聞いて、ここに来たのだと言う。最初は誘拐が本当だったから驚いていたが、摩魚自身、置かれた身の上に対して思っていた以上に凹んでいなかったのもあって、昼御飯は和やかながら話しに花を咲かせて終了した。
それから、夕方。
夕飯の準備をしているとき。摩魚と亜沙里は、表から大きなエンジン音を唸らせながら赤とシルバーのツートンのバイクが駐車場に入り込んでいくのを、縁側から目撃した。それは大型二輪車で、排気量は1300ccはあろうか。亜沙里にはそのバイクの運転者が誰なのかすぐ分かったらしく、一瞬だけ微笑みを見せたのちに、ちょっと複雑な顔へと変わった。そして、摩魚にもその来客者が誰だか理解できた。
インターホンを鳴らした龍宮紅子が、亜沙里から迎え入れられて軽く挨拶を済ませてお邪魔をしていく。居間を通ったときに、盃戸蘭と一緒に配膳をしていた摩魚へと向けて微笑んで挨拶。紅子はフルフェイスを小脇に抱えて、昨日と同じシルバーのショルダーバッグを下げていた。女のその姿を見た摩魚は、格好いいと感じて見とれてしまった。
皆で囲った夕食も終わり、各々が時間を過ごしたあとに、それぞれが風呂へといくころとなる。
「今日は私から入るよ」
「うん。行ってらっしゃい」
極めて自然に摩魚を送り出す。
それを見計らったかのように、女三人が寛いでいた六畳間へ紅子はやって来た。服装は昨日と同じ赤い半袖シャツに、下は黒いジーンズパンツ。亜沙里に目線を送って、口を開いた。
「私も彼女と一緒に入るよ」
「え? も、もう始めるの?」
そうたずねていく亜沙里の横顔を、蘭は心配そうに見ていた。紅子は言葉を続けていく。
「ええ、始めるわ。あの子は処女だから、儀式のときに怖い思いをさせちゃ駄目でしょ? それまでに私が心も身体もほぐしてあげるのが役目。私は勤めを実行するだけよ」
そう言い終えて、浴室へと足を運んで行った。
海原摩魚は間違いなく処女であるが、未経験ではない。
数日前に浴室で見せた摩魚の言動が、亜沙里は気になっていた。まさかとは思うけど、潮干ミドリとすでに肉体的な関係も持っていたのではないのか?と。いや、あれは、ひょっとしたら他の女たちとも関係を持っているのではないかと疑惑がわいてきた。
と、そんなとき。
「亜沙里さん」
「え?」
盃戸蘭から心配そうな声で呼ばれた。
「どうしたの? なんか、急に元気がなくなったよ」
「え、いや……」
「うちの旦那と関係したことだものね。摩魚さん居なくなるんでしょ? 私も寂しいもん」
浴室。
摩魚は椅子に腰掛けて、身体に付いた石鹸の泡を手桶を使って洗い流していた。白く細い身体を、泡が滑り落ちていく。今日は自分で沸かしたが、我ながらなかなか良い湯加減だ。摩魚は、ここへと移動して来て軟禁生活を継続して送っているが、今まで勉強に費やしてしてきた時間と打って変わっていた。それは、当番でまわって来る家事炊事に洗濯といったもので、やるもやらされるも中学生のころ以来であり、彼女は心のどこかで充実感を覚えていた。
桶を床に置いて、感慨に耽る。
ーもうすぐ、みなもや亜沙里たちともお別れか。なんだか、寂しくなってくるな……。ーーーしかしこれで、私、ミドリちゃんのところに会いにいけるようになるのかな。あなたが現れてくる前に、私の方が先に“あなた”の元に行っちゃうかも。ーー
そして、生贄として消えた潮干ミドリへと想いを巡らせていった。
すると。
「摩魚ちゃん、ご一緒してよろしいかしら?」
「はい、どうぞ」
その声に気づいてガラス戸を見ると、そこにはスレンダーな女のシルエット。静かに戸が開けられて、龍宮紅子を招き入れた。その白い裸に、赤味がかった髪の毛が映えている。豊かな胸の膨らみと腰回りを持っているが、決して肥満体型などではなく、高い身長に見合った骨太さとメリハリの利いた美しいボディラインを描いていており、そして、脹ら脛まである長い髪も特徴的であった。その紅子の大きな特徴、亜沙里を超えるバストサイズに、摩魚は驚愕して目を見開いていく。
ーやっっば! やっぱデカすぎ!ーー
そんな摩魚の驚きを知らずに。
紅子が手桶に湯を汲んで、袈裟から浴びていく。
白く細い指を持つ手に石鹸の泡を付けて、身体中を撫でるように洗っていき、再び手桶に湯を掬い取って満遍なく全体に浴びせていって洗い落としていったあとにひと息着いた。その間の摩魚は、紅子のこの一連の動作に美しさと麗しさを感じて見とれていた。
そして、紅子が摩魚に稲穂色の瞳を流していく。
「摩魚ちゃん。今から、私のする質問に正直に答えていってね」
「はい。というか、なにがはじまるんです?」
「生贄の儀式までに、あなたの心と身体を“ほぐしておく”ことをするの」
「え? それって、つまり…………」
「つまり?」
「私が紅子さんと関係が持てるってことですか!」
「え? は? え?」驚愕、動揺。
「そういうことですよね」黒色の瞳がキラキラしだした。
「ええ、まあ、うん…………」ーまずい。私が恥ずかしくなってきた!ーー
このままではいけないと思い立ち、摩魚の顔に手のひらを見せて。
「お願い。話しを進めさせて」
「どうぞ」と、手を差し出す。
以上、仕切り直して。
軽く溜め息を着いたあと、紅子は摩魚の顔を見た。
「身体はもう洗った?」
「はい」
「男の人との経験は?」
「いいえ、一度も」
「そう。良かった。―――では、もう生理は過ぎたのかしら?」
「はい、終わったばかりです」
「オーケー」
このあと、紅子は決意して次の言葉を出していった。
「摩魚ちゃん。あなたは、儀式の日に龍海君に抱かれます」
「…………」言葉に詰まる。
「そうよね。好きでもない男にその身体を預けるのは嫌でしょう。しかし、これは蛇轟の好む“虹の鱗の娘”を捧げる為に必要なことなのよ。彼はね、清らかな娘の身体を蛇轟の力を借りてそれを貫く役割を背負っているの」
「そう、だったんですか」
静かに呟き、視線を手桶に落としていく。
これが神に捧げる儀式の一環かと納得はするものの、やはり嫌であった。かといって龍海は嫌いではない。しかし、今はもういないけれど、できれば私の好きな潮干ミドリにこの身体を託したかったなー、と頭の隅っこで考えていた。次に、この龍宮紅子の言葉にどこか引っかかるモノを覚えた。紅子が、教団の崇拝している蛇轟のことなど端から信じてなどいないことが、摩魚へと手に取るように分かったからだ。だとしたら、なんのために紅子は生贄の儀式の役目を続けているのか?
もしかしたら協力を“させられている”可能性があるか。
今度、確かめて聞いてみるかな。
「なるほど。あなたの想う人はちゃんといるのね」
紅子の言葉に我に帰って、慌てて目を合わせる。そのようなことは、この女に言っていなかったはずだが、それを早くも見抜かれた。
「ええ、まあ……」
赤くなった顔をそらして、後ろ頭を掻いた。
湯船からゆるゆると上がる湯気を見つめていく。
これを見ていた紅子は、胸の奥がズキッと痛んだ。
だが、感傷に浸ってはいけない。
私は勤めを果たさなければ。
唯一の身内、龍宮乙姫のために。
紅子が手のひらを顔の位置まで上げていった。
目の前でタオルを絞っている摩魚へ話しかけていく。
「摩魚ちゃん」
「はい」
「私の手に、あなたの手を重ねて」
「ええ」
その言葉に従って、手のひらどうしを重ね合わせる。それは、紅子の決意していた顔を見たからだ。今からなにが始まるかも分かっていた。
そのまま指を絡め合う。
紅子の手は柔らかくて、その指は摩魚の手を優しく包み込んでくれた。もう一方の手が摩魚の手を握り、肩へと移動していく。そして、片膝を突いたまま近づいてきて、少し強張った表情をしていた摩魚に声をかけた。それは、優しく言い聞かせるように。
「怖がらないで。私に安心して身を任せてちょうだい」
そして、女二人の口が重なり合った。
過去“虹の鱗の娘”たちは、蛇轟と胚瞳羅のために生贄として捧げられて幾つもの爪痕を刻まれてきた。
そして今、その運命を背負って生まれてきた摩魚が、新しい爪痕を刻まれていく。
避けては通ることの出来ない道を決意して歩み出した。
『大海獸ダゴン』第一部
完結
第二部へと続く。